源氏物語ゆかりの比叡山・延暦寺(写真: SUYA / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第32回は夫を亡くした紫式部が中宮・彰子に共感を抱いた理由を解説する。

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夫を亡くした式部に近づいてきた男

夫の藤原宣孝が急死してしまい、紫式部は娘の賢子とともに取り残された。

『紫式部日記』の「年ごろ、つれづれに眺め明かし暮らしつつ」(長い間することもなく、物思いに耽って夜を明かして、日暮れまでぼんやりと過ごしながら)の記述からは、半ば放心状態で日々を過ごしていた式部の様子が伝わってくる。

だが、女性がそんな状態のときにこそ、つけ入る隙がある――。そんなふうに考える、不届き者はいつの時代にもいるらしい。

式部が「私の家の門を叩きあぐねて帰っていった人が翌朝に詠んだ歌」として、次の歌を紹介している。

「世とともに 荒き風吹く 西の海も 磯辺に波は 寄せずとや見し」

(いつも荒い風が吹く西の海も、磯辺に波が寄せなかったことがあるのだろうか)

式部の家の門を何度も叩いたのに入れてもらえなかったようだ。

むなしく帰っていった男が、恨み言を言っているわけだが、式部はこう返している。

「かへりては思ひ知りぬや岩かどに浮きて寄りける岸のあだ波」

(虚しくお帰りになり、こういう女性もいるのだとおわかりになりましたか。岩角に浮いて打ち寄せた岸のあだ波のように、すぐに言い寄ってきたあなたは)

相手は女性とみれば寄ってくるような男だったため「自分はそんな口説きには乗らない」と、きっぱり断ったことがわかる。

しかし、この男、なかなかしつこかった。

「年返りて門はあきぬやといひたるに」(年が明けて、「門は開きましたか」と言ってきたので)、つまり「そろそろ私を迎え入れてくれますか」と新年早々やってきたので、式部はこう返事をしている。

「たが里の春のたよりに鶯の霞に閉づる宿を訪ふらん」

(ウグイスはどなたの春の里を訪れたついでに、霞の中に閉じこもる、喪中のこの家を訪ねて来たのでしょうか)

以降は歌のやりとりがみられないので、ようやく諦めたらしい。招かざる客の来訪に「ああ、夫がいてくれれば……」とさらに虚しさが胸に去来したことだろう。

物語によって式部自身が癒やされていた

紫式部が『源氏物語』を書き始めた時期については、よくわかっていないが「夫の死後で、かつ、宮仕えする以前」とする説が有力である。

友人同士で物語を作って見せ合っているうちに、本格的な執筆へと入ったのだろうか。


紫式部ゆかりの廬山寺(写真:farmer / PIXTA)

式部は『紫式部日記』で「<いかにやいかに>とばかり、行く末の心細さはやるかたなきもの」(心に思うのは<いったいこれからどうなってしまうのだろう>と、そのことばかり。将来の心細さはどうしようもなかった)と不安な胸中を吐露しながら、つらさをこんなふうに紛らわせたと書いている。

「はかなき物語などにつけてうち語らふ人、同じ心なるはあはれに書き交し、すこしけどほきたよりどもを. 尋ねてもいひけるを、ただこれを様々にあへしらひ、そぞろごとにつれづれをば慰めつつ」

(取るにたりないものでも物語については、同じように感じ合える人と腹を割った手紙を交わし、少し疎遠な方にはつてを求めてでも声をかけた。私はただこの「物語」というものひとつを素材にさまざまな試行錯誤を繰り返し、慰み事にして寂しさを紛らわしていた)

紫式部と比較されやすい、清少納言による『枕草子』もまた、成立背景はよくわかっていない。

だが、藤原定子の華やかなところのみを表現していることから、暗くつらい状況に陥った定子を勇気づけるために、書かれたものではないかといわれている。

そうであるならば、清少納言がたった1人のために書いた読み物が、時代を超えて今でも多くの人に読み継がれている、ということになる。

紫式部が寂しい気持ちを鎮めるために書いたとすれば、『源氏物語』もまた、もともとは、たった1人のために書かれたものだったということになる。

自分のために書いたからこそ、未曽有の長編物語になるほど続けることができ、結果的には、文学史に金字塔を打ち立てることになったのかもしれない。

そして、そんな『源氏物語』の評判を聞いた藤原道長から働きかけられて、式部は道長の娘・彰子に仕えることになる。

宮仕えが「恥さらし」とされたワケ

式部が彰子のもとに出仕したのは33歳〜34歳の頃で、寛弘2(1005)年、あるいは、寛弘3(1006)年の年末からだったとされている。

しかし、女性が他人の前に姿を現すことが珍しかった当時において、宮廷に仕えて、多くの人を取り次ぐ女房の仕事を「恥ずべきもの」とする風潮があったようだ。

藤原実資は長和2(1013)年7月12日付の『小右記』で、宮仕えについて、次のように評している。

「近頃は、太政大臣や大納言などの娘でも、父が死ぬと宮仕えに出るが、世間ではこれを嘆かわしいこととしている。末代の公卿の娘は先祖の恥さらしというものだ」

そこまで言われれば、当の女房たちだって反発したくなるというものだろう。

中宮の定子に仕えた清少納言は『枕草子』で「宮仕する人を、あはあはしうわるきことにいひおもひたる男などこそ、いとにくけれ」と書いて、宮仕えをする女性を「軽薄で悪いことだ」ととらえる男性のことを憎らしい、と恨み言を書いている。

それと同時に、女房たちはどうしても、本来は口にすることさえも恐れ多い天皇や、中宮など高貴な人たちと接することから、清少納言は世間から「みっともない」と言われることについて「げにそもまたさることぞかし」(それはもっともなことなのかもしれない)と、諦めの境地に達していたようだ。

もっとも清少納言の場合は、社交的な性格で、宮仕えを楽しんでいたことが『枕草子』からはありありと伝わってくる。それがゆえに、世間に何を言われても「憎たらしくは思うけれど、仕方がないかな」と流す余裕もあったのだろう。

陰気な彰子に式部が覚えたシンパシー

一方、式部は自分の性格を「埋もれ木を折り入れたる心ばせ」と評している。「埋もれた木」だけでも十分、引っ込み思案なのに、それを折って土に埋めるくらい、と自虐するほどだから、少なくとも社交好きではなかったのだろう。式部は宮仕えを始めたものの、数日で実家に帰り、3カ月も引きこもってしまった。

それでも「あまりものづつみせさせ給へる御心」(あまりにも控えめな性格)を持つ彰子に、どうしようもなく惹かれたようだ。式部は再び出仕し、彰子のそばにいようと決意するのであった。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)