第93回箱根駅伝4区を関東学生連合として出場した小山直城 photo by Jun Tsukida/AFLO SPORT

パリオリンピックマラソン代表・小山直城インタビュー 前編

 昨年のMGCで優勝し、パリ五輪の男子マラソン日本代表の座を獲得した小山直城(Honda)。レースでは冷静に状況を判断し、機を見て38キロから飛び出し、逃げきった。そのレース運びは見事というしかなく、パリ五輪での活躍も期待される。

 東京農業大時代、一度だけの箱根駅伝の経験はその後の競技人生にどういう影響を与えたのだろうか。そして、実業団で小山が目指す先とは――。

 埼玉県の松山高校3年時、全国都道府県対抗男子駅伝で4区区間賞の走りを見せ、埼玉県の優勝に貢献した小山は、東農大に進学した。

「東農大に行くことに決めたのは、ひとつは理系の大学で勉強をがんばりたいと思っていたからです。自分の力では将来的に実業団に行けるかどうかわからないので、どちら(現役、引退)に転んでいいように勉強もしっかりやっておきたいという気持ちが強かったんです。あとは、やっぱり箱根駅伝に出たいというのもありました」

 小山が箱根駅伝に興味を持ったのは、中学の頃だった。

「僕が陸上を始めた中学の時から箱根駅伝は目標の舞台でした。高校を経て大学で競技をつづけるなら箱根駅伝に出たいし、出られる大学に行こうと思っていました。東農大は、僕が高校3年の時、箱根の予選会で落ちてしまったんですけど、それまで(第84回大会から第90回大会)は7年連続で出場していたので、けっこう強かったんです。それに僕の高校の先輩もいたので、競技をする上では安心して取り組めると思っていましたし、先輩たちと箱根を走りたいと思っていました」

 入学した東農大では陸上に集中しつつ、学業にも積極的に取り組んだ。醸造科学を専攻科目として、酒や醤油など発酵食品などについて学んだ。

「陸上が続けられなかったら、その道もあるかなと思っていました」

 だが、それは杞憂に終わった。

 大学では1年時から頭角を現し、関東インカレ2部5000mでルーキーながら14分03秒65で5位入賞を果たした。

「関東インカレで入賞して、5000mとか短い距離でしたら自信があったんです。でも、10000mやハーフの距離に対しては、まだ不安な点がありました。高校から大学に入ったばかりでそんなに体力もなくて、その頃は5000mで精一杯でした」

 大学2年時には、箱根駅伝の予選会で好走し、93回大会箱根駅伝の関東学生連合のメンバーに選ばれた。4区を走り、10位相当の記録を残したが、小山はこの時のレースを鮮明に覚えているという。

「4区を走った時、前もうしろも相当離れていて、単独走になって勝負という感じにはならなかったんですけど、沿道の応援とかがすごかったのは今でも覚えています。個人的には、できれば1区を走りたかったですね。1区は、集団でまとまって走れるので、関東連合ですけど、他大学の選手と勝負ができるじゃないですか。そのほうが自分の良さが出るかなと思っていました」

 個人では箱根駅伝に出走したが、東農大のチームとしては、91回大会の予選会を突破できず8大会連続での箱根駅伝出場を逃していた。小山が1年時の92回大会の予選会は12位、2年時は13位に終わり、出場を果たせなかった。2年時に個人として箱根駅伝を走ったが、一度経験するとまた次も走りたくなるのが箱根の魔力であり、魅力でもあるが、小山も3年、4年と上級生になるにつれ、その気持ちがどんどん強くなり、なんとかチームとして出場できるように先頭に立ってチームを牽引した。

「自分が3年の時に監督が変わって、練習の方向性や内容、合宿地などが変わりました。でも、なかなかチームとして機能していなくて、強くなっていったという実感があまりなかったですね。そのなかで自分がチームのトップとして結果を出して引っ張っていくのを意識していましたが、自分ひとりの力ではどうにもならなかったです」

 学生のなかにはいろんな考えをもった選手がいる。箱根駅伝に出られなくても個人としての能力を高め、トラックで結果を残すことを目標にしている選手がいれば、大学のトップレベルの選手との力の差を感じ、どうせ勝てないと冷めた目で陸上を続ける選手もいる。小山自身は箱根への強い意欲と高い意識を持ち、同世代には塩尻和也(現・富士通)や森田歩希(現・GMO)ら非常に強い選手がいたので、彼らに対するライバル心もあった。

 この時、小山は、どういう思いで競技をしていたのだろうか。

「個人の部分では、もちろんテレビで見た強い選手に負けたくないという気持ちはありましたが、一方で塩尻選手とかとはレベルが違っていたので少し距離があるなと思っていました。ただ、自分は個人で何かを成し得ることよりも、狙いは本当に箱根駅伝だけ。箱根駅伝に出ることが一番の目標だったんです」

 今にして思えば、小山が箱根駅伝に一番近づいたのは、大学1年の時の予選会だった。この時、東農大は12位だった。

「予選会って、8番、9番、10番の選手がすごく大事になってくるんです。でも、チームの走力として、そこが足りなかったですし、何が何でも箱根に行くんだという熱も足りなかったですね。最初から諦めムードになっているというか......結局、自分たちの代は一度も箱根を走ることなく終わってしまった。一つ前の代から予選落ちして、そこからズルズル行ってしまったかなと思います」

 箱根はチームとして走れなかったが、小山個人としては4年の時、関東インカレ2部10000mで5位、5000mで2位という成績を収めた。1年時まだ自信を持てていなかった10000mでも学生トップクラスの走りを見せた。確かな成長の軌跡を見せたのは、日々の練習の取り組み方が大きかった。

「東農大では、自分で考えて練習をするという習慣を得ることができました。チームの練習だけじゃ大会で勝てないし、予選会でも走れないという危機感があったので、週2回のポイント練習以外のところでいろいろ考えてやっていました。例えば、朝練で普通は10キロだけど、自分は15キロを走って距離を踏んだりして月平均で700〜800キロは走っていたと思います。自分で考えるというのは、実業団に行ってからより大切になってくるので、そういう経験を大学時代にできていたのは自分にとってプラスでした」

 小山は最終的にチームで駅伝を走る夢は叶わなかった。中学時代から憧れ、夢見ていた箱根駅伝は、関東連合での1回で終わった。

 この1回の経験は、小山のその後の競技人生に何か影響を与えたのだろうか。

「箱根を1回だけ走って、今、実業団で走っていますけど、箱根を超える規模というか、大きな大会はないです。日本一大きな大会で、注目度も高い。自分はそれを経験したことで、先のことを考えるようになりました。箱根以上に大きい五輪や世界陸上を目標にして、世界や日本のトップクラスの選手と勝負したいと思うようになったんです」

 小山はそれから5年後、MGCに勝利。五輪への切符を掴むことになる。

 そのMGCで優勝した2023年、東京農大は高槻芳照(現・富士通)、並木寧音(現・SUBARU)ら4年生が軸となり、エースでルーキーの前田和摩が予選会で9位に入る快走を見せて、10年ぶりに箱根駅伝予選会を突破した。本大会は22位に終わったが、小山は自分が果たせなかった目標を実現した後輩たちを頼もしく見ていた。

「いやーもう羨ましいですよ。今のチームに入ってやりたかったですね」

 そう語る小山の表情には大きな笑みがこぼれていた。

後編>>「小山直城が語るパリオリンピックでの狙いとその後の目標」