(写真:Kiyoshi Ota/Bloomberg)

「こんな下げはこれまで経験したことがなかった」。東京都在住の40代の男性は肩を落とす。米国株中心に日本株や債券、暗号資産にも投資してきた。週明けの8月5日には目先の底と判断して暗号資産のイーサリアムを購入したところ、下落して損失確定売りを余儀なくされた。保有株の一部を事前に売却し利益確定していたが、焼け石に水。「これで今年の税金対策は完璧……」と自嘲ぎみに語る。

市場参加者が意識していた「サーム・ルール」

世界の金融・商品市場が大激震に見舞われた。日経平均株価は5日に前週末比4451円28銭安の3万1458円42銭と大幅に下落し、一気に昨年末の水準を割り込んだ。値下がり幅は「ブラックマンデー」翌日の1987年10月20日を上回り、過去最大を記録。欧米でも株価が軒並み値を下げるなど世界同時株安となった。

原油価格や暗号資産など他のリスク資産にも売りが殺到。日本株は6日に売り方の買い戻しなどが入って前日比3217円高と一転して過去最大の上昇を演じたが、金融市場は波乱含みの状況が続く。

今回の日本株急落の背景にあるのは、アメリカの景気の後退懸念の高まりや、外国為替市場での円高ドル安の進行だ。アメリカの労働省が2日に発表した7月の雇用統計では、非農業部門の雇用者数が前月比11.4万人増にとどまり、市場予想の同17.5万人を大幅に下回った。5月と6月の数字も下方修正。失業率は4.3%と市場予想の4.1%を上回り、いずれもアメリカの雇用市場の軟化を示唆する結果となった。

これを受けて、発表後のニューヨーク株式市場では取引開始直後から売りが膨らみ、ダウは前日比610ドル安と大幅に値下がりした。

市場参加者の間で意識されていたのが「サーム・ルール」である。アメリカの経済学者のクラウディア・サーム氏が考案した指標で、失業率の過去3カ月の移動平均が過去12カ月間の最低値から上方へ0.5%乖離すると経験則上、景気後退(リセッション)局面入りするというものだ。7月の失業率が4.3%へ上昇したことで、「同ルールのシグナルが点灯した」と多くの市場参加者が受け止めた。

これまでは「バッドニュース」イコール「グッドニュース」。つまり、景気の足踏み状態を示す経済指標が公表されると、連邦準備制度理事会(FRB) による利下げ期待が高まって株価上昇を後押しする材料になっていた。だが、ここへきて投資家心理が弱気へ傾くのに伴い、「バッドニュース」イコール「バッドニュース」とみなされるようになった。

円高も逆風だ。日経平均は昨年末から7月につけた終値ベースの史上最高値4万2224円まで約26%の上昇。これに対して、ニューヨーク・ダウは昨年末から7月の高値まで同10%の値上がりにとどまる。「日本株の上昇は米国株高と円安でほとんど説明がつく」(シンクタンクのクオンツアナリスト)。

円高で日本企業の業績に下振れ観測

円高へ振れたことで、日本の企業業績の上方修正期待が後退。海外勢の「円売り・日本株買い」トレードを手仕舞う動きなども活発化し、株価の下落幅を大きくした。

トヨタ自動車の2025年3月期業績見通しの前提となるドル・円レートは1ドル=145円。日本製鉄は同3月期の前提レートを期初の同145円から153円へ引き上げた。一方、ドル・円相場では一時、141円台まで円高が進行した。為替相場の状況次第では今後、業績の下振れ観測が高まり、つれて株式相場がさらに下押すシナリオもありうる。

円高をめぐって市場関係者には、日銀が7月に利上げを決めた金融政策決定会合後の植田総裁の記者会見によって加速されたとの見方が少なくない。会見で同総裁は円安が物価を押し上げる可能性について、「上振れリスクがかなり大きい」などと政策判断の材料の1つにしたことに言及。追加利上げの可能性も示した。

ところが、4月の同会合後の会見では、円安に関して「基調的な物価上昇率に大きな影響は与えていないと判断した」などと説明していた。円安を強く牽制する発言をしなかったことが一段の円安進行につながった経緯がある。

植田氏の「タカ派への急変」(エコノミスト)に戸惑った市場。SMBC信託銀行プレスティアの山口真弘・投資調査部長は「潜在成長率が低くインフレが高進していないにもかかわらず、利上げへのハードルを下げるのはどうなのかとの疑問から、低金利通貨の円を売ってドルなどを買うキャリートレードの巻き戻しが活発化した」と話す。

7日には北海道・函館で開かれた金融経済懇談会に出席した日銀の内田副総裁が「金融資本市場が不安定な状況で利上げすることはない」と明言したのを受けて、株式相場が急伸。日銀の政策委員会メンバーの発言には当面、神経を尖らせざるをえない。 

注目は8月下旬の「ジャクソンホール会議」

アメリカの景気動向も株価の行方を大きく左右しそうだ。今後、発表される経済指標に大きく左右される展開も考えられる。特に、8月22〜24日に開催される経済シンポジウム「ジャクソンホール会議」は例年にも増して注目が集まりそう。FRBのパウエル議長の講演が最大の焦点だ。

足元のリセッション入りへの警戒感の高まりを受けて、市場では年内に3回の利下げシナリオが勢いを増す。しかも、米金利先物の動きから金融政策変更の確率を判断するフェドウォッチによると、9月の連邦公開市場委員会(FOMC)での0.5%利下げの織り込みが進む。1週間前の7月30日には約13%の確率だったのに対し、6日時点では同76%まで上昇した。

もっとも、前出のサーム・ルールの生みの親であるサーム氏は、アメリカのCNBCテレビのインタビューに対し、「アメリカの景気は減速しているが後退の領域には入っていない。1つのルールだけに頼ってはいけない」と答えた。市場関係者の間でも「FRBが適切な対応をすれば軟着陸(ソフトランディング)は可能」(国内証券)との予測が依然として優勢だ。

つまり、アメリカ経済のファンダメンタルズが急速に悪化したわけではなさそう。国内景気を取り巻く環境もしかり。利上げを急ぐ状態にはない。

だが、米国株は画像処理半導体(GPU)大手のエヌビディアなどいわゆる「マグニフィセントセブン」への過度の物色集中がかねて指摘されていたにもかかわらず上昇した。日本株も「円売り・日本株買い」の活発化で日経平均が4万2000円台まで急騰。株式相場の大幅な値下がりは短期筋や海外のヘッジファンドなどの持ち高調整の動きが広範に及んだのが主因と言えそうだ。

「理由のない値上がりの後に、理由のない値下がり局面を迎えた」(SMBC信託銀行プレスティアの山口氏)ようにも見える。

ただ、株価の急落で大きな痛手を負った投資家が多いのは確かだ。11月のアメリカ大統領選の行方が相場に及ぼす影響もきわめて流動的。7月のトランプ前大統領の銃撃事件を機に市場で広まった「ほぼトラ」や「確トラ」ムードは薄らぎ、ハリス民主党大統領候補の勝利を予想する「もしハリ」が取り沙汰されている。相場全般の乱高下には引き続き、注意が必要だ。


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(松崎 泰弘 : 大正大学 教授)