レバノンとイスラエルの国境地帯。ヒズボラは継続的にイスラエルに対してロケット弾などで攻撃している(写真:Kobi Wolf/Bloomberg)

パレスチナのイスラム組織ハマスの最高幹部イスマイル・ハニヤ氏が滞在先のイランの首都テヘランで暗殺されたのを受け、イランはイスラエルが関与したとして報復を宣言している。レバノンでもイスラエルに司令官が暗殺されたイスラム教シーア派組織ヒズボラが報復を誓っており、ガザ地区でのハマスとイスラエルの戦闘が中東各地に本格的に波及する懸念が高まっている。

外務省がレバノンを「退避勧告」に

イランや影響下にあるヒズボラなど親イラン勢力によるイスラエルへの報復は「秒読み」段階にあるとされ、日本の外務省は8月5日にレバノンの危険情報を引き上げて「退避勧告」を、イランにも「渡航中止勧告」をそれぞれ出した。

イスラエルやイラン、レバノンで商用便の運航停止が相次ぎ、中東戦争前夜のような緊張感も漂う。ただ、全面的な戦争拡大を阻止しようと外交工作も活発化しているほか、強大な軍事力を誇るイスラエルを警戒してイランやヒズボラの報復は、全面的な戦争に発展しないよう抑制されたものになるとの予測もある。

昨年10月7日のハマスによるイスラエル南部襲撃では市民を中心に約1200人が殺害され、「暗黙のルール」を破ったハマスによるイスラエルへの史上最悪の攻撃となった。

イスラエルのハマス掃討作戦もそれに相応した形となり、ガザ地区では約4万人が死亡する凄惨な展開をたどっている。イスラエルとパレスチナの対立は、イスラエル側が倍返し以上の報復行動に出てきた歴史もあり、ガザ地区全域が壊滅的な被害を受けることになった。

これに対して、イランやヒズボラとイスラエルの対立は、概ね暗黙のルールの範囲内にとどまっている。ハマスの呼び掛けに呼応してヒズボラは昨年10月8日にイスラエルへの攻撃を始めたが、同国北部国境地帯や軍事施設を標的とし、イスラエルが「レッドライン」とする北部の都市ハイファや商業都市テルアビブは攻撃対象としていない。

緊張が一気に高まるきっかけになったのは、イスラエルが占領するゴラン高原の町マジュダルシャムスにロケット弾が着弾し、12人が死亡した事件。ヒズボラは関与を否定したが、イスラエルはレバノンの首都ベイルートのヒズボラ拠点を空爆してフアド・シュクル司令官を殺害した。

その数時間後にはイランの首都テヘランを訪問中だったハニヤ氏が暗殺され、ハマスを支援するイランの最高指導者アリ・ハメネイ師は報復を宣言した。

メンツを潰されたイラン

イスラエルは2008年にも、ヒズボラの対外作戦司令官イマド・ムグニエ氏をシリアで暗殺している。イランでも2020年に著名な核科学者モフセン・ファクリザデ氏が暗殺されている。

ただ、今回はシュクル氏がベイルートで暗殺されたほか、ハニヤ氏はイランの精鋭部隊、革命防衛隊が管理する政府施設の滞在中に殺害されており、双方ともお膝元での警備や情報管理の脆弱性を露呈し、メンツを潰された格好だ。

これまでのところ、両者のイスラエルとの応酬は、全面戦争を招かないよう慎重に計算されている。イランは4月に在シリア・イラン大使館が空爆され、革命防衛隊幹部らが殺害された報復としてのイスラエル攻撃でも、軍事基地を標的として弾道ミサイルやドローンなど300発・基を投入したものの、市民の犠牲を出さないようにアピール効果を狙ったものだった。

等価報復の原則からすれば、イスラエルの指導者らを暗殺するのが妥当だが、イランやヒズボラにはイスラエル対外情報機関モサドやイスラエル軍に比肩するような情報収集能力や携帯電話の盗聴などの技術力はない。

ヒズボラとしてはイスラエルがレッドラインとするハイファなど都市部を標的として、これまで以上にインパクトのある報復を行うことを検討しているとみられるが、紛争が拡大するのも回避したいところだろう。

イランは4月に行ったイスラエルへの報復攻撃では市民の犠牲を出さないよう居住地域から離れた場所にある軍施設を狙っているが、今回も同じような場所を狙えばインパクトに欠けるため、テルアビブなど都市部にある軍関連施設が標的になるとの見方もある。

イスラエル「レバノンを石器時代に戻す」

ただ、イスラエルも攻撃された場合には報復すると警告しており、ヒズボラとイランも慎重に標的は検討せざるを得ない。イスラエルはガザ戦争での軍事力行使のハードルが大幅に下がっている。

イエメンのシーア派系ザイド派のフーシ派によるテルアビブへのドローン攻撃では、イスラエルはイエメンの港湾都市ホデイダの発電所や燃料貯蔵施設を狙い、民間人1人死亡に対して過剰とも思える報復行動に出ている。

イスラエルは「レバノンを石器時代に戻す」とし、ヒズボラの行動次第ではベイルートなどを激しく空爆する可能性を示唆している。イエメン情勢に詳しい専門家によると、イエメンではイスラエルを挑発的に攻撃するフーシ派に対して、ハマスとイスラエルの対立に過度に介入し、イスラエルの報復攻撃を招いて国民生活を圧迫しているとの批判が一部の国民から上がっているという。

経済的に困窮するレバノンもイエメンと似たような状況だ。本質的にはハマスとイスラエルの問題である対立に本格参戦し、レバノンを戦場に変えてしまうことを多くの国民は望んでおらず、政治組織として国政でも活動するヒズボラもそうした事情を理解している。

2006年にイスラエルとヒズボラが本格的に交戦したレバノン戦争では国土が激しく荒廃したことも生々しい記憶として残っていることも大きい。

紛争拡大望まないイランの事情

イランにもイスラエルとの全面的な戦争を望まない事情がある。大統領就任式に出席するためイランを訪問していたハマスの最高幹部を暗殺されてメンツを潰されたが、根幹にはイスラエルとハマスの対立があり、イランとしても本格的に紛争を拡大させるのには及び腰だろう。

保守的なイランの宗教体制は国民を弾圧・抑圧することで成り立っており、国民生活に打撃となるイスラエルの軍事行動を招く報復を国民は望んでいない。

イスラエルは情報戦で優位に立ち、イランの内部に情報網を構築してスパイを送り込んでいることがハニヤ氏暗殺からも明らかだ。「イランには反体制派や現体制に批判的な国民も多く、イスラエルに協力しようとするイラン人を確保するのは容易だ」と専門家は指摘する。

イスラエルと戦火を交えることになれば、国民生活や経済への影響も広がり、何らかのきっかけで反体制デモにつながるなど体制動揺の引き金となりかねない。ハマスの最高幹部が暗殺されたことに報復しなければ、支援する中東各地の民兵勢力に示しがつかないが、イスラエルとの本格的な戦争に発展させる理由や動機に乏しいというのも実態だ。

イラン外務省報道官は5日、「イランは中東地域の安定を希求しているが、これは侵略者を罰し、シオニスト体制(イスラエル)の冒険主義への抑止力を構築することで実現する」と指摘し、紛争を拡大させる意図はないとのメッセージを発している。

最悪のシナリオは

徐々にイスラエルとイランやヒズボラなど中東の反イスラエル陣営との緊張は高まっている。イスラエルのメディアは、ヒズボラが最初に報復攻撃を開始し、イランが情勢推移を見ながら自らの報復内容やタイミングを判断するとイスラエル当局は見ていると伝えている。ヒズボラの報復は軍事的な標的を中心的に狙うが、民間人も危険にさらす可能性があると分析しているという。

ヒズボラの報復攻撃で民間人の大きな犠牲が出た場合、イスラエルは首都ベイルートや空港などを空爆、ヒズボラは戦闘員をイスラエル北部に越境させ、イスラエル軍がレバノン南部に地上部隊を侵攻させる本格的な戦争に発展する恐れがある。

その場合、フーシ派のほか、シリアやイラクの親イラン勢力も介入し、イスラエルと反イスラエル陣営の全面的な戦争になる事態も考えられる。

そうなれば、ガザ地区で見られるような惨劇がレバノンなどでも繰り返されることになり、イスラエル側でも民間人を含めた被害が拡大する可能性がある。イランやヒズボラの報復内容次第では、中東は全面戦争の瀬戸際に立つことになりそうだ。

(池滝 和秀 : ジャーナリスト、中東料理研究家)