作家デビューしたまひろ、娘に原稿を燃やされスランプに…大河ドラマ「光る君へ」8月4日放送振り返り

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清少納言(ファーストサマーウイカ)の記した『枕草子』に心奪われてしまった一条天皇(塩野瑛久)は、中宮・藤原彰子(見上愛)に見向きもしてくれません(彰子も悪いのですが……)。

このままでは自分の地位が確立できない、何か『枕草子』に対抗できる物語はないか……悩んでいる藤原道長(柄本佑)に、面白い物語を書く女性がいると藤原公任(町田啓太)が耳打ちします。

一方まひろ(紫式部。吉高由里子)は好評連載中?だった「カササギ語り」の原稿を娘の藤原賢子(福元愛悠)に燃やされてしまい、スランプに陥ってしまいました。

そこへ道長がやってきて……という第30回放送「つながる言の葉」。いよいよ次回あたりから『源氏物語』に着手するのでしょうか。

今週も気になるトピックを振り返っていきましょう!

第30回放送「つながる言の葉」関連年表

雨乞いの様子(イメージ)

夫・藤原宣孝(佐々木蔵之介)の死から、いきなり3年が経ったので、この期間も一緒に振り返っておきたいと思います。

長保4年(1002年)まひろ33歳&賢子4歳

6月3日 一条天皇が寵愛していた御匣殿(定子の実妹)が死去。6月13日 和泉式部の恋人・為尊親王(冷泉天皇の第三皇子)が死去。8月3日 居貞親王妃・藤原原子(定子の実妹)が死去。

長保5年(1003年)まひろ34歳&賢子5歳

3月3日 春日大社に天押雲根命(藤原氏祖神・天児屋根命の御子神)が出現。5月15日 道長が歌合を開催11月 宇佐八幡宮の神人(じにん)らが大宰権帥・平惟仲の暴政を訴える

長保6年(1004年。寛弘元年)まひろ35歳&賢子6歳

1月11日 藤原惟規が少内記に任官する7月10日 一条天皇が清涼殿の庭中で雨乞いを行う7月14日 安倍晴明が五龍祭を奉仕した結果、大雨が降った7月20日 寛弘に改元8月20日 道長が一条天皇に『群書治要』十帖五十巻を献上閏9月12日 藤原公任が道長を訪ねて談話

定子亡き後、一条天皇は妹の御匣殿(みくしげどの)を寵愛していました。遺児たちを育てる姿に魅力を感じたようです。

劇中「朕の思う女性は定子だけ」と言っていたような気がしましたが、あれは気のせいだったのかも知れませんね。でもできれば、御匣殿のことも思い出してあげて下さい。

藤原定子の死後、一条天皇から寵愛された定子の妹「御匣殿(みくしげどの)」とはどんな女性?【光る君へ】

ちなみに冒頭で寛弘元年(1004年)と字幕が出ていましたが、雨乞いの時点ではまだ改元前の長保6年(1004年)です。

説明がややこしいため、その辺は大目に見てください。

あかね(和泉式部)初登場!

恋多き女性として浮名を流した和泉式部。彼女を紫式部はどう思っていたのか……。

「先生は歌を詠む時、そんなに難しいことをお考えなんですかぁ?私は思ったことをそのまま歌にしているだけですけれど」

私って、天才肌なのぉ〜と言わんばかりに現れたあかね(泉里香)。いえ、別に聞いてませんが。

何ともケバくて残念な感じに仕上がりましたね。

当時は敦道親王(あつみち。冷泉天皇の第四皇子)と熱愛中。ちなみにその兄である為尊親王(ためたか。同第三皇子)とも恋仲でしたが、一昨年(長保4・1002年)に死別しています。

この時点で夫(橘道貞)と一人娘(小式部内侍)がおり、夫とは不倫発覚後も婚姻関係が継続していました。

為尊親王と不倫した時点で父親からは勘当されており、また敦道親王は彼女を自宅に招こうとしたため正室の藤原済時女(なりときの娘)は怒って出ていきます。

敦道親王との間に男子(岩蔵宮。のち永覚)を生みますが、寛弘4年(1007年)にまたも死別してしまいました。

他にも源雅通(まさみち。源雅信の孫)や治部卿(じぶきょう。源俊賢?)との関係も噂されるなど、そりゃ道長も「うかれ女」と評する訳です。

後に道貞と離婚し、長和2年(1013年)ごろに道長の家司・藤原保昌と再婚しました。

以降の消息については不明ですが、一説には保昌にも捨てられてしまったとも言われています。

ちなみに紫式部は自身の日記『紫式部日記』で、彼女をこう評しました。

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほひも見えはべるめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠みそへはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにははべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。

※『紫式部日記』より

【意訳】和泉式部とは親しく文通していたこともありますが、その振る舞いには感心しません。
言葉のセンスは悪くないと思います。天才肌を気取っているようですが、古典の知識や和歌の理論を勉強していない言い訳ではないでしょうか。
それでもいくつか詠ませてみれば、一首くらいはマシな作品があります。が、正直なところ他人様の和歌を批評できるレベルではありません。
世間の人々は天才歌人ともてはやしているようですが、とてもそうは思えないのです。

……とのこと。ざっくり「たまにセンスのよいことを言うからとりあえず友達づきあいしているけど、内心では見下している」と言ったところでしょうか。

本作の「まひろ」も「けしからぬかたこそあれ」五十歩百歩だと思うのですが……。

今後二人がどんな関係を築いていくのか注目しましょう!

紫式部さん、和泉式部や清少納言をボロクソに!『紫式部日記』から垣間見える文通エピソード【光る君へ】

右大臣・藤原顕光は本当に無能だったのか?

又やらかして、うろたえる?顕光(イメージ)

劇中「困った、困った」しか言わない藤原顕光(宮川一朗太)。右大臣という重職にありながら、面倒ごとは道長に丸投げしてばかりのようです。

ちなみに当時の公卿は以下のメンバーで構成されていました。

左大臣:藤原道長
右大臣:藤原顕光
内大臣:藤原公季
大納言:藤原道綱・藤原懐忠
権大納言:藤原実資
中納言:平惟仲・藤原時光・藤原公任
権中納言:藤原斉信・源俊賢・藤原隆家
参議:藤原有国・藤原懐平・菅原輔正・藤原忠輔・藤原行成・藤原正光

※寛弘元年(1004年)時点

顕光は長徳2年(996年)に拝命してから、長和6年(1017年)に左大臣となるまで、20余年にわたり右大臣を務めてきました。

道長の全盛期にありながら右大臣の地位を死守するのは並大抵ではなかったはずです。

とかく失態が多く、公卿たちから笑いものにされた顕光ですが、単なる無能者ではなかったのでしょう。

藤原実資(秋山竜次)からは「失態を書き連ねたら筆が潰れるほど(意訳)」などと酷評されていますが、これについても見解が分かれます。

当時の有職故実(ゆうそくこじつ。貴族社会の儀礼作法)は諸流派で見解が分かれており、実資は自家・小野宮流に反した場合に批判していました。

同様の批判は能臣として活躍した藤原斉信(金田哲)にも向けられており、一概に顕光だけが無能ではなかったようです。

また顕光の失態は、その多くが道長に関連する儀礼におけるものであることから、道長に対する牽制の意味があった可能性も指摘されています。

ただし能力を秘めていたかも知れないにせよ、それが政治に活かされなければ意味がありません。

こういうタイプは現代でも、職場や町内会にPTAなど、色んなところにいますよね。

大バカのまた大バカだ!散々に罵倒された藤原顕光(宮川一朗太)は本当に無能だったのか?【光る君へ】

藤原惟規が務めている内記って?

気が向いたので、職務にいそしむ惟規(イメージ)

為時「内記の務めはどうだ?」

惟規「どうってことはありませんよ。淡々と過ぎていくだけです」
「これでも左大臣様直々に位記の作成を命じられたりしているんですよ」

長保6年(1004年。寛弘元年) 1月11日に少内記(しょうないき)となった藤原惟規(高杉真宙)。相変わらずのんびりマイペースに過ごしていました。

内記(ないき、うちのしるすつかさ)とは内務省(なかつかさしょう)に属し、天皇陛下の詔勅や宣命、行動記録や位記の作成などを担当しました。

しかし内記には天皇陛下のプライベート空間である内裏に立ち入る権限がないため、天皇陛下との接触機会が少なく仕事が円滑に進まない状態が続きます。

やがて蔵人所が創設されると天皇陛下は接触機会の多い蔵人らを通じて勅旨を下すようになりました。

内記は新たな職掌≒存在価値を与えられないまま、太政官の命令を起草する外記(げき、とのおおいしるすつかさ)に吸収されてしまいます。

そんな内記は以下のメンバーで構成されていました。

大内記(正六位上)定員1名
少内記(正七位上)定員2名
史生(無位)定員4名
※大同元年(806年。延暦25年)まで中内記が存在。正七位上に相当、定員は2名。廃止後に史生が設置される。

劇中では「寝坊したから出勤するのがめんどくさくなった」と相変わらずな惟規。父・為時のため息に同情してしまいます。

実際の惟規はもう少し真面目だったとおもいますが、今後も彼の活躍に期待しましょう。

小ネタちょいちょい

紫式部の曾祖父・中納言兼輔こと藤原兼輔。狩野尚信筆

第30回放送「つながる言の葉」では、小ネタがちょいちょい入っていましたね。いくつかピックアップしておきます。

まひろ「和歌は人の心を種として、それがさまざまな言の葉になったもので……」

これは『新古今和歌集』仮名序(紀貫之)の解釈です。

やまとうたは、人のこゝろをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。よの中にあるひとことわざしげきものなれば、心におもふ事を、みるものきくものにつけていひいだせるなり。はなになくうぐひす、みづにすむかはづのこゑをきけば、いきとしいけるものいづれかうたをよまざりける。ちからをもいれずしてあめつちをうごかし、めに見えぬおにかみをもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきものゝふのこゝろをもなぐさむるはうたなり。(以下略)

【意訳】……(劇中で言及の部分は割愛)……花にとまるウグイス、水にすむ蛙(かはづ)の声を聞けば、生命あるすべてが歌を詠まないことはない。力を入れずに天地を動かし、鬼神さえも感動させ、男女の絆を深め、荒々しい武士(もののふ)の心を慰めるのが和歌である。

……和歌とは何たるかをいかんなく表した名分として今日に伝わっていますね。

人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな

【意訳】親心は闇ではないが、子を思うと道に迷ってしまうものだ。

これは紫式部の曾祖父・藤原兼輔が詠んだ和歌。『源氏物語』で26回も引用されるほど気に入っていたようです。

まひろが生まれた時点ではとっくに落ちぶれていたものの、兼輔の代は中納言にまで昇っており、往時を羨んだのかも知れませんね。

藤原頼通「敢えて問う、兵は率然の如くならしむべきか。曰わく可なり。夫(それ)呉人(ごひと)と越人(えつひと)の相悪(にく)むや、其の舟を同じく済(な)りて風に遇うに当たりては、其の相い救うや左右の手の如し」

『孫子』の故事成語「呉越同舟(ごえつどうしゅう)」を勉強しています。日ごろは憎みあっていても、同じ舟に乗って嵐に遭えば、左右の手のごとく助け合う喩えです。

頼通もいつか、呉越同舟の事態に直面するのでしょうか。

第31回「月の下で」は8月18日(日)放送!

安倍晴明「今、あなた様のお心の中に浮かんでいる人に会いにお行きなさいませ。それこそがあなた様を照らす光にございます」

安倍晴明に勧められてまひろを訪ねた道長。そこで「我が子」藤原賢子と初対面……と思ったら、そう言えばおじじ様とお出かけでしたね。

逆に「水入らず」で話せて好都合……って、絶対に勘づかれますよね?奥様方に。

次回「月の下で」二人はロマンチックな逢瀬を楽しみ、一方家庭内は修羅場……な展開なのでしょうか。

そして皆さんお待ちかね「いづれの御時(おおんとき)にか」……ついに『源氏物語』が世に出るようです。

まひろ「おかしきことこそめでたけれ」
道長「直秀も月におるやも知れんな」

次週はお休みなので、再来週の修羅b……展開を心待ちにしましょう!

トップ画像: 大河ドラマ「光る君へ」公式サイトより