パリオリンピック陸上・田中希実が「泣きながら電話をかけてきた日」 ランナーの母が明かす家族だけに見せる素顔
田中希実は家族には、時にきつい言葉で感情を発散することで、バランスを整えている photo by 長田洋平/アフロ
陸上女子1500mと5000mのパリオリンピック代表、田中希実(24歳/New Balance)の母親の千洋さんが、インタビューに応じてくれた。田中はメディアの取材や公の場でもしっかりと話ができる選手だが、「家庭ではまったく違う」と千洋さんも、父親の田中健智コーチも話す。それは決めたことは絶対にやり抜く田中の性格や、思うように走れなかったときに、自身の不甲斐なさを愚痴にして発散していることも関係している。
先に行なわれた5000mでは、決勝進出まであとひとつの順位で予選落ちをしてしまった。残るは1500m、そんなときこそ家族の絆が欠かせない。
母・千洋さんが語る田中希実 前編
【23年DLファイナルで見せた"甘え"】昨年のダイヤモンドリーグ(以下DL)ユージーン大会のエピソードが、田中ファミリーの特徴を物語っていた。
田中希実は昨年8月の世界陸上選手権ブダペスト大会5000mで8位(14分58秒99)に入賞。予選では14分37秒98の日本新記録をマークした。続く9月8日のDLブリュッセル大会では14分29秒18と、再び日本記録を更新して自身のDL最高順位の3位に。そして9月17日のDLユージーン大会への出場が決まった。
ユージーン大会は23年のDL最終戦。年間を通して好成績を続けた選手たちが一堂に会し、最終戦の順位で年間チャンピオンが決まる。だが、そんな大事な大会を前に、田中は発熱してしまった。帯同している父親の田中健智コーチやトレーナーら、"チーム田中"のメンバーと対応策を練りながら、日本にいる母親の千洋さんにも田中は相談していた。千洋さんは市民ランナーながら北海道マラソン優勝2回と、日本トップレベルのランナーで競技的なアドバイスもできる。
そのときの様子を千洋さんが話してくれた。
「たぶん先頭は世界記録狙いで走るから、(体調次第では)1周抜かれる可能性もありました。2回連続で日本記録を出したのに、シーズン最後の大きなレースで周回遅れになった記憶が残ったら、希実も嫌なんじゃないかなって。希実は『今後成長するためにも、生きて帰れるようにだけ、(限界まで)頑張る。希実は父ちゃんと母ちゃんの子やから、絶対大丈夫やで』と言って出場しました。自分が納得できる、走って良かったって言えるなら走ればいいんじゃない、って思っていました。後からクヨクヨ言ってほしくなかったですからね」
田中はエントリーしたレースには必ず出場する。個人種目で欠場したのは過去に一度、2022年の木南記念だけしかない。多くのレースに出場して状態を上向かせていくのが田中のスタイルで、「練習とレースの答え合わせ」(健智コーチ)をして、その結果で練習を変更していく。競技的にはそれが理由になるが、一度決めたことを変えるのが嫌な性格、ということも大きな理由のような気がする。
ユージーンのレース前も少しの熱なら出場することを決めていた。「熱があると私に言ったら『やめろ』と言われるのがわかっていて、(希実は)言ってくるんです」。千洋さんにやめろと言ってもらって、やっぱり出たいと自分の思いを確認する、気持ちを奮い立たせる。家族だから見せられる"甘え"かもしれない。千洋さんと話した効果が表われたのか、田中は6位入賞。タイムも14分42秒38と、世界陸上ブダペストで田中自身が塗り替える前までの日本記録(廣中璃梨佳が2021年に樹立した14分52秒84)を上回った。
「後からクヨクヨ言う」のは、今季では5月のDLドーハ大会がすごかったようだ。昨年の世界陸上ブダペスト5000m入賞者のため、パリ五輪参加標準記録(14分52秒00)を突破すれば代表が内定した(日本陸連の選考条件)。しかし15分11秒21で11位。ここでパリ五輪出場を決めることはできなかった。
「レース後に泣き声で始まる電話をしてきました。それでも気持ちの整理がつかなかったようで、翌日の帰国の出発までホテルで時間があったため、夫(健智コーチ)と話した後、なぜ走れなかったのか、私とも電話で1時間以上話をしました。話しているうちに気持ちが落ち着いてきて、最後は『調子は悪くないから次に向けて頑張る。ありがとう』と電話を切りましたね」
千洋さんたち家族が田中の"甘え"を最終的には許容することで、田中の世界への挑戦を支えている。
【「決めたことはやらないと気が済まない子でした」】
田中希実は、幼少期から両親と共に走ることに親しんでいた 写真提供/ご家族
千洋さんは1997年の北海道マラソンで、市民ランナーながら優勝しているが、実業団選手として3000m障害などで活躍した田中健智コーチが、千洋さんの練習パートナーだった。ふたりは1997年10月に結婚。1999年に長女の希実を出産し、2002年名古屋国際女子マラソン(現名古屋ウィメンズマラソン)では2時間29分30秒と、日本人経産婦選手として初の2時間30分突破を果たした。
千洋さんは2003年に2度目の北海道マラソン優勝を飾り、2005年には次女の希空(のあ)さんを出産。希空さんは現在、京都光華女子大2年で昨年の全日本大学女子駅伝にも出場している。田中家は家族4人全員がランナーで、姉妹は小さい頃から両親と一緒にレースを走っていた。
「親子マラソンによく出ていましたが、無理矢理は嫌だったので『走らなくてもいいよ』と何回か言ったことがありました。でも希実は『走るっ!』って言って必ず走っていましたね。走るたびに成績が良くなったので、その頃は一緒に走ることが楽しかったです」
ランニング以外でも、「決めたことはやらないと気が済まない子」だった。「ボタン付けを私が代わりにやってあげようとしたら、『自分でやる』と言って私の手をはたいて。一度決めたことは絶対にやり通しますし、曲げたりしない子どもでした」
その性格はランニングでも変わらなかった。近年は健智コーチと話し合って練習メニューを変更することもあるが、以前は設定タイムや本数など、やると決めた練習は必ずやり遂げた。精神面で家族に"甘え"を見せることはあっても、トレーニングや日常生活における甘えはいっさいない。「私は調子が悪かったら『あかんわ』と夫に言って、3本を2本にしたりしていましたが、希実は変更するのを嫌がります」と千洋さん。
その性格が、アスリートとしての田中をここまで成長させた。中学3年時の全日中1500m優勝を皮切りに、高校時代は全国タイトルこそ獲れなかったが上位入賞を続け、大学1年(学連非登録)時の2018年にはU20世界陸上3000mに優勝。2019年以降は世界陸上とオリンピックすべてに出場している。日本記録は1500mで4回、5000mで2回更新。1500mは21年東京五輪で8位に、5000mは昨年の世界陸上ブダペストで8位に入賞した。
しかし競技成績が上昇しても、千洋さんの思いは複雑だ。「夫も私も普通の親として応援したかったんです。競技者を近くで支える存在ではなく、指導は外部の方に任せて。それでオリンピックに2回も出場できていたら、大喜びで応援に専念していたと思います」
千洋さんは小野高校時代に兵庫県でトップクラスの選手だったが、高校卒業後、5年間は競技を離れていた。しかし走ることへの思いが募り、市民ランナーとして活動を始めた。マラソンで日本トップレベルに成長するには当然、ハードな練習もこなしていた。だが気持ちのどこかで走ることを楽しむ余裕があった。
田中も走ることが好きであるのは間違いないが、「何のために走っているのかわからなくなる」とこぼすことも増えたし、「この走りでは自分ではない」ということも口にする。妹の希空は競技レベルこそまだ低いが、自己ベストを目標に努力し、レースで思うように走れなくても切り換えが早い。前向きに走ることを楽しむ姿勢は千洋さんに近い。
「小、中、高の時からずっと変わらず思っているのは、『こけないで、ケガしないで』ということです。妹の希空もまったく同じで、それが一番です。希実は私からしたら、そんなこと絶対に無理や、と思うことをやり遂げてきました。家では小学校の頃から何も変わっていないのに、外では(競技では)無理という概念を覆す選手になっていました」
2023年に実業団チームを離れてプロになったことで、田中がさらに「自分が結果を出さないと周りが大変になる」という意識が強くなったのがわかった。千洋さん自身もランナーだから、田中の競技レベルのすごさも、そこに達するにはどんな努力をしないといけないかも、肌で理解できる。だが同時に、走ることを仕事としても、楽しむ余裕を持ってほしいと思っている。