女性の方が、文脈の背景、場の空気を読む脳の領域が発達しているという(写真:Fast&Slow/PIXTA)

職場や学校など、集団の中で過ごす際には「まわりに合わせること」や「和を乱す行動を取らないこと」などが求められます。とくに日本においては、「場の空気を読むこと」が重視される傾向にあるといわれています。それはなぜなのでしょうか。

脳科学者・中野信子氏の著書『新版 人は、なぜ他人を許せないのか?』より、日本人と集団主義の関係について、解説します。

日本で集団のルールに逆らうことの難しさ

集団の構成員が、集団の決まりに異を唱えにくくなってしまうことの典型例があります。最近よく議論される働き方です。

新型コロナウイルスが猛威を振るっていた時期には、「不要不急の外出は控える」ということで、エッセンシャルワーカー以外にはリモートワークが推奨されました。

都市部における業務のうち、事務的な作業の多くの部分は、パソコンやスマートフォンなどでいつでもどこでも行える状況にあることを考えると、もし、出勤することが、ただ自分が働いていることを目視で確認してもらうためだけに行う行動なのだとしたら、わざわざ毎日オフィスに出向いて働かなければならない理由はありません。

コロナ禍以前から、ある程度はこのような状況はできつつあり、誰もがそうなのではないか? と気づいていながらも、慣例的に出勤し続けてきたと思います。

毎朝遅刻せずに会社に出てくることこそ模範的な会社員だという考え方が、集団内、ないしは社会のなかで当たり前のものとされている以上、それを社員の方から言い出すのは、なかなか難しいわけです。

出勤が週2日で、週3日は自宅勤務が可能なら家で家事や育児ができる、往復2時間の通勤がなければ、その分、子どもと触れ合う時間が増える、などということは誰もが気が付き、望んでいるにもかかわらず言い出せません。

コロナ禍の自粛期間が明けるとともに、出社して仕事をするスタイルに戻す企業も多くなっているようです。リモートワークの良い面も悪い面もわかったうえでの判断であればいいのですが、何よりも集団のルールを重視する日本人は、「こういう状況だから仕方がありませんね」と集団内の誰もが納得できる理由がなければ、たった1人ではみなと違う行動が取れないのです。

たった1人でエスカレーターの右側(大阪では左側)に立ち止まることができないのと、理屈上は同じです。

かつて政府が推進していた「プレミアムフライデー」も同じようなものでしょう。毎月最終金曜日は15時になったら帰ろう、といくら旗を振ってみたところで、「得意先から15時以降電話がかかってきても受けられないなんて、そんなバカげた話があるか」ということで、うやむやになってしまったようです。得意先の人も強くうなずいたことでしょう。

宗教による安息日のような誰もが納得する拘束がない日本では、プレミアムフライデーを厳格に実施しようとするならば、「毎月最終金曜日に15時以降働いたら/働かせたら罰金」というくらいにまで、まずは規制をかけない限りは変えることは難しいでしょう。

「破壊的な天才児」より「従順な優等生」が優遇される

このように、日本において社会性の高さが重視されてきたことには理由があるのですが、さらに指摘しなければならないと考えているのは、子どもの教育環境における排除の働きやすさです。

集団の維持、社会を破壊しないことの大切さを教えることは、日本では学校教育でも極めて重要な原則として行われています。集団(クラス、学校)を維持し、社会のルールを壊さないという暗黙の課題に能力を発揮する子どもが、教師に評価され、褒められる仕組みになっているわけです。

学校のクラスに、おとなしくて従順でそこそこ優秀な優等生と、天才的な頭脳や、ある分野に突出した才能を持っているけれど、学級崩壊のトリガーになってしまうような子どもがいたとすれば、ほぼ100%前者が好感をもって受け入れられ、後者がたとえ前者より良い成績を上げていたとしても、厚遇されることはめったにないでしょう。

たしかに、学級を秩序よく保つことは、ある程度意味があることです。

しかし、そのことばかりを重視して、集団を破壊する存在として天才的な子どもが排除されるようなことがあれば、結果的に損失が大きいのではないでしょうか。はみ出し者として排除されるだけで、その子の天才性が気づかれないままになってしまったとしたら。

百歩譲って、クラスを崩壊させないために策を講じるとしても、そのために可能性を持つ存在を見捨てるような結果になるのは悲しいことです。

また、大人たちがうまくフォローすれば、何かの分野で革新をもたらすような才能が開花するかもしれないのに、日本の社会性とマッチしていないということのために排除されてしまうのだとしたら、結局は日本社会全体の損失になってしまいかねません。教育の段階で、何らかのセーフティーネットが展開されていることが望ましいのですが、今後期待されるところです。

まだ、アメリカ社会の方がある意味寛容な側面があるかもしれません。いわゆる「はみ出し者」が宗教家や篤志家などによって発見され、プロモート(向上)される仕組みがあるからです。

しかし長らく日本では、こうした子どもたちは生きづらさを10年以上感じ続けながら成長し、運良く理解してくれる人に出会うか、さもなければ海外に出るかしない限りは救われようがありませんでした。これは、社会性を重視し過ぎることの弊害、損失と言えるでしょう。

「個人主義」に適応した世代が秘めた可能性

もっとも、私や多くの読者のみなさんが幼かった頃よりは、現在の日本社会の方がより個人主義的であり、空気を読まず、仮に集団から孤立しても許容されるようになってきたという印象はあります。

その背景として考えられるのは、やはり日本が先進国として成熟し、インフラも整って、日々の食べるもの、寝るところ、つまり衣食住にあくせくするような状況ではなくなったことが大きいのではないでしょうか。少なくとも都市部では、集団内の誰かを気にして、気遣いをしていかなければ社会のリソースの恩恵を享受できない、という時代ではなくなりました。

この状況に適応した世代の人々が、かつての「集団重視が当たり前」とされてきた世代の人々から、「今の若者は劣化した」などと否定的に捉えられてしまうのは、少し気の毒でもあります。むしろ、彼らのような若い世代こそが、今の日本の閉塞感を破ってくれるかもしれませんし、今後日本に起こり得る変化に対して、対応の幅を広げてくれる可能性を持っているかもしれないからです。

「みんなに合わせる」ための重要な機能、特に非言語コミュニケーション、文脈の背景、場の空気を読むのに使われる脳の領域は、左の側頭葉の一部である上側頭溝というところです。これは、言語を司る左側の上側頭回という場所の直下にあたります。

女性の方が空気を読むのが得意な理由

言語野と近接した場所にあるというのがとても興味深いところで、男性と女性では性差があり、女性の方が統計的な有意差のあるレベルで発達しています。つまり、女性の方が空気を読み過ぎて、身動きがとれなくなりがち、とも考えられるわけです。


これを現象として考えると、集団の空気を読むことの合理性を理解し、そのためなら嘘をつけるという器用さは、女性の方が比較的発達しているということになります。

ママ友たちの間では正直な意見を言いにくいとか、若い女性たちが、とりあえず同じ集団のなかでは、どんなことに対しても「かわいい!」とか「ウケる!」と肯定的に反応しておくことなどは、その表れかもしれないのです。反対に、若い世代では男性の方が集団の同調圧力から自由ということも言えるでしょう。

このように上側頭溝が発達しているがゆえの息苦しさもあるわけですが、多くの研究者たちの解釈によれば、女性が空気を読む能力を発達させた要因は、子育てにあるのではないかと考えられています。子育てを行う際、乳児からの非言語メッセージを受容するために、この能力が必要だったのではないかというのがその理由です。

言葉を発することのできない乳児は、顔色や泣き方などによって意思を伝えているため、それを高い理解度で受け取る必要があるわけです。

ただ、その能力の高さによって、同性同士のコミュニケーションや、自分自身に対するネガティブなメッセージを受容しやすくなるために、生きづらさを感じているとするなら、女性に降りかかってしまいがちな苦労だと言えるかもしれません。

(中野 信子 : 脳科学者)