外国人著名シェフが感動「日本の食材」の特別さ

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(写真:nao/PIXTA)

子供の頃から料理は好き。だけど、その料理を習った経験はないーー。秘書として3つの職場をクビになったあと、43歳で自分のレストランをオープンした香港人シェフのグレース・チョイさん。フェイスブックで100万人のフォロワーを持ち、日本だけでなく、海外でも招待シェフとして活躍するまでになった軌跡。

日本の観光地で思い知った「職人魂」

香港での事業が軌道に乗り始めてから、しばらくして私の中で新たな挑戦をしたいという思いが出てきました。具体的には日本で新たにレストランを開くことでした。日本にはそれまでも観光で何度か訪れていましたが、移住に思い至るにはいくつかのきっかけがありました。

1つは日本人の「職人魂」に共鳴するところがあったから。日本に来る前、「職人」については主に香港のドキュメンタリー番組を通して知っていました。日本の職人の特徴は、特定の技術を習得することに深く集中することでしょう。専門知識と品質を重視するこの文化は、料理からテクノロジーまで、日本人の生活のさまざまな側面に反映されています。

私が見ていたドキュメンタリーではたいてい、有名なアーティストやシェフについて取り上げていました。しかし、私が本当に感動したのは、日本に移住する前に訪れた、ある観光地にある小さなレストランのシェフたちの姿です。

通常、世界の他の国々では、観光地にあるレストランはリピーターを期待できないため、かなり高い料金を設定し、料理もあまりおいしくありません。しかし日本では、こうした小さなレストランは通常料金で、料理も本当においしく、質が高いのです。

シェフたちは、観光客であろうと、リピーターであろうと、お客のために最高の料理を作ろうとしています。私はその過程に対する深い敬意を示したいと思います。これは金銭的な見返りを求めるのではなく、職人としての精神があるからに違いありません。

一方、香港の人たちはビジネスマインドが発達していて、お金にうるさい傾向があります。これは決して悪いことではなく、彼らはより現実的なのです。

香港で少し有名になってからも、料理の腕を磨いたり、食材の研究に没頭していたのですが、周囲からは「有名になったのだから、名声を利用してもっと稼がないと」「進歩がない」と思われていました。見えないプレッシャーがそこにはありました。

日本の食材は「シェフに語りかけるよう」

そんな中、日本の食材を使えば素晴らしい中国料理ができることを知りました。これが2つ目の理由です。

日本の食材はとても面白いし、日本人らしく抑制が利いています。一方、私が香港で使っていた食材は、もっと 「ストレート 」でした。例えば、私が使っていた松茸は、香りが濃厚で、「私は松茸です」と高らかに宣言しているようでした。

しかし、日本の松茸の香りはマイルドで控えめで、「あなたがシェフで、私の可能性を引き出し、アイデンティティを与えてください」と語りかけてくるようでした。

「泣いている赤ちゃん」を理解するように、日本の食材を使いこなすには忍耐と注意が必要です。一度慣れ親しんだ食材は、さまざまな可能性を秘めています。それだけに、温度管理、調理時間、食材のカットの正確さなど、細部にまで気を配る必要があるのです。

こうした細部を極めることで、素材の新鮮な味を保つだけでなく、うま味を最大限に引き出すことが可能になります。少しでも手を抜いてしまうと、食材が「泣いて」しまい、料理全体が台無しになってしまうのです。

繊細な日本の食材には、シェフに対する尊敬の念が込められていると感じました。しかし、その食材を使いこなすには長い時間が必要です。“彼ら”はシェフに創造する余地を与えてくれました。私は彼らと友達になりたいと思いました。

そこで、日本に移住することを考え始めたのです。

香港で有名になったばかりの私の考えを友人に話したら、みんなクレイジーだと思ったようです。しかし、シェフとして、素晴らしい料理を作ること以上に大切なことはありません。

LinkedInで知り合った「恩人」

助けてくれる人はたくさんいます。必要なのは、最初の一歩を踏み出す勇気でした。

ちょうどその頃、LinkedInで会ったことのない人たちと繋がり、メッセージのやりとりをしていました。その中に、当時楽天の副社長だった島田亨さんがいました。まさか著名人から返信が来るとは思わなかったのですが、島田さんは喜んで日本進出に協力すると言ってくれました。

そして2017年、私はすぐに日本に飛び、東京でキッチンを借りて島田さんのために料理を作りました。彼は私の料理を気に入ってくれて、貴重なアドバイスをたくさんくれました。手伝いたいとも言ってくれましたが、彼はレストラン業界の専門家ではありませんでした。

香港に戻ってから数カ月後、島田さんは大きなレストラングループの社長とコネができたと教えてくれました。

そして私は再び東京に飛び、その社長のために料理を作りました。社長も、彼のチームも私の料理を気に入ってくれて、西麻布でレストランを始めることになりました。彼はとても聡明な人で、レストランのためにクラウドファンディングを始めたので、開業前に資金を得ることができました。

ただ、2019年3月のオープン時は、資金は潤沢で経営も順調でしたが、まもなく新型コロナウイルスによるパンデミックによって経営は一気に悪化してしまいます。社長はとてもいい人で、大変な時期も一緒にやってほしいと言ってくれましたが、私は彼の重荷にはなりたくありませんでした。そこで、私は一旦パートナーシップを解消することを提案したのです。

ここから、私は自らでお店を開く道を探り始めました。

まずは新たなお店を開く場所を探しました。かつてのレストランは西麻布にあり、最寄り駅は六本木でした。私はいつも電車で寝てしまうため、自宅から一番近い地下鉄駅で店舗を探したいと思っていました。そこで、選んだのが中目黒でした。

多くの不動産業者を訪ねましたが、ほとんどは日本語が話せないとわかると、積極的に取引をしてくれようとはしませんでした。電話番号、メールなど情報は聞いてきますが、連絡をするつもりはないのです。残りの仲介業者は、私が見たい物件には案内してくれましたが、私の条件に見合う物件を薦めることはしてくれませんでした。

結局、今の中目黒の店舗は不動産店の窓に貼ってあった広告で見つけました。この店はずっと閉まったままだったので、私は何日も待つと同時に、契約を進めるために、英語を話すことができる別の業者に連絡する必要がありました。現在は、この家のガレージを4人掛けのレストランに改装して、私たちは2階に住んでいます。

地獄のような「入国管理局」の失礼さ

日本に長期滞在するにはビザを申請する必要もありました。入国管理局は、私が日本で一番嫌いな場所です。パンデミックの時に訪れすぎたせいかもしれません。いつも混んでいて騒々しいという印象があります。

ほとんどの職員は日本語以外の言葉を話せません。行列は長く、運よく担当官が英語を話すことができれば、懸命に助けてくれるでしょう。しかし、ほとんどの職員は英語が話せないため、不動産のエージェントと同様、私を避けるのです。

ですが、何度か入国管理局を訪れるうちに、私は賢くなりました。まず、英語を話せる職員を見つけられるようになりました。長蛇の列に並んだ後、英語が話せない職員に担当させられそうになったら、その人を飛ばし、自分を理解してくれる職員の手があくまで待つのです。

銀行口座の開設も地獄のようなプロセスでした。外国人がビジネス用の銀行口座を開設するのは不可能に思えました。私の会計士でさえ、外国企業が銀行口座を開設するのは非常に難しいと言いました。

そこで、再び島田さんに助けを求めたのです。島田さんと一緒に銀行に行くと、スタッフは島田さんに頭を下げ、すべての手続きは30分で終わりました。

「新しい形」のレストランを作りたかった

こうして、日本でビジネスを始めるのに必要なさまざまなプロセスを経て、ついに2020年10月、中目黒に小さなレストランをオープンさせたのです。「日本人はガレージの中で高級料理を食べたいと思わないだろうから、ガレージを改装してレストランにしたと言ってはダメだよ」と、香港で知り合った、育ちのとてもいい日本人の知人が教えてくれました。

しかし、私は「新しい形の高級レストラン」を作りたかったのです。私のレストランを訪れるお客様は、環境やサービスの質を求めて来るのではなく、私の食材選びと職人魂を求めて来てくれるのですから。

前回も書いたように、私は負け犬で、勤めていた会社で3度クビになりました。私自身がシェフであることはすでに奇跡でした。もう一度奇跡を起こしたいーー。アップル、グーグル、マイクロソフト、アマゾン、ディズニーもガレージから生まれた奇跡です。


この連載の1回目はこちら

(グレース・チョイ : ChoyChoy Kitchenシェフ)