頼りになった「あの男」!幕末期、英語がわからない日本人は黒船来航の時どうやって交渉したのか?

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ペリーが黒船を率いて浦賀に現れた際、日本に英語ができる幕臣はいませんでした。ペリーたちは、どんな言葉で幕府側と交渉したのでしょうか。

実は、アメリカ側も日本側も、英語ではなく、オランダ語を使ってコミュニケーションをとっていました。

嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航の風景画(Wikipediaより)

当時、日本の通詞(通訳)しかいませんでした。そこで、幕府の通訳は、たった一言、「私はオランダ語を話すことができます」と英語で伝え、あとはアメリカ側とオランダ語で交渉しました。

ペリーの方も、幕府に英語の通訳がいないころをあらかじめ知っていてオランダ語と中国語の通訳を用意していました。

将軍あての国書も、漢文とオランダ語バージョンを用意していたので、双方のやり取りに大きな支障はありませんでした。

ただし、幕府は、最初の交渉の後、英語の通訳がいないことに懲りて、急遽、ジョン万次郎こと中浜万次郎を旗本に抜擢し、通訳としました。

ジョン万次郎

万次郎については、以前Japaaanでも取り上げさせていただきました。

江戸時代に日米の懸け橋となったジョン万次郎、帰国後のその後の人生とは…?(1)

170年以上も続く友情!今も深まるジョン万次郎と彼を救ったホイットフィールド船長の交流

元土佐の漁民で、14歳のとき海で遭難、アメリカの船に助けられて米国で教育を受けていたという人物。日本では、唯一、英語で複雑な会話ができる人物でした。

以後、万次郎は、幕府の遣米使節団に通訳として同行するなど、両国の外国交渉に欠かせない存在となっていきます(スパイ容疑をかけられたりもしますが…)。

特に、1860(万延元)年、日米修好通商条約の批准書を交換するために派米された咸臨丸では、船長の勝海舟の船酔いがひどくてまともな指揮を執れなかったため、代わってジョン・ブルックとともに船内の秩序保持などに努めたとされています。

参考:加藤 祐三『幕末外交と開国』(2012 講談社学術文庫)