DIGIDAYでは、デジタル広告の課題について随時取り上げているが、このたび、BI.Garage特命顧問およびコンテンツメディアコンソーシアム事務局長を務める長澤秀行氏に、昨今のデジタル広告にはびこる課題を聞く機会を得た。長澤氏は、電通にて新聞局デジタル企画部長やインターネット局長などを歴任し、日本初のインターネット広告会社であるサイバー・コミュニケーションズ(CCI、現:CARTA COMMUNICATIONS)の代表取締役社長も務めた人物だ。デジタル広告の黎明期からこの領域に携わり、日本におけるインターネットメディアの創成期を支えた人物といっても過言ではないだろう。そんな長澤氏は、現在のデジタル広告の現状について、「このまま課題が解決されなければ、社会全体の情報環境が劣悪化する可能性がある」と警鐘を鳴らす。DIGIDAYでは、その根本的な要因と今後のデジタル広告が進む道筋を長澤氏に聞いた。もはやこの課題は、広告業界だけでの問題ではなくなってしまっている。

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――現在のデジタル広告の課題は何だと考えますか?

非常に大きなテーマだが、絞るとすれば「メディアの質を問わない広告取引」「急増するアドフラウドやMFA(made-for-advertising)などの犯罪」「生活者サイドにおける信頼性の低さ」の3点だ。業界関係者らはまずはこれらの問題を理解し、自身が関わる仕事との関連性を紐づけてほしい。

――上記3点の問題は、なぜ生まれたのでしょうか?

まず、メディアの質を問わない広告取引というのは、デジタル広告のメインがオープンマーケットで行う運用型広告だからだ。つまり、デジタル広告とは誰もが自由に広告枠を機械的に売り買いできるターゲティング広告であると理解されており、多くは「広告を載せるメディアはクリックを生めば何でもよい」という運用になっている。日本市場の場合、広告掲載メディアを指定するPMP(プライベートマーケットプレイス)の文化が発展しておらず、極めて小さな規模でしかない。米国ではPMPの割合が50%ほどになっているにもかかわらずだ。この原因は日本市場のクリック至上主義が関係しており、クリックが生まれればどんなメディアの広告枠でもよしとする効率論による、質やリスクを加味しない意識である。一方でアドフラウドやMFAなどの詐欺行為の増加は、前述した広告枠の質の問題に起因する。メディアの質を問わないからこそ、詐欺まがいのサイトにも存在価値が出てしまう。加えて、日本市場は米国に次いでデジタル広告の市場が大きく、アドフラウド対策やブランドセーフティの管理も成熟していないため、犯罪組織からターゲットにされやすいという現実もある。こうした要因により、デジタル広告の信頼性も上昇しない。また、マスメディアの場合は当たり前に行っている広告掲載内容の審査だが、インターネットの運用型広告となるとプラットフォームが広告内容を審査することとなり、その広告審査は多くの場合自動化されている。プラットフォームによっては低コストで審査を行い、その質自体が低く悪質な広告も多く出回る現実がある。また、主宰する広告枠取引に広告在庫を提供するコンテンツメディアの参加審査も甘い。プラットフォームは自らをメディアではなくあくまで情報流通収益獲得装置としてみているため、広告管理という領域においてあまりコストをかけていない。こうしたプラットフォームの広告取引市場寡占性も、デジタル広告全体の不信感に繋がっている要素のひとつだ。

――なぜ、サイトの質が吟味されないのでしょうか?

前提として、広告主や広告会社、あるいは一部のメディアは、インターネット市場がメイン市場ではない、と考えている。そのため、広告管理の意識も低くなり、瑕疵のあるサイトが見過ごされている状況にある。また、これがアドフラウド対策やブランドセーフティの管理成熟度が低い要因と言ってもよい。しかし、インターネット情報に触れる生活者の時間は年々深まっており、メディアの視聴時間もインターネットが長く深く、最大の情報メディアと言ってよいはずだ。生活者はインターネットを情報収集のメイン手段として捉えているにも関わらず、多くの業界人は、単なるクリックを求める販促メディアでしかないと考えている。こうした、広告業界と生活者の認識のズレを頭に入れてほしい。

――アドフラウド対策が成熟していないことについてどう思いますか?

アドフラウドやMFAなどを行っているのは反社会的勢力であることが多い。そこに広告費が流れているということは、企業倫理の問題であって、広告倫理の観点を超えている。つまり、コンプライアンスの意識が非常に足りていないということだ。悪い方に転べば、広告主の企業価値や株価にも影響してしまうような事態とも言える。さらに、MFAを見分ける技術がプラットフォームには充分にはないこともあり、広告主自身が見分ける力を求められている。MFA側が高度な詐欺スキルを持つだけに、より高度な広告管理というものがますます必要な環境になってしまっている。

――米国と比べて、PMPが根付かない要因はなぜでしょうか?

前述したように、CPC至上主義の考え方が、それを妨げている。PMPでは、膨大なリーチを取ることができないからだ。いくらメディアを束ねてメディアバイイングしようとしても、プラットフォームには敵わない。プラットフォームはユーザーがインターネットに入るうえでの入口であり、利用者は膨大で、リーチもしやすいためだ。日本ではプラットホームの築いたウォールドガーデンのなかに取り込まれているメディアがほとんどであり、その外側のオープンインターネットでの力が弱い。ウォールドガーデン内のCPC至上主義の構造は、大きな影響を及ぼしている。どのメディアの広告面でもクリック率などの直接的な広告効果軸であるCPCで取引され、その結果、パブリッシャーの広告メディアとしての質は評価されず、それぞれのメディアの広告単価は一律となっている。驚くことに、良質なコンテンツを届けるメディアと、フェイクニュース満載のサイトあるいはページビューを狙った炎上ありきのコンテンツなどの価値(つまりCPC)は、同じなのだ。これは、サーチ広告の発想に起因しており、サーチ広告の仕組みをディスプレイ広告市場に持ち込んでしまったゆえに起こった現象だ。サーチ広告はその検索利用独占性から、主にGoogleおよびYahoo!のリスティング広告に限られる。つまり、等質な単独メディアである検索エンジンのなかでの上位掲載のオークション取引市場ということだ。CPC指標の上下によって変わるのはあくまで同一メディア内での順位付けであって、各メディアの良し悪しではない。こうした構造が、多様な複数メディアが広告在庫を提供するディスプレイ広告の取引市場に持ち込まれ、参加するメディアの質の良し悪しは評価されなくなっている。これはある意味、多元的な広告価値評価に対する構造的瑕疵を抱えた、取引市場の実態とも言えるだろう。

――なぜそうした構造になってしまったのでしょうか?

簡潔に言うと、デジタルプラットフォームの寡占化がこれを生み出している。デジタル広告の約80%は、プラットフォームが介在する広告であり、そこに入らなければ、広告費が少しでもメディアに流れてこない。CPCの構造であれば、クリックされなければ仲介事業者としてのプラットフォームは、コンテンツを提供しているメディアに広告費を払わないで済む。さらに言うと、仮にクリックされたとしても、広告主から広告費がいくら出ているのかというのは開示されていない。中間利潤はブラックボックスであり、プラットフォームに有利な構造となっている。独占的であればあるほど、そのメカニズムを維持したいという意志は常に働いているだろう。

――これらの問題が解決しないままであれば、日本のデジタル広告はどういう道筋を描くでしょうか?

まず、デジタル広告市場がさらにシェアを伸ばすことは間違いないだろう。ただし、不健全なまま成長すれば、生活者サイドの広告離れが起こりえる。すでにデジタル広告の信頼性は他メディア広告に比べて最低レベルに落ちている。また、広告メディアとしてのパブリッシャーが衰えていくのは間違いない。もちろん、メディアは広告を売るためだけにコンテンツを作っているわけではない。それらのコンテンツはそもそも、社会の情報基盤を支えているのだ。メディアの質を問わない状態が続けば、ジャーナリズムコンテンツやエンターテイメントコンテンツのクオリティが保てず、社会全体の情報環境が劣悪化する可能性がある。パブリッシャーにしてみれば、広告モデルが壊れれば、IPやサブスクモデルで食っていくしかない状況になり、生活者の情報取得に対するコストの問題や、プランの自由選択はなくなってしまうだろう。また、広告主にしてみれば、広告ブランディングができなくなるだろう。オウンドメディアですればよい、という意見もあるが、拡散力とコンテンツ力を持ち合わせ、広告を包み込んで生活者にブランドへに興味を持たせるのは、やはりクオリティの高いパブリッシャーなのだ。

――これらの問題点に関する解決策をどう考えていますか?

今の状態で果たしてよいのか、ということを頭におきつつ、サプライサイドもデマンドサイドも受け手の心理を考えながら改善を図っていく努力が必要だ。たとえば、JICDAQのような仕組みができて第3者での信頼性を担保したことは第一歩だと思う。改善への仕組み化を業界が揃ってやっていくというのが、デジタル広告が信頼を勝ち取る手段だ。とりわけ、ユーザー視点に立ち戻るというのがとても大事だと思う。TVの歴史を例にすると、コンテンツを出す放送局が出来て、それと同時に広告が売れるように広告会社がそれをしっかりとサポートした。そのためにJAROという広告審査機構を作り、視聴率を可視化するためにビデオリサーチという会社も作った。つまり、視聴者や広告主に広告を受け入れてもらうための仕組みづくりを行ってきたわけだ。にも関わらず、デジタルメディアでは、それが行われていない。デマンドサイドである広告主側ではブランド数も多く競争関係もある。一方でサプライサイドであるメディア側では、対プラットフォームとの関係性を考えると、立場が弱い。そう考えると、仲介業者である広告会社が、マスメディア創成期と同様にデジタル広告が健全に取引され、生活者がデジタル広告を信頼する仕組みづくりの音頭を取らなければいけないと考えるのが必然だろう。仲介事業者には広告を健全に流通させる義務があると思う。

――大きなシェアを持った広告代理店が仕組みづくりに動き出さないのはなぜでしょうか?

理由は主に2つある。ひとつはデジタルプラットフォーマーの独占力が巨大であるということだ。マスメディアの仕組みづくりの際は、そういったプラットフォームは存在しなかった。デジタル広告においてメインプレーヤーはプラットフォームであり、彼らはデータを握っている。デジタルマーケティングにおいて、データほど重要なものはない。それにより、デジタルプラットフォーマーは自らの利益創出に最適化されたウォールドガーデンの仕組みを構築している。ガーデン内ではメディアも広告会社もユーザーも、仕組みのパーツでしかない。そして2つ目が、そうしたプラットフォームとの力関係を背景にした、データ流通の透明化や広告掲載メディアに対しての健全化に向けたパッションの欠如だ。最たる理由は、プラットフォームに依存していれば効率的であり収益性も高いという現状依存姿勢で、インターネットの広告取引でのイニシアチブを取られ、プラットホームの手のひらの上で競争されられている状況である。それでは生活者や広告主に向けての最適な広告は提供できないと思う。広告会社には広告主の期待に応える義務とメディアからの負託にも応える義務がある。その先には生活者の広告への信頼の付託がある。それが広告会社の社会的存在意義であると、私は考えてきた。

――デジタル広告の黎明期にこうした問題点は想像できたでしょうか?

インターネットが導入され始めたときは、メディア広告の関係者を含めて非常に興奮していた。双方向のやり取り、さらにターゲット別に広告が配信できるということに、フレッシュな期待があった。当時のマスメディアは、一方的に広告を送りつけている、という発想があり、業界では土足マーケティングという言葉もあった。つまり、土足で読者や視聴者の情報のなかに入り込むということだ。だからこそ、インターネットは最適化されたターゲティング、そして受け手のパーミッションを取ったうえでの広告として注目を浴びていた。しかし、20年たった今、これが逆になってしまっているのではないかと感じる。インターネット広告のほうが、土足でユーザーの情報行動を追跡し、広告を押し付けているからだ。日本市場のインターネット広告を一生懸命成長させてきた立場としては、責任を感じるし、とても悲しく思う。広告主から見れば、効率性や顧客獲得単価などマスメディアと比べて有利に感じるかもしれないが、受け手側に好感を持たれなければ、何の意味もない。20年前の期待感とは、ずいぶんと乖離(かいり)したものになってしまっている。しかしながら、本格的なニュースコンテンツやエンターテイメントコンテンツに需要があるのは、今も昔も変わらない。本来、コンテンツと広告は「互恵」なのだということも、もう一度業界は理解してほしい。デジタルメディアの時代は「Data is King」と叫ばれているが、コンテンツはデータを生む金の卵であり、ユーザーはコンテンツ体験を情報接触の目的としている。広告体験はそのついでに過ぎないという、広告の立ち位置の原点を改めて見つめてほしい。Written by 島田涼平