今ではある程度普及している、新幹線での「長距離通勤」。これは1960年代に真剣に検討され、「新幹線とはまた別の路線」でそれを実現しようという動きがありました。

戦後20年で人口爆発した首都圏

 東京と大阪を結ぶ夢の超特急として開業した東海道新幹線ですが、輸送人キロの約26%(2022年度)を定期利用、つまり通勤のため日常的に利用している人が占めています。たとえば熱海から東京までなら1時間弱。十分に通勤圏内と言えるでしょう。


開業時から東海道・山陽新幹線で走り続けた0系電車(画像:写真AC)。

 この「通勤用の高速鉄道」というコンセプトの端緒として、1960年代後半、国鉄は通勤のための短距離新幹線「通勤新幹線」の建設を真剣に検討していました。

 構想が報じられたのは1967年9月1日、自民党の都市政策調査会から「今後の鉄道整備はどうあるべきか」との宿題を出された国鉄が、1985(昭和60)年頃を見据えた鉄道整備計画を報告しますが、全国新幹線網に加えた目玉が6本の通勤新幹線でした。

 この1960年代、首都圏の人口は年々増加し、日本の全人口の2割にあたる約2100万人にも達していました。

 このまま人口集中が続けば、既設在来線の増強では対応できなくなるため、従来の通勤圏よりスケールを一回り拡大した「都心から70〜100km圏」にニュータウンを建設し、都心と新幹線で結ぶことによって人口の集中を防ごうとしたのです。

 1969(昭和44)年の参議院運輸委員会での磯崎 叡国鉄総裁の答弁によると、当時進めていた5路線の複々線・三複線化工事(通勤五方面作戦)は1975(昭和50)年までの人口増加に対処するのが限界で、それ以降の増線工事は用地取得の観点からも困難であり、「全く別の形」で鉄道整備を進めていかなければならないと考えていたようです。

 そこで注目したのが、当時開業間近だったサンフランシスコの通勤高速鉄道「BART」です。BARTは高規格線路を表定速度約80km/hで走り、これは中央線快速列車の約40km/hの2倍の速度でした。

 乗車時間30分圏内で考えると、中央線は20kmであるのに対し、BARTは40kmになり、通勤可能な都市圏が一気に広がることになります。その考えを発展させ「BARTよりさらに高速な新幹線」によってもう一段階、二段階広げようというのが通勤新幹線構想のキモでした。

6方向の「通勤新幹線」そのプランとは?

 通勤新幹線構想を主導したのが、元鉄道官僚で東海道新幹線の建設計画にも携わった国鉄監査委員の角本良平です。

 首都圏の国鉄・私鉄主要路線の多くは1930年代までに整備されたものであり、それ以降は大規模な新線開発がなされませんでした。その時の沿線開発の「貯金」を食いつぶした今、「郊外のさらに先」に新たな土地を求めるしかありません。

 角本は著書『通勤革命』の中で「新技術によって郊外のある地区が都心部から鉄道乗車時間1 時間になれば、その土地は在来の鉄道による1時間のところと同じ利用価値を持つ」と述べています。

 では通勤新幹線は具体的にどのようなものだったのでしょうか。検討時期によって内容はやや異なりますが、想定された路線網は概ね下記の通りです。

(A)千葉・新国際空港から千葉ニュータウン経由の路線(約50km)
(B)高崎・前橋からの路線(約100km)と桐生方面の支線
(C)水戸から筑波学園都市経由の路線(約100km)
(D)小田原からの路線(約70km)
(E)宇都宮からの路線(約100km)
(F)甲府からの路線(約100km)

 このうち(B)は北陸新幹線、(E)は東北新幹線と同じルート(現在のルートとは異なる)で、必要によって複々線化。また(A)と(B)は東京・新宿経由、(C)と(D)が新宿経由で直通運転を行い、(F)は新宿始発。(E)は東北新幹線とともに東京経由で第二東海道新幹線に直通します。

 言うのは簡単ですが、いざ大規模な開発を行おうとすると、噂が浮上しただけでも土地が高騰し、用地買収に多額の費用がかかってしまうという問題を抱えていました。そうなるとニュータウンの分譲価格や家賃は高くなり、新幹線も建設費が増大して採算性が悪化します。

 そこで角本は、「私権を制限してでも計画発表前の価格で土地を収用できる制度」を軸とした地価抑制策が必要だと述べます。このような手立てを講じれば、新幹線の建設費は運賃収入で十分、回収が可能だと訴えたのです。とはいえ、「私権の制限」の実現には大きなハードルがあったと言わざるを得ません。

国鉄の「ガチなアイデア」が実現しなかったワケ

 このような国鉄側の構想に対し、自民党が興味を示したのは、自分たちの選挙区である地方と東京を結ぶ全国新幹線網だけでした。1970(昭和45)年に全国新幹線鉄道整備法(全幹法)が成立し、同法に基づく基本計画、整備計画が定められると、その計画外の路線整備は事実上できなくなってしまいました。

 もっとも、通勤新幹線構想自体も多くの課題を抱えていました。先述の土地問題に加え、70〜100km圏を東京の通勤圏とすれば「都心一極集中を助長する」として、首都圏整備を所管する建設省から反発が上がりました。その上、70〜100km圏から都心までの輸送路を確保したとしても、最終目的地が東京駅、新宿駅という人はわずかであり、都心の山手線や地下鉄のさらなる混雑が危惧されました。

 こうして看板倒れに終わった通勤新幹線でしたが、「置き土産」もありました。1973年に実際に整備計画が策定された「成田新幹線」は、前掲の通勤新幹線(A)のように、東京と成田空港の中間に「千葉ニュータウン駅」を設置し、通勤用としての役割も持たせる構想でした(最終的に1983年凍結、1987年中止)。

 また東海道新幹線・東北新幹線・上越新幹線には通勤用列車が設定されました。

 例えば、朝9時半までに東京駅に到着する上り列車は、1964(昭和39)年時点で8時39分着の「こだま202号」のみだったのが、1967(昭和42)年12月に熱海発の「通勤用列車」2本が設定されたのを皮切りに、1968(昭和43)年には7時30分着の「こだま482号」から9時25分着の「こだま204号」まで6本の列車が設定されています。

 これで先述の(A)(D)(E)で志向した鉄道体系は一定、実現したと言えるかもしれません。ただこれは結果論であり、国鉄としては本意ではありませんでした。通勤新幹線構想が萎んでいく中、国鉄はその「精神」を引き継ぐ、「新たな構想」の検討に着手していくのです。