そこは「廃線跡」 蒲田の車両基地脇から延びるアヤシイ小道の正体 カーブ描いて住宅街へ
東京・蒲田駅付近の住宅街に、それとわかる形で鉄道廃線の形跡が残されています。車両基地の脇から弧を描いて延びる遊歩道や公園、その正体は何なのでしょうか。
地図上で発見したアヤシイ空間
東京の大田区、蒲田駅付近の地図を見ていると、ちょっと“アヤシイ”線形が。京浜東北線の車両基地である大田運輸区の端から、周囲の町割りを無視するかのように、弧を描く細い緑道や公園が描かれています。
「鉄道の廃線だ」。一目見てそう思い、現地へ行ってみました。
京浜東北線の車両基地、大田運輸区。廃線跡はこの敷地の端から続く(乗りものニュース編集部撮影)。
蒲田駅付近から南東へ分岐して広がる車両基地は、27本もの線路が敷かれ、京浜東北線の車両がズラリと並んでいます。その敷地の南西端から、不思議な小道が延びていますが、2023年5月現在は、その脇で公園の造成工事が行われています。
造成地から先は、いかにも鉄道の敷地に沿うようにして、住宅と住宅の間にカーブを描く形で公園が続いています。その先でいくつかの道路と交わりますが、そうした道路と道路のあいだの公園がそれぞれ別の名前になっています。
そのうちのひとつ、道塚南公園には、蒸気機関車の車輪のモニュメントが存在。その隣の道塚第三児童公園に、かつてここにあった“線路”の由来が看板に書かれていました。
ここは「矢口発電所専用線跡地」だそうです。
1914(大正3)年、京浜東北線の前身である京浜線(東京〜横浜)の電車線開通に際し、その電力をまかなうため、多摩川沿いに矢口発電所を建設。発電に必要な石炭を列車で運搬するために設けられたのが、この専用線だといいます。
しかし、発電所は1923(大正12)年の関東大震災で大破し、結局は1926(大正15)年に廃止されたとのこと。
「矢口発電所は約10年間でその歴史を終えましたが、専用線沿いは1923年から品川電車庫の分庫が設けられ、翌年から蒲田電車庫となり、現在の蒲田電車区となりました」
このように説明されています。発電所はわずかな期間しか稼働しなかったものの、この専用線があったからこそ、車両基地ができたともいえるでしょう。
矢口発電所の跡地はいま
看板の説明では、「残された軌道は戦後取り外され、土建材料の置き場になったりしました」とあります。看板のある道塚第三児童公園は歩道がブロック敷で、かつて2本のレールが敷かれていたことを示すかのように、色の違うブロックで描かれた2本の線が続いています。
古い地図や航空写真を確認すると、専用線跡には確かに民家がいくつか立っており、だんだんと公園として整備されていった模様です。現に、西端の古川児童公園を過ぎると民家にぶつかり、線路跡がわからなくなっています。
とはいえ、その区画は50m程度で、その先に大規模な団地が現れます。ここが矢口発電所の跡。大正時代の地形図を見ると、「鉄道省矢口発電所」と書かれており、かつての線路は、敷地の西端まで続いていたようです。
専用線跡の公園には、駅名標風の看板も(乗りものニュース編集部撮影)。
ちなみに、関東大震災で崩れてしまった矢口発電所の建物は、当時の資料に幅120尺(約36m)、軒までの壁の高さ43尺3寸(約13.1m)の「鉄骨煉瓦ノ大建築」と記されています。当時としては相当にモダンな建造物だったのではないでしょうか。