駆逐艦「冬月」竣工-1944.5.25 戦艦「大和」随伴で沖縄へ 奇跡の帰還ののち防波堤に!?
旧日本海軍の駆逐艦「冬月」が1944年の今日、竣工しました。特徴は高角砲や機銃を多く装備し対空火力を高めたこと。ただし沖縄への水上特攻作戦を除くと、戦闘の機会はほとんどありませんでした。
特徴は4基8門の連装高角砲
太平洋戦争も後半の1944(昭和19)年5月25日は、旧日本海軍の駆逐艦「冬月」が竣工した日です。「冬月」は秋月型駆逐艦の8番艦であり、完成を急ぐべく工期を短縮して建造されました。起工は1943(昭和18)年5月のことです。
駆逐艦「冬月」。竣工直前に撮影された1枚(画像:Public domain, via Wikimedia Commons)。
秋月型は、艦の前後に10cm連装高角砲を4基8門装備しているのが特徴です。また後部マスト付近に25mm3連装機銃を3基配置するなど、対空火力を増強しています。
竣工後、「冬月」は日本近海での訓練や沖縄への物資輸送などに従事。すでにアメリカ軍が日本本土に迫っており、その迎撃や航空母艦の護衛が必至の状況だったのです。
そのような中の10月、遠州灘でアメリカ軍潜水艦による雷撃を受け「冬月」は損傷。修理のため呉海軍工廠に入渠します。そのため、同月にフィリピン周辺海域で勃発したレイテ沖海戦には不参加。ちなみに、この海戦で旧日本海軍は空母機動部隊が事実上壊滅するなど大敗を喫しており、奇しくも「冬月」は“生き延びた”形になりました。
11月、修理を終えた「冬月」は早速、物資を輸送する空母「隼鷹」を護衛してマニラへ向かいます。作戦は成功しますが、帰路で艦隊はアメリカ軍の攻撃を受けるとともに悪天候に見舞われ、「冬月」はまたも損傷してしまいます。
「冬月」の修理は年内に完了。同時に対空機銃を増設し、防空能力を高めました。ただこの頃は日本本土であれ、軍港や都市などは連日激しい空襲を受けていました。そしていよいよアメリカ軍が沖縄に侵攻すると、「冬月」は水上特攻作戦を下令されます。戦艦「大和」などとともに、沖縄に上陸したアメリカ軍に対し、座礁させ砲台化した艦から砲撃を加えるという作戦でした。
生き抜いた沖縄特攻
「冬月」は4月6日、「大和」ほか軽巡洋艦や駆逐艦8隻とともに沖縄へ向けて出撃。しかし翌7日正午過ぎ、艦隊は沖縄近海のアメリカ軍空母が発進させた艦載機の猛攻にさらされます。
各艦が次々と被弾する中、「冬月」の損害は軽微でした。またアメリカ軍の戦闘記録に「防御砲火制圧のため、『大和』以外の護衛艦艇にも攻撃を分散せざるを得なかった」とあることから、増強した対空火器が奏功したのかもしれません。
水上特攻として沖縄へ向かう途中、戦艦「大和」(写真奥)を護衛する駆逐艦「冬月」(手前)。「涼月」とする説もある(画像:アメリカ海軍)。
ただ2時間以上におよぶ激戦の末、「大和」など計6隻が撃沈されました。特攻作戦は中止され、残った艦は佐世保への帰投が命じられます。「冬月」は「大和」などの生存者を救助し、本土を目指しました。
佐世保で修理を受けた「冬月」でしたが、周囲の港湾はアメリカ軍が投下した機雷に阻まれており、軍港に留め置かれることが多くなりました。その最中の7月下旬、襲来したB-29爆撃機に「冬月」が砲撃。1機撃墜を記録しています。
「冬月」は終戦を迎えました。しかしその直後、ふ頭で機雷に触れ大破してしまいます。沈没は免れた「冬月」は工作艦となり、門司港の機雷除去任務に従事しました。
1948(昭和23)年3月、「冬月」は同型艦「涼月」とともに船体を残して解体。船体は北九州市若松区にある若松港の防波堤として転用されました。現在はコンクリートに埋没してしまったものの、案内板でその場所をうかがい知ることができます。