1938(昭和13)年4月20日、九八式直接協同偵察機という偵察機が初飛行しました。同機は旧日本陸軍の先進的な偵察思想のために作られ、現地部隊の直接協同(連携)に主眼を置いた世界的にみても画期的な偵察機でした。

「直接協同偵察」ってなに?

 1938(昭和13)年4月20日、旧日本陸軍だけではなく、世界的にみても画期的な偵察機が初飛行します。飛んだ航空機は後に九八式直接協同偵察機(九八式直協)と呼ばれる機体。同機はノモンハン事件で実戦デビューを果たすと、太平洋戦争の終結まで運用されました。


九八式直接協同偵察機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。

 同機を開発した当時、日本陸軍は拡大する日中戦争の影響や、強大な兵力と広大な領土を誇る、ソビエト連邦軍(当時)を最大の仮想敵としていたことなどから、かなり偵察を重視した戦術を採っていました。

 その発想はきわめて先進的で、1930年代前半には「偵察」と一口にいっても、前線部隊や陣地などの敵情を探る戦術的な偵察と、後方の予備部隊の動向及び生産施設や交通網を確認するための戦略的な偵察とに分けていたほどです。

 これは現代の軍隊でいうところの「戦術偵察」と「戦略偵察」にあたるもので、いまでこそ各国軍とも明確に分けて認識しているものの、当時ここまで明確に区別し扱っていたのは、他国の軍ではあまり見られないものでした。

 また、偵察専用の航空機を開発するというのも当時は珍しいものでした。この発想に沿って九八式直協より一足先に1936(昭和11)年に初飛行したのが、九七式司令部偵察機。これは世界初の戦略偵察機ともいわれます。

 戦術的な偵察を行う九八式直協は、最前線の地上部隊と直接協同(連携)することを主眼にした、いわば対地支援機です。ゆえに、偵察だけでなく用務連絡や、弾着観測を行うことも求められ、その要求にあった飛行性能を獲得すべく、低速時の安定性の高さや対地攻撃用の各種兵装を搭載できる能力も盛り込まれました。

 結果、同機の運用が開始されると、そうした高い要求にも関わらず、短距離の離発着性能や、操縦性の良さに加え、稼働率の高さなども評価され、万能機として前線部隊から好評を得ます。

師団長の独断で命令OK

 加えて九八式直協の運用に関して大きな特徴といえたのが、配備先にありました。同機を運用したのは、地上の基幹戦闘単位である師団司令部に属していたという点です。偵察機や爆撃機は師団の上位にあたる軍司令部が受け持っており、師団の独自判断で運用することができないという難点がありましたが、同機は師団長が必要だと考えれば、即座に飛ばすことができたため、前線部隊にとっては「痒い所に手が届く」頼りになる航空機だったのです。

 そのため、偵察以外に、地上攻撃機としても重用されることになります。同機の武装は7.7mm機銃が前方と後方にそれぞれ1挺、そして250kg爆弾1発もしくは、12.5kg爆弾10発を吊り下げることができました。ほかの爆撃機や攻撃機などと比べると、地上攻撃を担うには決して優れているとはいえない武装ではあったものの、地上部隊の状況に応じて柔軟な支援がスピーディーに行えるということで、前線部隊の目の前にある敵陣地などをピンポイントで攻撃して無力化してくれるなど、現代戦における「近接航空支援」に通じる、通常の偵察部隊にはない頼もしさがありました。
 
 また、同機は操縦が容易であったことから、練習機にも転用されることが計画されます。こうして生まれたのが、派生型である九九式高等練習機で、こちらも旧日本陸軍に制式採用されました。

 なお、1945(昭和20)年夏の終戦後もインドネシアや中国などで九八式直協は残存しており、中国の国共内戦やインドネシア独立戦争などにも投入され、1950年代まで使われていたとのこと。なお、九九式高等練習機に関してはタイ空軍が1951(昭和26)年まで運用していました。