物流の日本通運、福山通運…「通運」って一体何だ? かつて絶大な力をもった“お墨付き”
物流大手の日本通運など、社名に「通運」が含まれる運送会社は複数あります。見慣れない単語である「通運」ですが、実は物流の歴史と深い関係があったのです。
そういえば「通運」とは何なのか
「侍ジャパン」が見事優勝を飾った、2023年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。中継番組では、黄緑色の「NX」のロゴをあしらったテレビCMが頻繁に放映されていたことを覚えている方も多いはずです。これは大会期間中のダイヤモンドパートナーとなっている「Nippon Express」つまり「日本通運」で、国内の物流最大手の企業です。
ここで素朴な疑問ですが、会社名にある「通運」とは一体何でしょうか。「運送」「輸送」「運輸」と違いはあるのでしょうか。
「通運」を称した運送会社(画像:国土交通省)。
同じように「通運」を冠した会社としては「福山通運」も著名で、首都圏では「札幌通運」「新潟通運」のトラックもよく見かけます。これらの企業は、日通の子会社でもグループ企業でもありません。
実はこの2文字、簡単に言えば「貨物駅に出入りしていいですよ」と国からの“お墨付き”をもらった物流企業だけが名乗ることを許された特権、いわば「プラチナ・チケット」の名残なのです。
巨大な「すき間産業」を国が管理
文明開化真っただ中の1872(明治5)年、新橋〜横浜に日本で最初の鉄道が走りはじめました。当時、鉄道の最大の役目は「旅客」ではなく、あくまでも「軍事輸送(兵站:へいたん)」と「物流」で、富国強兵・殖産興業の牽引役となるのが務めでした。
翌1873(明治6)年に鉄道の貨物輸送がスタートすると、これまで飛脚か大八車、馬車・牛車しかなかった陸上輸送に大革命が起こります。前代未聞の“超高速”で大量に荷物を運べる貨物列車は、鉄道の急速な全国的広がりとともに、ますます便利になっていき、陸運の主役へ躍り出ます。
昭和時代の広大な貨物操車場(画像:鳥栖市)
東海道本線が1889(明治22)年に全線開通し、新橋〜神戸間約600kmを約20時間で結ぶようになった一方、道路による交通手段はまだ全くの未開で自動車すら存在せず、国道も江戸時代の街道とあまり変わらないレベルでした。
蒸気船も大量輸送手段として台頭し始めていましたが、スピードでは鉄道の敵ではなく、なにより内陸部の輸送は不可能で、鉄道輸送のシェアを脅かす存在ではありませんでした。
さて、鉄道貨物を利用するとなると、荷主は自分で貨物取扱駅や「貨物ターミナル」へ荷物を運び、時刻と値段を調べて荷物を貨車に載せます。到着駅では、貨車から荷物を降ろし、自ら目的地まで運ばなければなりません。これらにともなう手続きや書類作成も全部自分で処理しなければならず非常に面倒です。
そこで、荷主から荷物を受け取ったあと「駅まで運び、貨車に載せたり、駅に着いた荷物を取り出して荷主のもとに届ける」という、いわば「ラスト・ワンマイル」を受け持つ運送業者が必要となりました。
国は、利便性と安心・安全を図るため、信頼のおける比較的に大きな輸送会社に「通運」の免許を与え、こうした「荷主〜貨物駅」を担う業務を行わせることにします。
なお、「通運」の免許がない業者が内緒で貨物駅に運んだりすると、法律違反として罰せられることもありました。つまり通運免許がない運輸会社は「貨物駅に出入り厳禁」に近かったわけです。
この通運制度、実はそのルーツは鉄道開通よりも早く、前年の1871(明治4)年に国策で旗揚げされた「陸運元(りくうんもと)会社」が前身です。
江戸時代から続く「飛脚」制度を一元化し、普通の貨物の他にも、政府関連貨物や官営郵便物を独占的に運搬するのが目的で、数年後に「内国通運会社」へと改称しています。
長距離トラックはまだまだ「輸送界の負け組」だった?
さて、昭和時代に入って規制が少々緩和されると、全国津々浦々に中小の通運業者が雨後の筍のように乱立します。そこで、内国通運会社をベースにこれら中小通運会社を合従連衡させて1937(昭和12)年に新設されたのが、半官半民の株式会社だった日通なのです。戦時中は国家総動員の掛け声のもと、通運事業をほぼ独占していました。
第二次大戦が終わってしばらくすると「通運事業法」が作られ、財閥解体や独占禁止法もからみながら、大原則だった「1駅1事業者」という規制は撤廃され、ある程度の企業規模と信用度を備えた運送会社であれば国から「通運」の免許をもらえるように規制緩和されました。
先述の日通をのぞき、現在の社名に「通運」を謳う物流企業の大半は、この「通運事業法」の制定後に免許を取得した、いわば“戦後組”です。ちなみにヤマト運輸 は社名に「通運」を掲げてはいませんが、こちらもれっきとした戦後組の通運会社です。
通運免許は、1960年代まではまさに「金看板」そのもので、絶大な威力を発揮しました。高度経済成長の最中にあっても、国内の中長距離における陸上貨物輸送は、いまだ鉄道貨物が圧倒的でした。当時は高速道路がやっと建設し始めたころで、主要国道の整備もままならず、未舗装区間も多かったトラック長距離輸送は相変わらず「手間・暇・コスト」がかかったのです。
通運会社はこうしてトラック輸送業界のヒエラルキーのまさに頂点にいる「花形」でした。しかし、時代は規制緩和や鉄道貨物輸送の減少、さらには国鉄の分割民営化を迎え、1989(平成元)年に通運事業法が廃止。長く続いた通運免許制度はピリオドを打ちます。
代わって設けられた「貨物運送取扱事業法」では、通運業を「鉄道利用運輸事業」と呼び名を変えて、規制も大幅に緩和されています。また今では法律やお役所の書類の中でも「通運」を見かけることはほとんどなくなっているようです。
それでも日通を始め「〇〇通運」の大半がいまだに「昔の名前で出ています」なのは、「伝統」「プライド」「信頼感」、そして「ノスタルジー」だからかも知れません。