都営浅草線「西馬込支線」は「銀座線の一部」だった!? 東京メトロになるはずだった“名残”今も
京急が直通する都営浅草線は、泉岳寺〜西馬込間では「支線」のような扱いになっています。電車も半分が当区間で折り返す「地味」な路線、なぜ誕生したのでしょうか。
実態は「支線」のような浅草線「泉岳寺〜西馬込」
利用者には大変失礼な話ですが、東京の地下鉄で一番地味な区間は、都営浅草線の泉岳寺〜西馬込間ではないでしょうか。
2022年2月のダイヤ改正では、日中(10〜16時)毎時6本という「10分間隔運転」にまで減便されてしまいました。しかも、6本のうち3本は泉岳寺〜西馬込間で折り返す区間列車です。今やほとんどの人が、浅草線の「本線」は京急線の品川方面へ直通し、泉岳寺〜西馬込間は「支線」のように思っているはずです。
都営浅草線で活躍した5300形電車(画像:写真AC)。
もちろん浅草線の起点は西馬込駅で、泉岳寺〜品川間は京急本線の一部です。西馬込〜泉岳寺はれっきとした本線であるにもかかわらず、なぜ今のような中途半端な位置づけになってしまったのでしょうか。実は馬込へ地下鉄を伸ばす計画は、「諸事情」が重なって生まれたものだったのです。
浅草線自体がかなり「ややこしい出自」
浅草線こと地下鉄1号線は戦後、地下鉄建設に参入した東京都が手掛けた最初の路線です。1958(昭和33)年に押上から着工し、1960(昭和35)年から1968(昭和43)年にかけて順次、西馬込へ向けて開業していきました。このうち新橋〜馬込間の歴史は古く、戦前にまで遡ります。
しかし紛らわしいですが、そもそも戦前の地下鉄計画において「地下鉄1号線」とは、東京メトロの前身にあたる「東京地下鉄道」が建設した浅草〜新橋間(現在の銀座線の東半分)と、新橋から延伸して品川に至る本線(未成線)、さらに三田から分岐して五反田、馬込に至る支線(同)から構成されていました。
馬込に地下鉄を作るべきだった「2つの背景」とは
三田〜馬込間は1925(大正14)年に出願されたもので、1929(昭和4)年までに全区間が免許されました。申請書類には「沿線中に電車庫を設置」し、「工事の残土搬出の便に供」したいと記されています。
都営浅草線の起点駅、西馬込駅(画像:写真AC)。
東京地下鉄道は、現在も銀座線用に使われている上野車庫を暫定的な設備とし、いずれは馬込の広大な土地に本設の車庫を建設したいと考えていました。さらに1930(昭和5)年頃には、京浜電気鉄道(現在の京急)の「五反田線」(蒲田〜五反田)構想に呼応し、馬込〜五反田間の共用を合意しています。
また都市化が進んでいなかった馬込は新規事業を拡張する余地が大きいと期待されていたようで、東京地下鉄道の社長・早川徳次は1937(昭和12)年のインタビューで、池上本門寺の周辺に大住宅地と東洋一の娯楽場、動物園を建設したいという夢を語っています。
しかし資金は行き詰まります。さらに当時、東京高速鉄道が「地下鉄3号線」新橋〜渋谷間を建設し、浅草〜新橋間と一体的に運行しようとしていました。主導権争いの結果、浅草〜新橋間は3号線に編入されてしまいました。こうして2区間が合体して生まれた「浅草〜渋谷」は、残る免許とともに新設の帝都高速度交通営団に引き継がれました。現在の銀座線です。
ちなみに東京メトロは今も中馬込三丁目に3棟からなる社員寮を有していますが、これは東京地下鉄道が車庫用地として確保していた土地を転用したもので、銀座線が当初「浅草〜新橋〜馬込」で計画されていた名残のひとつです。
いっぽう、1号線の計画ルートは戦後の見直しで、押上〜新橋間の新ルートに戦前の新橋〜馬込間を繋げた現在の姿へと変わり、1958(昭和33)年に交通営団から都に免許が譲渡されて「都営地下鉄」としての歩みが始まります。
馬込からさらに「西馬込まで伸ばそう」とした理由は
路線計画を検討するにあたり都が悩んだのは、東京地下鉄道と同じく車庫と工場の用地問題でした。当初の計画では浜松町駅付近の都電工場跡地に半地下の車庫を設置する予定でしたが、都心の一等地を車庫にするのはもったいなく、また土地が狭く拡張性に難がありました。
続いて馬込で交通営団が引き継いだ旧車庫用地の買収を検討しましたが、こちらも面積が小さいため改めて適地を探したところ、西馬込付近に雑草が生い茂り、上下水道も電気も通っていない広大な土地を見つけたのです。
この土地は馬込からさらに1km以上も南に位置していたため、路線をこの車庫用地付近まで延ばすことになり、1960(昭和35)年に西馬込〜馬込間を追加申請。1964(昭和39)年に免許されました。
西馬込駅の構内配線。途中駅となることを見越したような構造になっている。
都は西馬込を「車庫に付随する駅」で終わらせるつもりはありませんでした。交通局建設本部で地下鉄建設に携わった篠原力氏は、著書『今だから話せる都営地下鉄の秘密』の中で「西馬込駅は、第二京浜が多摩川を渡る多摩川大橋まで延ばして、ゆくゆくは川崎市方面へつなげようという考えが、都交通局内にはありました。そうするために、西馬込駅は、トンネルが50メートルくらい先まで造ってあり、壁を壊せばそのままトンネル工事ができるようになっている」と語っています。
実際、『都営地下鉄建設史』にも「将来、西馬込以南路線延伸計画が発生した場合」に交差が想定される都市計画道路を「トンネル建設が可能な構造」としたと記されています。西馬込駅の構造は、終着駅では本来避けるべき「相対式ホーム」になっていますが、これも将来「西馬込駅は中間駅となるので乗降客扱いその他」問題とはならない、とまで言い切っています。
もうひとつ面白いのが、京急との直通本数を巡る協議です。なるべく多くの列車を乗り入れさせたい京急は泉岳寺から品川方面と西馬込方面を1対1にしたいと主張しますが、都はあくまでも「西馬込〜押上間が本線」であるとして難色を示したのです。結局、混雑時は概ね均等に直通列車を設定することになりましたが、都の想いを感じさせるエピソードです。
最後の花火「神奈川県延伸」の儚い夢
そんな西馬込に延伸構想が浮上したのが、1985(昭和60)年の運輸政策審議会答申第7号でした。答申には「西馬込からの延伸については、東京圏南西部方面からの輸送需要の動向を勘案のうえ、周辺路線の将来のあり方も含め、今後検討する」と記されました。
その後、バブル期に鉄道利用者が急増したこともあり、1990年代半ばにかけて具体的な検討も行われたようですが、長い平成不況で輸送需要が減少に転じると下火となり、2000(平成12)年の運輸政策審議会答申第15号ではついに削除されてしまいました。
様々な「想い」と「大人の事情」に振り回され続けた西馬込〜泉岳寺間。同区間に転機が訪れる未来を見てみたくもありますが、このまま都心の喧騒から離れた穴場的スポットであり続けてほしいと願うのは筆者だけでしょうか。