終了することが発表された『タモリ倶楽部』。同番組の革新性をひもときます(写真:時事通信)

タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)が今年3月をもって終了することが発表された。1982年の開始以来40年余りに及ぶ長い歴史を持つ番組とあって、残念に思う声はSNSなどにもあふれている。現在は深夜の長寿番組として確固たる地位を築いているこの番組だが、開始当初はいろいろと革新的な番組でもあった。そのあたりを改めてひもといてみたい。

タモリ倶楽部』には“2人のタモリ”がいた

タモリ倶楽部』の放送開始は1982年10月9日。あの『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)は1982年10月4日のスタートなので、わずか5日違いということになる。

繰り返すまでもなく、『いいとも!』の真昼に対し、『タモリ倶楽部』の深夜という放送時間をはじめ、両者はなにかと対照的だった。『いいとも!』が2014年3月末で幕を閉じた一方で『タモリ倶楽部』のほうはその後も続いてきたが、いよいよ終了ということになった。

タモリ倶楽部』という番組の特徴は、「マニアック」という言葉で説明されることが多い。確かに深夜ならではのごくごく狭いポイントを突いた企画のオンパレードで、毎回企画を考えるのも大変だろうと余計な心配をしてしまうくらいだ。しかもそれを40年続けてきたのだから、すごいとしか言いようがない。

ただ、「マニアック」と一言で言っても実はその中身は多種多様だ。タモリがこの番組で見せる顔も、いつも同じだったわけではない。思うに、少なくともそこには“2人のタモリ”がいた。1人は「趣味人としてのタモリ」、そしてもう1人は「知的笑いの担い手としてのタモリ」である。以下、それぞれの顔を振り返ってみる。

いま『タモリ倶楽部』は何をやる番組かと尋ねたら、「鉄道企画」をやる番組と答えるひとが結構多いのではないだろうか? タモリを始めとした「タモリ電車クラブ」のメンバーが集まってうんちくを傾け合い、ロケに出てはレアな電車体験に目を輝かせる。いまやおなじみの光景だ。

つい最近の放送でも、JR東海の全面協力のもと、めったに遭遇しないとされる点検専用車両「ドクターイエロー」に初乗車するという夢の企画が実現し、タモリらメンバーは念願がかない実にうれしそうだった(2023年2月24日、3月3日放送)。

ほかにも、地図というだけならまだしも、自分の想像で作る「架空地図」マニアの作品を鑑賞するなど、超マニアックとしか言いようがない切り口はまさにこの番組ならではだ。

民族音楽など、ほかのテレビではあまり取り上げないような分野に光を当てる音楽系の企画もそうだろう。いまはやりの「昭和歌謡」も、近田春夫や半田健人らを迎え、世にだいぶ先駆けてそのディープな魅力に注目していた印象がある。

つまり、生半可な知識ではついていけないような趣味の深掘り企画をやる番組というのが『タモリ倶楽部』である。もちろんつねにその中心にいるのはタモリで、いちおう司会ではあるが、そちらは大体芸人などゲストに任せて自分はひたすら興味の赴くままに楽しんでいる。

そこには、タモリの多趣味で博識な部分がベースにある。世間も、「タモリ=博識な趣味人」というイメージは強いのではないかと思う。タモリが毎回、古地図を片手に街を歩きながらその風土や歴史を掘り下げる『ブラタモリ』(NHK)は2008年にスタートしているが、この番組もある意味『タモリ倶楽部』から“派生”したといえる面がある。

いまは「推し活」の浸透を思い出すまでもなく、オタク化が進む時代。趣味人としてのタモリは、そうした現代において「憧れの人物」のポジションにある。それもいまのような時代になるだいぶん前からの筋金入りであったことが、なおさらそう思わせる。そんなタモリを以前から見せてくれていた『タモリ倶楽部』は、その意味において時代を先取りしていた。

革新的だった「空耳アワー」

とはいえ、『タモリ倶楽部』におけるタモリは、40年ずっと趣味人の顔だけを見せてきたわけではない。あるときまでは、むしろ違っていた。

そもそも『タモリ倶楽部』は、タモリに深夜で遊んでいてもらおうというスタッフの思いから企画された番組だった(『デイリー新潮』2022年12月19日付記事)。

同時にそこでは、お昼の『いいとも!』との対比も意識された。その結果、「恐怖の密室芸人」とも呼ばれたタモリの“毒”の部分が強調されることになる。この場合“毒”とは知的な笑い、具体的にはパロディーやナンセンスの笑いのことである。

実際番組初期は、深夜らしくお色気企画もある一方で、そうした企画が多かった。

例えば、開始当初には「男と女のメロドラマ 愛のさざなみ」というミニドラマのシリーズがあった。

タモリ演じる「義一」と中村れい子演じる「波子」を主人公にしたメロドラマのパロディー。さまざまなシチュエーションで、毎回2人が「運命の再会」を果たすところで終わる。そこから別に話が進むわけではない。ストーリー展開などは無視してメロドラマでありがちな「運命の再会」場面だけを切り取って大げさに誇張したもので、そこにシュールな面白さがあった。

「SOUB TRAIN」も、初期の代表的コーナーだ。

当時アメリカに「SOUL TRAIN」という有名なソウルミュージック、ダンスの番組があり、そのパロディーである。タイトルもJRの「総武線」をもじったものだ。ディスコ風のセットで、流行のダンスステップを学ぶという内容。タモリも司会役ながら、華麗なダンスを披露したりしていた。

しかし同じく音楽にまつわる『タモリ倶楽部』の企画となると、やはり「空耳アワー」にとどめを刺すだろう。レギュラーコーナーになったのは1992年のことである。

説明するまでもないが、「空耳」とは、洋楽で歌われる外国語歌詞がまったく違う意味の日本語に聞こえること。それを発見した視聴者からの投稿をタモリとイラストレーターの安齋肇が判定する。「空耳」の内容を映像にした秀逸なVTRとの相乗効果もあって、番組の代名詞的コーナーになった。

例えば、プリンスの「バット・ダンス」の一節「DON’T STOP DANCIN’」がなぜか「農協牛乳」とシャウトしているように聞こえるという空耳など、数々の名作が誕生した。

「密室芸人」時代のタモリの得意ネタにでたらめ外国語や日本語もどきのハナモゲラ語があった。どちらも普段は聞き慣れている言葉を聞き慣れないものに異化するわけで、固定観念を解体する知的笑いのお手本のような芸である。

ナンセンスとパロディーの融合ともいえ、「空耳アワー」もその系譜に連なるものだろう。それがタモリ個人の芸でなく、投稿する視聴者と映像を制作するスタッフとの協力プレーで実現したところに、テレビ番組としての『タモリ倶楽部』の革新性が凝縮されていた。

タモリ倶楽部』終了はテレビの大きな損失

そんな『タモリ倶楽部』が終わってしまうことは、単に寂しいというだけでなく、テレビ全体にとって大きな損失と思えて仕方がない。

なぜなら、最近のテレビではこうしたタイプの知的な笑いがだんだんと先細りになっているように見えるからだ。

ほかの番組なら取り上げないような微細なポイントを広げて1本の番組にするという点で、『タモリ倶楽部』の右に出る番組はなかった。ネジや工具の世界を繰り返し特集したり、「麩」や「軟骨」のような地味な食材を特集したり、はたまた街中の「ドンツキ(行き止まり)」を特集したりと、これぞニッチという企画のオンパレード。

「ニッチ」と言うといかにも狙っているかのようだが、『タモリ倶楽部』の場合はただ本当にそれをやりたいからやっているだけ、というような構えない余裕のようなものが感じられた。

「流浪の番組」とは、毎回タモリが冒頭に言うおなじみのフレーズだが、番組終了とともにこうした余裕のある知的笑いも“流浪”してしまい、テレビのなかに居場所を見つけられなくなってしまうのではないか。そう危惧するのである。

(太田 省一 : 社会学者、文筆家)