「私は会社を辞める覚悟はある」5年続く上司との関係を切れないまま、32歳になった女は…
「好きになった人と結婚して家族になる」
それが幸せの形だと思っていた。
でも、好きになった相手に結婚願望がなかったら…。
「今が楽しいから」という理由でとりあえず付き合うか、それとも将来を見据えて断るか…。
恋愛のゴールは、結婚だけですか？
そんな問いを持ちながら恋愛に奮闘する、末永結子・32歳の物語。
◆これまでのあらすじ
結子は後輩・日向に誘われ、ドライブに出かけた。話も弾むし、気が利くし、意外と優良物件？と思い始める。だが、日向には結婚願望がないことを知る。
Vol.4 恋愛の形
「今日は私がご馳走するから、たくさん食べてね！」
2月17日金曜の夜。結子は日向と、千駄ヶ谷の『CHACOあめみや』にいた。
「ここのステーキ美味しいってよく聞きますよね。楽しみです」
日向は嬉しそうにメニューを見る。炭焼き窯のある店内は、香ばしい匂いが充満している。
結子が日向と中華街までドライブしたのは、先週のこと。
帰り際に、「次はいつ会えますか？」と日向が尋ねるので、断る理由もなかった結子は、次の食事の約束をした。
今日までの間にバレンタインデーがあり、本当なら、結子はチョコレートを用意しようと思っていた。
だから、前日の13日、表参道ヒルズの『ジャン＝ポール・エヴァン』までチョコレートを調達しに出かけたのだ。
だが、ショーケースに並んだ宝石のようなチョコレートを見ながら結子は考えた。
― 別に、日向くんと付き合っているわけじゃないし…。どの程度のチョコを渡すのが適当なんだろう？
結子は、高級チョコを渡すのは、なんだか不自然な気もした。
だからといって、日向より4つも先輩である自分が、値段を抑えた中途半端なものを渡すのもどうなのだろう、と結子は迷い始めた。
― どうしよう。買うべき？買わないべき？
迷いに迷った挙げ句、結子は何も買わずに出てきたのだった。
そして、自分の中でバレンタインをうやむやにしたまま、今日を迎えた。
結子としては、先日のドライブの御礼とバレンタイン兼用のプレゼントディナーということにした。
― 結局、チョコよりも高くついてしまったけど、まいっか。
「実は、焼肉よりもステーキ派なんです」
結子の気持ちも知らず、日向は鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てるリブ・ブロックを見て嬉しそうに言う。
「よかった。ここのステーキ、余分な脂は落ちているのに、ジューシーで美味しいの。最初は塩胡椒で、その後辛子醤油で味変も試してみて」
日向は結子に言われた通りに、ステーキを調味し、頬張ると「うーん…美味しすぎる…」と満足そうに唸った。
― なんか、可愛い。
結子はカトラリーを一旦置き、日向が美味しそうに食べる様子に見入った。
― 日向くんと、付き合ったらきっと楽しいだろうな。でも、週末のドライブでは、結婚願望がないって言ってたし…。
日向は、まだ28歳。
今は結婚願望がなくても、確固たる理由がないのであれば、これから変わる可能性は十分にある。
結子は、“結婚願望ゼロ”が決定事項ではないと思いたかった。
― とはいっても、社内恋愛って周りに知られたら面倒だしな。
「結子さん、食べないんですか？」
日向に言われて、我に返る。
― や、やだ、私ってば、頭のなかで妄想しすぎ…。
ふと少し離れた席に目をやると、熟年夫婦がサラダとフィレステーキをシェアしながら、楽しそうにワインを楽しんでいた。
結子は、日向から目を逸らすように、なんとなくその夫婦を視界に入れながら、日向の話に相槌を打つ。
「素敵なカップルですね」
日向が結子の見ている2人に気づき言った。
― どういうつもりで言ったんだろう？
結子は思わず考え込む。すると日向がそれを察するように言った。
「結子さん、今日は“デート”っていう認識で合ってますか？」
「えっと、そこは…あまりはっきりと認識しないまま来てしまった、というか。こないだの御礼というか…」
さまざまな思いが錯綜し、答えに窮していると、日向が笑いながら言った。
「僕は、結子さんが迷っている理由、なんとなくわかっていますから」
「別に迷っているわけじゃ…」
「迷っていてもいいです。でも、迷っている間は、僕の誘いを断らないで下さい」
いきなり真面目な顔つきで、日向が言った。
「えっ？」
結子が聞き返したときだ。
カランと音が鳴り、入り口から人が入ってきた。
予約をしていたのだろう、スムーズに席へと案内される2人を見て結子は咄嗟に目を逸らした。
「どうしたんですか？」
日向も振り返るが、結子同様、見てはいけないものだったとすぐに向き直った。
入ってきたのは、同じ部署の上司でもある我孫子と、結子の同期である楓。仲睦まじい2人の様子に、結子は声をかけることが憚られた。
「不倫…ですか。とりあえず見なかったことに」
日向がぼそっと呟く。
「びっくりしすぎて、言葉が出ない…。それより、こんな小さな店で気づかれずに出るって無理じゃない？」
顔を寄せ、コソコソと相談しながらも、結子は日向の肩越しに向こうをチラ見した。
その時、楓と一瞬だけ目が合ったような気がした。
だが、次の瞬間には、まるで何事なかったかのように、楓は我孫子と楽しそうに食事を続けていた。全く結子たちには気づいていないかのように。
◆
翌日。
「ちょっとコーヒーでも買いに行かない？」
11時をまわってオフィスにやってきた楓は、開口一番結子を誘った。
「いいけど」
スマホを片手に無言のまま、オフィス近くのいつものスターバックスに出向いた。
空いている席を見つけて座り、ラテを一口飲むとようやく楓が口を開いた。
「見られちゃったね…昨日」
楓はやっぱり気づいていたのだ。
「いつからなの？この前ロエベを買ってもらった、45歳会社経営の彼はどうしたの？」
「うん…実は、そもそもそんな彼いないの」
楓が申し訳なさそうに打ち明けた。
彼がいる、結婚の話がある、そういう風に言っておけば、社内の人も「彼女は相手がいる」という眼鏡で見てくれる。
仮に、社内で2人が話していても、会社の近くを歩いていても、変に疑われることもないと楓は言った。
「彼とは、5年前からなのよ」
結婚したがっている彼がいる、とわざわざ嘘をつくほど、楓は我孫子との関係が大事なのだ。
5年もの間、人知れず続いてきた2人の関係。互いに危険を冒してでも、離れることのできなかった理由はなんなのだろう、と結子は思った。
だが、たまたま今回見られたのが結子だったからよかったものの、それが他の社内の人間だったら、どうなっていただろう？
「これからも続けていくの？我孫子さんはなんて言ってるの？」
「彼の子ども、まだ小学校にも上がっていなくて。まだ離婚はできない、ごめんって言ってる。でも私、それでもいいから一緒にいたい。もしバレたら、私、会社を辞める覚悟」
「何言ってるのよ？我孫子さんには私もお世話になってるけど…。付き合っていても先がないんだよ？」
そう言ってる側から、その言葉がブーメランのように結子の元に戻ってきて刺さる。
「先って何？」
楓がぼそっと声に出した。
「先って、結婚のこと？最終的に行きつくところは結婚しかないのかな？結婚したって幸せじゃない夫婦はいっぱいいる。それでも、ゴールを結婚に設定した方がいいのかな」
「そうとは言い切れないけど…。それは私も、わからない」
歯切れ悪く結子が答えた。
「ごめん、昨日のことは忘れて。彼は壁に向かって座っていたから、結子と日向くんがいたことに気づいてないの」
「言わない。日向くんにも言っておく。でも、もし私たち以外の人から関係がバレたとして、1人で被るのだけはやめなね。責任は平等にあると思うよ」
恋に盲目な女は、なぜこうも男を守り、許すのだろう。
かつての自分がそうであったように。そこに本当の幸せなどあるはずもないのは、結子自身が一番知っている。
「ありがとう。ところで、結子は日向くんと付き合ってるの？」
話題を変えるかのように、楓が聞いてきた。
「ううん、まだそこまでは。というか、実は迷ってる」
「ふーん、そうなんだ。いい奴だし、社内だけでなくクライアントの女性からもモテモテらしいよ」
日向が社内の20代女子に人気があるのは、結子だって知っている。
「でも、誰の誘いにもなびかず、食事会に顔を出すこともなく、SNSも一切やってないし、プライベートは謎」
楓の話を聞きながら、そういえば、と結子は思い出した。先日彼が、クライアントのクレーム処理をしてくれた時も、先方の女性担当者を個人的に食事に誘って丸く収めてくれた。
― 結婚願望はない、って言い切られたけど、私を好きって言うのは、本当なのかも。
そう思いながらも、ずっとある疑問が拭えずにいた。
― でも、なんで私なんだろう？
結子に気にかけてほしくてクレーム処理を頑張ったと、あの時日向は言った。
彼と同じチームで仕事をしたのは、この間のプロジェクトが初めてだ。付き合いたくなるような接点があったとも到底思えず、なぜ自分なのか、いまひとつ結子はわからない。
― 年上っぽいところがいいとか、タイプだとか何でもいいから、決定的な理由を言ってくれればいいのに…。
しかし、そんなことを考えている時点で、結子の答えは決まっているのだ。
― 結婚願望の話は置いておいて、付き合ってみようかな。
▶前回：プロポーズされた瞬間に、4年付き合った男の本性に気づいた女。男のある言葉がきっかけで…
▶1話目はこちら：次付き合う人と結婚したいけど、好きになるのは結婚に向かない人ばかり…
▶NEXT：2月23日 木曜更新予定
彼女のことを好きになったのには理由がある。日向が見た、かつての結子とは
