徳川家康はなぜ織田信長に逆らわなかったのでしょうか(イラスト:えのすけ/PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送が始まり、「徳川家康」に注目が集まっている。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた徳川家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。

家康を取り巻く重要人物たちとの関係性を紐解きながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第7回は、今川氏を裏切った徳川家康が織田信長を裏切らなかった事情について解説する。

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多角的な研究がなされている徳川家康

徳川家康はどんな人で、どんなふうに天下を手にしたのか。その戦いぶりや人間性について、実に多角的な研究がなされており、今もなお、新しい説が打ち出されている。大河ドラマで取り上げられたことをきっかけに、家康の多彩な論じられ方を知って、驚いた人も多いのではないだろうか。

しかし、家康の天下取りにあたって「織田信長との協調が欠かせなかった」ことについては、誰もが異論なきところであろう。

今川氏で長く人質生活を送っていた家康だったが、桶狭間の戦いで今川義元が敗れたことを機に、今川氏を見限って岡崎城で独立。織田氏に接近して、その勢力を伸ばしていく。

とはいえ、桶狭間の戦いののちすぐに、家康は織田氏と手を結んだわけではない(『徳川家康、桶狭間後に「今川氏を見限った」真の理由』参照)。

江戸幕府の旗本である大久保彦左衛門忠教が子孫に書き残した『三河物語』では、その様子が詳しく記載されている。

「またあるときは挙母の城へ押しよせ、多くを殺す。あるときは梅ヶ坪の城へ戦いをしかけ町を打ちこわす。あるときは小河へ戦いをしかけた」

つまり、挙母城や梅ヶ坪城(ともに愛知県豊田市)を襲い、小河(愛知県東浦町)へ進軍したほか、刈谷(愛知県刈谷市)などで、織田勢との攻勢を繰り広げながら、家康は西三河の平定に乗り出したことになる。ちなみに、このころ家康はまだ「元康」と名乗っていたが、この記事では「家康」で統一する。

妻子がいる駿府にも帰らず、かといって織田方にも味方しない家康は、さぞ不気味な存在だったに違いない。そんな家康の次なる決断は「信長との和議」だった。『三河物語』ではこう続けられている。

「そののち、 信長と和議を結び、この城々との戦はなくなった」

このときに家康と信長を仲介したのが、刈谷城や小河城(別名:緒川城、小川城)に拠っていた織田方の水野信元だったという。一方で「織田方の滝川一益が石川数正に和議を申し入れた」という説もある。

和議に至った経緯の詳細は明らかになっていないが、水野信元といえば家康の生母、於大の方の兄にあたる。わが子の身を案じる於大の方からの働きかけもあって、信元が動いて信長と家康を結んだのではないだろうか。

深まる今川氏との対立

西三河を平定した家康は、永禄4(1561)年2月に信長と和議を結ぶと、東三河へと進軍。本格的に今川氏と対立を深めていく。同時に、今川義元のあとを継いだ今川氏真は、発給文書を次々と発出している。4月14日には、次のような文書を発給した。

「去十一日於参州牛久保及一戦、父兵庫之助討死之由、不便之至」

去る永禄4(1561)年4月11日、東三河における今川氏の拠点である牛久保城を、家康が攻撃。今川方の真木兵庫之助定安(重信)が討ち死にしたため、氏真はその息子である真木清十郎(重清・定善)と真木小太夫(重基)に感謝状を送ったという。

この4月11日こそが、氏真にとっては、家康が謀反を起こした認識した日だった。今川方の鈴木重時と近藤康用にのちに宛てた発給文書で「去酉年四月十二日岡崎逆心之刻」と記し、怒りをあらわにしている(発給文書には4月12日とあるが、正確には4月11日夜半と思われる)。

この牛久保城の戦いに始まり、5月には八名郡宇利や設楽郡富永口で、7月と8月には八名郡嵩山で、そして10月には設楽郡島田でと、家康は今川軍とたびたび交戦した。

氏真は怒り心頭で、6月11日の発給文書では「松平蔵人逆心」と家康を非難している。家康が離反した影響を受けて、今川方だった三河の国人衆らにも動揺が走り、松平方に転じる勢力が現れて、2つに分裂していく。

氏真が「三州過半錯乱」(6月20日、山本清介宛)、「三州錯乱」(7月20日、岩瀬雅楽介宛)、「参州忩劇」(11月7日、羽田神主九郎左衛門尉宛)と危機感を募らせていくのも、当然のことであった。

清洲城での「清洲同盟」がありえないワケ

そうして今川氏とバチバチと火花を散らしながら、『徳川実紀』によると、家康は清洲城に足を運び、信長を訪問。会見後に同盟を結んだとされてきた。いわゆる清洲同盟である。『徳川実紀』だけではなく、『武徳編年集成』をはじめとする江戸幕府の編纂した歴史書でも、家康は清洲城を訪れたとしている。時期は永禄5(1562)年の1月だという。

だが、ここまで記事を読み進めた読者ならばわかるように、今川氏と交戦していた家康が城を空けて信長を訪問することは、不可能である。また、家康が清洲城を訪れたという記載は『三河物語』『松平記』という戦国期に近い史料には見られない。信長側の動向を書いた『信長公記』でも、触れられていない。

当時、当主が顔を合わせて同盟を結ぶことがあまりなかったことも併せて考えると、清洲同盟はなかったと考えるのが自然だろう。ただし、永禄4年2月の時点で、家康と信長は和議を行っている。その意義は大きく、だからこそ、4月から家康は東三河の平定へと乗り出すことができた。

そして、家康との和議は信長にとってもメリットが大きかった。というのも、このころ、信長は美濃の斎藤龍興との戦を行っている。同時に三河で家康と戦うのは避けたかった。双方が自軍の戦いに集中するために、家康と信長は手を組んだことになる。

それが、攻守同盟、つまり「どちらかが攻められたら助けにいく」関係にまで発展するのは、少し先の永禄6(1563)年3月2日のこと。信長の息女である五徳と、家康の嫡男である竹千代(信康)との婚約の成立がきっかけとされている。以後、家康は信長と強固な同盟関係を結ぶことになる。

同盟といえば、今川氏も武田氏と北条氏と同盟を結んでいる。「甲相駿三国同盟」とのちに呼ばれる軍事同盟だ。

桶狭間の戦い後、家康がまだ織田軍と争っていたときに、今川氏が援軍を送れなかったのも、氏真が同盟を重視して北条氏のサポートを行っていたからである。当時は、上杉氏が関東へ侵攻を開始しており、北条氏は同盟国の援軍を必要としていた。

ところが、14年続いた「甲相駿三国同盟」も破綻するときは、あっけない。永禄11(1568)年12月、武田信玄は駿河国へ侵攻。家康と密約を結んだうえで、かつての同盟国である今川氏に、容赦なく牙をむいている。そんなふうに同盟国でも決して油断できないのが、戦国時代だ。

「強き者に逆らわない」

そんななか、家康は信長との同盟を守り続けた。それも当初こそは対等な同盟だったが、信長が勢力を伸ばすにつれて、様相が変わってくる。武田氏からの防波堤として、家康は過酷な役割を背負わされて、次々と信長から難題を課せられることになる。

それでも、家康が信長を裏切ることはなかった。これこそが、家康が「律義者」とされるゆえんだが、やや違和感もある。家康は、人質とはいえ取り立ててもらった今川氏を裏切り、織田氏についている。「ただ律儀だったから信長との同盟を守った」とも言い切れないだろう。

ただ、家康は戦国時代を生き残るにあたり、ごくシンプルなことをやり抜いたにすぎない。それは「強き者に逆らわない」ということである。家康からすれば、なぜ他の者がそのことを徹底しないのが不思議に思っていたのではないだろうか。

家康は信長との同盟を実に20年以上も守り、信長が死ぬまで逆らうことはなかったのである。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』 (吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
二木謙一『徳川家康』 (ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』 (歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
大石泰史『今川氏滅亡』(角川選書)

(真山 知幸 : 著述家)