公道を走るクルマに必要なナンバープレート。この制度は20世紀初頭に始まりましたが、日本にクルマが登場したときからあったわけではありません。なぜ誕生したのでしょうか。

ナンバープレートが初めて採用されたのは東京だった

 公道を走るため、そして自身の所有車であることを証明するために、クルマのナンバープレートはなくてはならないものです。しかし、このナンバープレートの制度は、日本に初めてクルマが登場したときから存在したわけではありません。最初は車両の数も少なかったので、必要なかったのです。


現在一般的なナンバープレート(画像:写真AC)。

 日本で最初にナンバープレートの装着が義務付けられたのは、1907(明治40)年のことでした。その頃は交通ルールが未発達で、公道の事故が頻発したため、新聞で報じられるなどし、特に東京で問題になっていました。そこで、事故を起こしたクルマの所有者を明確にするようにと、4桁の数字を刻印したプレートの装着が義務づけられました。

 ただこれは、当時の警視庁が定めた「自転車取締規則」第18条によるもので、東京都の前身にあたる東京府限定のものでした。

 ナンバープレートの装着が全国的な義務となったのは、それから12年後、1919(大正8)年2月の「自動車取締令」からでした。そのときにナンバープレートの規格は統一され、自家用車は黒地に白文字、営業車や特種自動車は白地に黒文字、さらに地名を漢字の頭文字で表記することが決まりました。戦前の段階ですでに、用途によってプレートの色を分けることや、地名の表記など、現在のナンバープレートに通じる形ができあがっていました。

軽自動車の性能向上などで黄色ではなくてもよくなる!

 さらに、1933年(昭和8)年の法改正で、普通自動車、特殊自動車、小型自動車の3種に分けられ、自家用・営業用の色判別は再びなくなり、4ケタの数字の後に「.(コンマ)」がつけられるようになります。

 現在の見慣れたナンバープレートの原型ができ上がったのは戦後です。1951年(昭和26)年に「道路運送車両法」が施行されると、道府県名を表す漢字1文字に数字と車両ナンバーという形式が採用されます。「道府県名」とした通り、東京都だけはこのときもまだ地名表記はないままでした。1955年(昭和30)年3月には東京のナンバープレートにも地名が追加されたほか、ひらがなでの表記も加わりました。

 なお、当時は地名が一文字で表現される地名一文字ナンバーでしたが1980年代後半から順次、フル表記へと変更されるようになりました。

 また、2000年代に入ってからは自家用軽自動車のプレートが必ずしも黄色ではなくてよくなりました。これは、軽自動車の性能向上により高速道路でも普通車と同様の性能が発揮できるようになり、これまでの制限速度だった80km/hから100km/hに変わったことと、ETCの普及で高速料金の取り間違いが減ったことなどが関係しています。

 そのため、軽自動車でも白地のプレートが使われ始め、ラグビーワールドカップや東京オリンピックの特別仕様ナンバープレートが登場しています。