32歳女が5年付き合った彼との別れを決断。きっかけは、部屋で見つけたあるモノ
恋に仕事に、友人との付き合い。
キラキラ下生活を追い求めて東京で奮闘する女は、ときに疲れ切ってしまうこともある。
すべてから離れてリセットしたいとき。そんな1人の空白時間を、あなたはどう過ごす？
▶前回：10年間「微妙な関係」の男女。彼からの告白に、女は心を揺さぶられて…
Vol.17 長すぎた春
『ヒュッ』
水曜の23時半。
穂乃果が適当に選んだ“ウサギが踊っているスタンプ”を恋人の俊一に送ると、ほどなくしてスマホが鳴った。
『ポコッ』
今日の2人のやりとりは、この2つのスタンプだけだ。
― 俊一、今日も生きてるか。そういえば、今週末って「会う週」だっけ？
穂乃果と俊一は、2週間に一度週末をともに過ごす。5年の長い付き合いのなかで出来上がった2人のペースだ。
スマホのカレンダーを見ると、先週末は2人は俊一のマンションで過ごしている。
― 今週が「会う週」じゃなくて良かった。
今週は、明日も明後日も仕事関係の会食だし、土日ぐらいは何も考えず過ごしたいと、穂乃果は思った。
先週の土曜日だって、一緒に過ごした、といっても中目黒に住む穂乃果が、広尾の俊一の家に泊まっただけ。
「白金方面に素敵なカフェを見つけたから、土曜に一緒に行こうよ」と穂乃果が誘ったが「僕は家にいるよ。楽しんでおいで」と、俊一は家にいることを選んだのだ。
結局、穂乃果は、カフェで1人昼食をとり、麻布十番でネイルのリペアをしたあと、ナショナル麻布で夕食の買い物をして彼のマンションを訪れた。
2人でパスタとサラダの夕食を取り、ワインを飲みながらNetflixで映画を見た。
そして、24時前に2人でベッドに横になり、穏やかな眠りに落ちたのだ。
― 最近の私たちって、まるで長年連れ添った夫婦みたい。そもそも付き合ってる意味あるのかな…。
そんな考えが穂乃果の脳裏をかすめる。
◆
穂乃果と俊一が出会ったのは、5年前。
丸の内で開かれたお食事会だった。
当時は2人とも27歳。
それに、お互い早稲田大学出身で、業種は違うが同じ広告関係の仕事をしていたので、共通の話題も多くすぐに意気投合した。
出会って3ヶ月、5回目のデートで俊一が告白し、穂乃果も喜んでOKしたのだった。
付き合い始めたころは、お互い忙しい仕事の合間をぬって、平日もよくデートをしていた。
レストランを開拓したり、好きな映画をBlu-rayで見たり、会うごとに愛が深まるのを穂乃果は感じていた。
2人で交わす会話も当時の穂乃果にとっては楽しくて仕方がなく、昼休みのLINE、寝る前の短い電話、すべてが愛おしい時間だった。
俊一の仕事が忙しい時や、友達と会っているときは、もちろん連絡を控えていたし、彼も穂乃果に対して同じようにしてくれていた。
そうこうするうちに、連絡は少しずつ減り“2週間に一度、週末を一緒に過ごす”という今の状況に落ち着いたのだ。
付き合い始めて2年目に、穂乃果の中目黒のマンションの更新のタイミングで、同棲話が出たこともある。
そのころには、2週に一度ルールができつつあったので、「一緒に住めば、家で会えるのだから、土日をお互い自由に過ごせるんじゃない？」と俊一が提案してくれたのだ。
家探しをしたが、お互い納得する部屋を見つけることができなかった。
「そもそも近くに住んでいるのだから、今のままで良し」とその時は、結論づけた。
32歳になった穂乃果に、結婚願望がないわけではない。
今、俊一がプロポーズしてくれたら、穂乃果は仕事を続けながら今とさほど変わらない暮らしができる。
住む場所や、家での過ごし方が多少変わるかもしれないが、それもいずれ折り合いがつくだろうと穂乃果は想像できる。
一方で、穂乃果は、俊一と別れたときの自分も想像できる。
かつては想像するのも悲しく怖かった別れ。今の穂乃果は、俊一のいない人生を簡単に思い描くことができる。
「結婚と別れ」どっちも想像できるが、どっちもイメージが湧かないというのが正直なところだ。
◆
“会う週”ではない土曜日の朝。
穂乃果は自室のベッドで目覚めると、軽くストレッチをしてからUber Eatsでお気に入りのスムージーを届けてもらい、朝食を済ませた。
それから、部屋を隅々まで掃除した。
― さてと。
穂乃果の目に入ったのは、キッチンの片隅に置いてある木箱。
付き合い始めたころに一緒に旅行した南仏で買った、『ライヨール』のカトラリーセットとソムリエナイフだ。
ころんとしたミツバチのマークが刻まれたカトラリーは、枝の部分は水牛の角でできていて、ずっしりとしているが不思議と手に馴染む。
店先に飾ってあったセットに穂乃果が、一目ぼれして買ったものだ。
穂乃果の家で食事をする時に使っていた2セットだけは、木箱にはしまわずキッチンのカトラリーコーナーに置いてある。
まずは木箱を開けると、穂乃果はクリーナーを使ってカトラリー一つ一つを丁寧に磨いていった。
少し黒ずんでしまったミツバチの刻印もすっかり元通りになったし、水牛の角も柔らかい布でやさしく拭き直した。
そして、カトラリーコーナーから、使い込んだ2セットを取り出すと、それらも磨き始めた。
穂乃果が焼いたステーキ、俊一が出張先の市場で買ってきてくれた鯛、2人が大好きなアーティチョークのサラダ、食事の思い出は数えきれなかった。
時には笑いながら、時には黙りこくってしまう日もあったけれど、あらゆる日をこのカトラリーはともにしてきたのだ。
穂乃果は思い出せる限りの俊一との日々を思いながら、銀磨きに没頭した。
― 新品みたいになっちゃった。
すっかりきれいになったフォークとナイフを木箱に戻すと、穂乃果は拍子抜けしたように、部屋の真ん中に座りこんだ。
2つのフォークとナイフが、木箱におさまってキラキラと輝いている。
まるで使われたことなどないかのように。
それぞれの場所で輝く2人。
穂乃果と俊一は、出会うべくして出会い、ぴったりと寄り添い同じ時を過ごしてきたと信じていた。
しかし、本当に2人が歩いていたのはものすごく近い、でも違う2つの道。
この先も、二つが交わることはないけれど、これからも俊一を感じながらこの道を歩んでいきたい。
近くで違う道を歩むからこそ、2人の人生は輝くのだ。
穂乃果は輝くカトラリーセットを前に、すとんと思考が落ち着いたのを感じた。
気がつけばすっかり夕方になっていた。穂乃果は俊一に電話をかけた。
「明日、久しぶりにうちでご飯を食べない？話したいことがあるの」
日曜日、穂乃果の家に来た俊一はライヨールのテーブルセットを見て「懐かしいな」と言った。
「昨日うちのBlu-rayを整理してたんだ。かなりの数になっちゃったからね。
穂乃果が持ってきてくれた『ショーシャンクの空に』はNetflixでも見られるし、処分しようと思う。
でも、『トイ・ストーリー』シリーズは、なんか捨てられないんだよなあ」
俊一が笑いながら言ったあと、ふと真顔になった。
「それで、決心したことがあるんだ。多分穂乃果が思っていることと同じ。僕から話すよ」
「ちょっと待って。まずは、ワインを開けよう」
穂乃果は、彼の言葉を遮って、ピカピカになったソムリエナイフでワインを開けた。
― 私たちってやっぱりなにからなにまでぴったり。こんな結論を出すタイミングまで同じだなんて。
この人の近くにいたい。でも、それと『恋人同士でいたい』とは別の思い。
お互いの思いやりが邪魔をして、長い間気づけなかったこと。同じことを、俊一も気づいたのだろう。
決心したとはいえ、やっぱり少し悲しいこの話を、どこまでも優しいこの人に始めさせてはいけない、と穂乃果は考えた。
そしてしばらくの沈黙の後、穂乃果が口火を切った。
「俊一、私たち、別れよう」
俊一は微笑んだ。
そして2人の最後の晩餐は、穏やかに始まった。
それは、いつまでも続く穏やかな友情の始まりでもあった。
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