ある日突然、2ヶ月前に別れた元彼が訪ねてきて…。男が放った信じられない一言とは
29歳―。
それは、節目の30歳を目前に控え、誰もが焦りや葛藤を抱く年齢だ。
仕事や恋愛、結婚など、決断しなければならない場面が増えるにもかかわらず、考えれば考えるほど正解がわからなくなる。
白黒つけられず、グレーの中を彷徨っている彼らが、覚悟を決めて1歩を踏み出すとき、一体何が起こるのか…。
◆これまでのあらすじ
美佳は、恋人と同棲するためにタワマンに引っ越しをする。しかし、引っ越し当日にフラれ、ひとりで住むことに。その後、SNSをキッカケに同じマンションに住む怜子と知り合う。怜子もまた、恋人と別れたばかりだった。同じ境遇であり、良い関係を築いていけると思ったのだが…。
失恋のヒエラルキー【後編】
「一瞬、彼かと思ったんだけど…。人違いだったわ」
怜子が、背の高いジャケット姿の男性を目で追っている。
「ダメね。どこにいても、すぐに彼の姿を探してしまうの…」
怜子の言葉に、美佳は深く頷く。
今日は、汐留にある『フィッシュ バンク トーキョー』にディナーに来ている。
怜子と知り合って2週間が経った。
相変わらず、怜子はいかに別れた彼を愛していたか、そして失恋がいかにつらかったかをアピールしてくる。
失恋したばかりなのは美佳も同じであるが、怜子は、自分のほうが傷ついていると暗に訴えてくる。
たった2年しか付き合っていない美佳より、4年付き合った自分のほうが苦しみはより深いのだと、怜子はそれとなく主張する。
そんなふうに、常にマウントをとる怜子の言動に辟易し、美佳も一時は距離を置きそうにもなったが、その心理にある変化があった。
怜子の悲嘆に暮れる姿を見ることで、「自分はまだマシなのだ」と思えるようになったのだ。すると、自身の失恋の悲しみも和らぐ。
怜子との関係は友情とは言い難いが、お互いの足りない部分を補い合うような、絶妙なバランスで成り立っている関係だと美佳は感じている。
「怜子さん。そのネックレス、素敵ですね。カルティエですか？」
美佳が、胸もとのアクセサリーにふれる。
「あ、これ？実はこれ、元彼にプレゼントしてもらったものなの…」
美佳の思惑通り、怜子はプレゼントを贈られたエピソードを、哀愁たっぷりに語り始める。
22時頃、店を出た。
タクシーで芝浦のタワーマンションに戻ってくる。
ひんやりとした海からの風を受けながら、少し急ぎ足でエントランスに向かう。
途中、怜子が不意に立ち止まる。
「どうしたんですか？」
美佳が声をかけるが、前を向いたまま動かない。
エントランス脇に植え込みがあり、その前のベンチに座っている男性に、視線が注がれていた。
ガーデンライトに照らされてはいるものの、逆光のため顔が認識できない。
「貞雄…さん？」
怜子が、別れた彼の名前を呟いた。
男がこちらに気づき、立ち上がる。
近付いてきたところで、顔がハッキリと見えた。
ジャケットのお腹の部分がポッコリ膨らんだ、やや肥満体型の40代前半と思しき容姿をしている。
― さっきの人と全然似てないじゃない！
店で怜子が見間違えた男性とは、ジャケット姿という以外、共通点が見当たらない。
「連絡しても、返事がないから…」
男が口を開く。
「インターホンを押したけど、留守みたいだったから、少しだけ待ってみたんだ」
「ごめん。食事をしていて、スマホも見ていなくて…」
2人がたどたどしく会話を交わす。
― これはもしかして…。ヨリを戻しにきたってこと…？
ここから先の展開は気になるものの、美佳は自分が立ち会うのは相応しくないと判断し、「じゃあ、私は…」とその場を去ろうとする。
「待って」
怜子が引き止める。
「ここにいて。お願い」
― ええ…。私なんかがいていいの…？
戸惑いながらも、様子を見守る。
「で、どうしたの？」
怜子が男に尋ねる。
「話がしたくて…」
「用件は？」
― いや、怜子さん。ちょっと言い方が冷たくない？せっかく訪ねてきてくれたのに…。
男が歩み寄ろうとしているのに、怜子の対応はそれを突き返そうとしているようにも感じる。
― 復縁の申し出かもしれないのに…。
うまくいくはずのものも、そうではなくなるのではないかと、美佳は内心ヒヤヒヤする。
「いや、あの…」
「早く言って」
「やり直したいんだ…」
― やっぱり！怜子さん、良かったじゃない…。
美佳は羨ましく思いつつ、心のなかで祝福するが、怜子の表情がずいぶん険しいのが気になる。
「ごめんなさい」
― ええっ！なんで！？
怜子の予想外の返答に、美佳も狼狽える。
「どうしても、ダメかな…？」
「私のなかに、もうあなたはいないの。ごめんなさい」
「そっか…」
男がそう言うと、肩を落とし、名残惜しそうに去って行く。
「え、いや…怜子さん。なんであんなこと言ったんですか？彼のこと、モロ引きずってるじゃないですか」
「だって、悔しいじゃない。向こうが別れようって言ってきて…。自分勝手よ」
「そうだけど…。でも、このままだと怜子さんだって、つらいままじゃないですか…」
「つらいままよ。だって愛しているんだもの。美佳さんなら、私の気持ちわかってくれるわよね？ねえ？」
怜子の訴えに、美佳は唖然とする。
「怜子さん。この期に及んで、私につらさをアピールしてどうするんですか…」
― きっと今まで、私に失恋のマウントをとることで理性を保ってきたせいね。
復縁を希望していないはずはないが、精神の安定が保てなってしまうのではないかと、どこかで恐れを抱いているのかもしれないとも思う。
「怜子さん、矛盾してます」
「ええ…？」
「自分から、つらい道に進んでいくなんておかしいです。自分で自分を追い詰めてどうするんですか」
「……」
「このままだと、際限なく悲しみを深めていくだけですよ。そんな人、哀れじゃないですか」
「哀れ…。私が…？」
「そうですよ。もっとシンプルに考えてください。彼の気持ちに応えてヨリを戻したほうが、幸せになれるに決まってますよ」
怜子がチラッと視線を外す。
男の後ろ姿がだいぶ小さくなっている。
「ほら、行ってください」
美佳の言葉に促され、怜子は振り返る。
ゆっくりと歩き出し、足取りは重いものの次第に歩調を速め、やがて駆け足に変わる。
― 良かったね、怜子さん…。
怜子を見送り、美佳は少し肩の荷がおりたような、胸のつかえがとれたような落ち着いた気分になる。
しかし、部屋に戻った途端、孤独感に襲われ、寂しさが湧きあがる。
修平と別れてまだ2週間。
本来なら、ひとり残された空虚な空間で、美佳も失恋の痛手を引きずり、苦しみ悶える時間を過ごしているはずである。
さらに、29歳という年齢が追い打ちをかけ、底知れない不安や焦燥感に駆られていたはずだ。
そうならならずに済んだのは、怜子という存在があったからだ。
怜子に共感し、憐れみをかけることで平静を保ってきた。
寄り添い合えるパートナーを失ってしまったため、美佳の心が乱れ始める。
― 誰か…。誰か私より不幸な人、いないかしら…。
美佳はスマートフォンを手に取り、検索を始める。
Instagram、Twitter、Facebook…、別れをにおわせるような、自分よりももっとつらい思いをしていそうな投稿を探る。
― わかるわ、その悲しみ。つらいよね…。
恋人に限らず、家族やペットとの別れを綴り、悲しみの滲み出ている投稿を見つけては同情を寄せ、「いいね」を押していく。
― もしかしたら、怜子さんもこうやって私のインスタに「いいね」を押していったのかも…。
怜子と同じ行為を繰り返しているかもしれないと思いながらも、美佳は心の安定を保つための作業を続ける。
◆
翌日、怜子から連絡があり、美佳はカフェに向かった。
てっきり復縁の報告を受けるのだと思っていたのだが…。
「え…ええっ？ヨリを戻さなかったんですか…？」
思いがけない結果を聞かされ、美佳は呆気にとられる。
「どうして…？」
「彼によくよく話を聞いたら…。ほかの女性とうまくいかなかったから戻ってきたって言うの。それを聞いて頭にきちゃって…」
「いや、でも…。怜子さん、あんなに愛してるって…」
「きっと、思い出を美化して、彼のことを過大評価してたのね…」
美佳の頭に、ポッコリお腹の男性の姿がよぎる。
「素敵な恋愛をしてきたと思っていたんだけど、そうじゃなかったかも。美佳さんが叱ってくれたおかげで、目がさめたわ」
怜子が朗らかな表情で礼を述べる。全身から漂わせていた悲愴感が失せ、どこか晴れ晴れとして見える。
「でも、良かったです。怜子さんが前向きな選択をしたなら」
「うん。だから、もうあのマンションにも未練はないから、近々引っ越そうと思うの。気持ちを入れ替えて、新たな出発する意味でもね」
「そうですか…」
― 私も下ばっかり見てちゃいけないな…。
怜子の前向きな発言に、自省を促される。
自分よりも不幸な人間を探すなんて、自らを貶めていくだけなのかもしれないと美佳は自戒する。
修平とのことを、すぐに吹っ切ることはできないかもしれない。
ただ、怜子の穏やかな様子を見ていると、美佳は少しずつでも前に進もうと思った。
そして、怜子と、ようやく良き友人になれた気がした。
まずは、昨夜つけたSNSへの「いいね」を取り消す作業から始めようと、美佳は思うのだった。
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