西武でユーティリティープレーヤーとして12年間活躍した熊代聖人氏【写真:球団提供】

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来季からコーチ就任、引退決断の経緯を語る

 来季からプロ野球・西武の2軍外野守備・走塁コーチに就任する熊代聖人氏が、「THE ANSWER」のインタビューに応じた。愛媛・今治西高で「4番・投手」だった男は、社会人野球を経て、プロでは主役からユーティリティープレーヤーへ変貌していった。まだ現役で戦える思いもある中で引退・コーチ就任を選んだ経緯、挫折した1年で救われた先輩からの言葉を聞いた。(取材・文=THE ANSWER編集部・宮内 宏哉、敬称略)

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 今年10月、秋季練習が始まる前日の夜まで、熊代は次の1年に選手として備えていた。「明日からどうやって鍛え直していこうか」。考えを巡らせていたその時、スマホに球団から着信があった。「明日、スーツで球団事務所に来てください」。12年も球界にいれば大体分かる。戦力外通告を受ける前日の決まり文句だった。

 翌日、事務所に到着するまで思い悩んだ。「戦力外になること自体、ちょっとビックリしたというのが正直な気持ちでした。あぁ……どうしようかって」。選手としてまだできる自信はある。でも、他球団のユニホームを着て、1軍でプレーするイメージは全く沸かなかった。「この時点で(選手としては)ダメだな」。事務所で告げられたのは来季の構想から外れていることと、2軍外野守備・走塁コーチの就任オファーだった。

 一度持ち帰って妻に相談したものの、30分後には快諾の返答をした。同僚たちからも戦力外、コーチ就任に驚きの声が上がる中、2日後には宮崎で行われているフェニックスリーグに指導者として参加。立場は変わるが、来年もライオンズのために尽くすことになった。

「耐えに耐えた12年」

 熊代は現役生活をこう表現した。2010年のドラフト6位で西武に入団。2年目8月の楽天戦では、右中間への打球をスーパーキャッチし、素早い返球でトリプルプレーを完成させるなど守備で魅せた。2014年は初の開幕スタメンに名を連ねるが、レギュラー獲得には至らず。途中出場からチームを支えることが多くなった。

 高校時代、愛媛・今治西ではエースで4番打者として甲子園でも名を馳せた男。プロでは一転、縁の下の力持ちとなった。内外野を守り、途中出場からでもチームに貢献。試合前の円陣で「皆ええか?」とナインを鼓舞する“訓示”を行うムードメーカーとしてもファンに知られる存在に。辻前監督のお面を被って発破をかけたこともあった。

挫折の1年、救われた栗山巧の言葉「絶対、腐んなよ」

 大きな挫折は7年目。プロ入り後、初めて1軍出場ゼロに終わった2017年だ。救われたのは、通算2000安打を突破している偉大な先輩・栗山巧の言葉だった。

 鮮明に覚えている。開幕直前、2軍落ちを告げられたすぐ後だった。

「絶対、腐んなよ。誰が見てるかわからんから、頑張っとけよ」

 温かく、胸に響く言葉だった。「引退まで、その言葉に助けられました。常に思ってやってましたね」。1年間、1軍に出られなくても、あの一言があったから改めて自分を客観的に見つめ直せた。

 考えたのは、ライオンズで熊代聖人という選手はどんなピースになれるのか。「自チームから、俺ってどう見えてるんだろう」。出た答えは、一層ユーティリティープレーヤーとして徹すること。試合前に行っていた訓示も、そんな決意から生まれたものだ。

「人のことばかり気にしていたらあかん、まずは自分のことをしっかりやらないとって考えたのがその年。めちゃくちゃ悔しい1年でしたけど、おかげでその先の5〜6年があったと思う」

 絶対的レギュラーにはなれなかったけれど、ライオンズに必要とされ、尽くしてきた。最も思い出に残るのは主役、そしてパパになった2013年9月29日。デーゲームのロッテ戦だ。

「多分、今日生まれる」

 朝4時頃、里帰りしている妻から連絡を受けた。「試合、頑張って来るわ」と西武ドームに向かったが、ゲーム直前になっても連絡が来ない。「試合中でもいいので、生まれたら教えてください」と広報に伝えていた。

家族へ涙の感謝「毎日支えてくれて、ありがとう」

 7回に代走から途中出場し、間もなくして第一子の長男が生まれたことを知らされた。すると同点の延長10回、2死一、二塁のチャンスで打席が回ってきた。「絶対、俺が決めたる」。益田直也の速球を右翼線に運び、劇的なサヨナラ打に。父になってからおよそ2時間30分後の出来事だった。

「まさか自分にサヨナラの場面で回ってきて、代打も出ず、渡辺久信監督(現GM)がそのまま行かせてくれて。ゾーンに入っていた感じで、あの時は家族、息子が打たせてくれたかなと感じます」

 11月の引退セレモニーでは、そんな家族に涙ながらに感謝した。「毎日支えてくれて、ありがとう」。息子2人から花束を受け取り、33歳で現役生活にピリオドを打った。耐えに耐えた12年の経験を、今後は後輩たちに還元する。

 コーチ転身を決め、スーツ姿で練習前のナインにあいさつした時、恩人の栗山には足をかけてゆっくりと投げられ、土の上に転がった。選手時代、サヨナラ勝ちが決まった際などに見られた2人のお決まりのコミュニケーションだった。「スーツが!」と焦った直後、笑顔の栗山に「明日からできへんから」と言われ、コーチとしての自覚が高まった。

「やりがいは凄くあるし、若い選手を何とかしてあげたい気持ちも強い。選手との距離感を大事にしつつ、本音でぶつかり合える、毎日の試合に高いモチベーションを持たせてあげられるようなコーチになりたいです」

■熊代 聖人 / Masato Kumashiro

 1989年4月18日生まれ。愛媛・久万高原町出身の33歳。今治西では3度の甲子園を経験し、「4番・投手」だった3年夏は近江(滋賀)との2回戦で投手として2安打完封。続く文星芸大付(栃木)との3回戦では好左腕・佐藤祥万(元DeNAなど)から9回に劇的な決勝ソロを放つなど投打の活躍で8強入りに貢献した。卒業後の2008年に日産自動車に入社し、内野手転向。同社野球部の休部に伴い移籍した王子製紙では外野を守り、10年ドラフト6位で西武に入団した。通算605試合に出場。22年シーズン限りで現役引退し、2軍外野守備・走塁コーチ就任が決まった。175センチ、77キロ。右投右打。

(THE ANSWER編集部・宮内 宏哉 / Hiroya Miyauchi)