なぜ、風呂桶だったのか。フロンターレを支えてくれた全ての人の象徴。生み出し続けていきたい、「温かさ」という価値を
今から22年前の2000年11月18日。男はひとりで電車に揺られていた。その少し前に、フロンターレはアウェーで柏レイソルに敗れ、J2降格が確定したばかりだった。夜の電車に揺られながら、男は川崎大師を目ざしていた。
「この、アホンターレ」
「この、バカターレ」
地域の商店街にフロンターレ新聞を配りにいけば、無言で、丸めて捨てられる。そんなことすら、ざらにあった。まずはクラブの存在を知ってほしい。その一心で、どれだけ必死に活動しても、手応えはほとんどない。これを空回りというのだろうか。
J2降格が決まったレイソル戦はナイターだった。京急線に乗り換え、川崎大師駅に着いた時、じきに日付が変わろうかという時刻になっていた。
駅からほど近いスナックで、男は飲めない酒を飲む。コップ1杯のビールでフラフラになる体質なのに、ウイスキーの水割りを飲んでいた。たぶんやけ酒だったのだろう。
男はアルコールで顔を真っ赤にしながら、つい弱音を吐いてしまう。すると気心の知れた周囲の人に、こんな言葉で励まされた。
「それは違う。J1だとかJ2だとかカテゴリーは関係ない。大事なのは、この街に愛されているか、どうかだろ」
1997年にJリーグ準会員となったフロンターレを、当初から応援してくれていた川崎大師周辺の商店街の人たちだ。深夜にもかかわらず、スナックには数人が集まっていた。落ち込んでいるはずの男を励ますためだった。
「J1にいたって、この街に愛されていなかったら、意味がない。もっと川崎に愛されるクラブになって、またJ1を目ざそうぜ」
男を励ます会は、店を変え、未明まで続く。ドン底まで落ちたあの日、商店街の人たちにかけてもらった言葉を、スナックでのその場面を、男は今でも鮮明に覚えている。
この日の記憶は、フロンターレが川崎に根付き、地域の人から愛されるクラブになっていくまで、話題性、社会性、地域性の高いプロモーション企画をいくつも実現していくその男、天野春果が心の支えにしてきた温かい思い出となっている。
【PHOTO】進め威風堂々!力強い声援で選手を後押しし続けた川崎フロンターレサポーター!
川崎フロンターレが初めて公式戦で優勝したのは、2000年から数えて17年後の2017年12月2日。川崎大師の近くで『寿恵弘湯』という銭湯を営む星野義孝はその日、J1制覇という初タイトル獲得の瞬間を、銭湯の2階にある自宅で迎えていた。
中村憲剛が等々力陸上競技場のピッチ上にうずくまり、突っ伏して泣いている。Gゾーン(ゴール裏応援スタンド)の多くのサポーターも嬉し涙を流している。TV中継を見ていた星野も、胸が一杯になっていた。
フロンターレとの出会いは、そこから遡ること19年前の1998年。川崎大師周辺の商店街の仲間と、選手や監督たちを招き、ささやかな激励会を催したのが最初だった。
2000年にJ2降格が決まった夜は、近所のスナックで天野を励ました。天野が飲めない酒を飲み、弱音を漏らしたあの夜だ。
星野とフロンターレの関係はその後も続く。2010年に銭湯利用促進企画の「いっしょにおフロんた〜れ」が始まる時は、天野と一緒にああでもない、こうでもないと企画のネーミングを考えた。「テルマエ・ロマエ」や「オフロスキー」とのコラボレーションにも、川崎浴場組合連合会を代表する立場で関わった。フロンターレへの愛着は年々増していく。
フロンターレの観客動員数も年々増加し、2001年の平均3784人が、J1再昇格の2005年は1万3658人となり、2015年には2万999人と初めて2万人の大台を突破する。
しかし、タイトル獲得は叶わずにいた。2006年以降はJ1で2位が3回、天皇杯とリーグカップでも準優勝合わせて4回。星野はそのたびに、商店街の仲間たちと祝勝ポスターを準備した。
結局、準備していたポスターは毎回お蔵入りとなる。それでも、もう応援をやめようと言い出す仲間はひとりもいなかった。
星野が驚きで目を疑ったのは、銭湯の2階にある自宅でTVの画面越しにフロンターレの表彰式を見ていた時だ。J1を制したチームは、優勝皿のシャーレを天に掲げる。しかし、その日の等々力にはシャーレがなかった。別の会場で別の試合に臨むチームが単独首位で、その日の最終節を迎えていたからだ。
シャーレの代わりに天に掲げたのが風呂桶だった。中村憲剛が掲げ、監督の鬼木達も天に掲げた。
なぜ、風呂桶だったのか。
おそらく象徴なのだろう。クラブの最も苦しい時代を支えてくれた川崎大師の商店街の仲間たち。そのひとりが銭湯を営む星野であり、星野の商売道具が風呂桶だ。
フロンターレを支える人は年々増えていく。支えてくれた全てのサポーター、支えてくれた全てのスポンサー、支えてくれた全てのボランティア、支えてくれた全ての人を象徴していたのが、あの風呂桶だったに違いない。
風呂桶が天に掲げられた瞬間、寿恵弘湯の2階で星野は泣いた。泣いても泣いても涙が止まらない。隣で一緒にTVを観ていた妻も驚くほどの号泣だった。
天野は当時、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会に出向中だった。シャーレの代わりに風呂桶が用意されているとは知らなかった。
「これはスゴい」
シャーレの代わりに風呂桶を用意していたクラブスタッフの行動を、天野は「スゴい」と感じていた。風呂桶を天に掲げることで、「温かさ」という価値を大切にしてきたフロンターレのそれまでの歩みや、川崎という地域との「温かい関係」を表現できていたからだ。
――――◇――――◇――――◇――――
2022年の川崎フロンターレは、クラブ創設“26周年”を記念する企画を、いくつも催していた。切りのよくない26周年をあえて選んでいるのは、フロ(26)周年だからだ。フロンターレのフロであり、風呂のフロでもある。
銭湯利用促進企画も、例年より規模を拡大し、11月末日まで「川崎・大田銭湯 大スタンプラリー」を続けている。川崎市内にある35軒、東京都大田区内にある33軒のいずれかの銭湯に入ると、スタンプを押してもらえる。
川崎浴場組合連合会と多摩川を挟んで隣接する大田区の大田浴場連合会は以前から連携を取っており、Jリーグのホームタウン規制が緩和されたタイミングもあり「大スタンプラリー」を実現できている。
スタンプの数に応じて、イベントや景品の抽選権や参加権を獲得できる。スーパー銭湯アイドルの「純烈」や、サウナ大国として知られるフィンランド政府観光局とのコラボレーションが、今回の企画の大きな推進力となっている。
こうした銭湯利用促進企画に天野が大きな力を注いできたのは、クラブの苦しかった時代を支えてもらった恩義があるからだ。
川崎市内の銭湯は、2000年代初頭には160軒ほどあった。ところがフロンターレが初優勝する2017年には、35軒にまで減っている。15年ほどで125軒の減少という激減だ。
天野が強く心に誓ったのは、川崎大師近くのスナックで、商店街の仲間たちに励まされた2000年11月18日の夜だった。いつの日かフロンターレが、この商店街を、川崎という地域を支えられる存在になっていたら、全力で恩返しさせてもらうと。
フロンターレが「フロ」を大切にしてきたのは、原点を忘れないためでもある。クラブの事業規模がどれだけ大きくなろうとも、これからビッグクラブと呼ばれるような存在になったとしても、川崎の一員という意識を持ちつづける。「フロ企画」は、その原点を忘れずに、その原点へと立ち返るための企画にもなっている。
世の中の銭湯がもっと利用されるようになってほしい。心の底から天野がそう願っている理由は、実を言えば恩義だけではない。銭湯こそ、地域に密着するフロンターレのようなプロスポーツクラブが目ざすべき世界、スモールワールドだと信じているからだ。
天野は1971年、東京都新宿区内の四谷若葉という下町で生まれている。自宅から歩いて3秒ほどのはす向かいに、若葉湯という銭湯があった。
下町の路地に面したその銭湯は、近所の子どもたちの格好の遊び場となっていた。少年時代の天野もしょっちゅう裏口から忍び込んでは、「こらぁ」と怒鳴られ、「風呂で遊ぶんじゃねえ」と追い出されていたものだ。
当時、四谷若葉の子どもたちの間で流行っていたのが、銭湯の浴場で大人の客にバレないように、ベビースターラーメンを食べるという遊びだった。風呂なので当然、素っ裸にならなければならない。どこにも隠せない状態で、どうやってベビースターラーメンを浴場へ持ち込むか。まずはそこから友だちと競い合う。
銭湯に入っている大人たちは、近所の顔見知りばかりだ。なかには紋紋を背負った、おっかない人もいた。こっそりベビースターラーメンを持ち込み、袋を開けて、カランのお湯を注ぎ込む。バレないようにしながら少し待ち、まずはスープを飲んでから、ふやけて味のなくなった麺をすするのだ。
見つかれば、「こらぁ、風呂で遊ぶんじゃねえ」と、どやされる。天野を含めた子どもたちにしてみれば、最大のドキドキを味わえる、最大の遊びにほかならなかった。
石鹸を全身に塗りたくり、タイルの上を滑ってみたり、これも本当はやってはいけないことだと今は思うが、湯船のなかで潜水してみたり、ワクワクしながらスーパーボールを投げてみたり。浴場のなかをあっちへ行ったり、こっちへ戻って来たり、大人の客のすぐそばを跳ね回るカラフルなボールを見ているだけで胸が躍った。
銭湯という限られた空間で、どう工夫し、どう楽しむか。
大人になった天野が、フロンターレをプロモーションする突飛な企画の数々を練り、実現に漕ぎ着けていく時も、イメージしてきたのは銭湯だった。
銭湯と、地域に密着するプロスポーツクラブは同じ器だ。風呂に入る時は、みんな裸になる。同じ地域で暮らす人々が、知らない者同士でも、裸で付き合える場所が町中の銭湯だ。大きな湯船に浸かって一日の疲れを落とす、ストレスを発散できる、ほっとできる、素に戻れる、アットホームなところ。
スタジアムも同じだ。子どもたちの遊び場であり、人と人とを繋ぐ場であり、憩いの場でもあった銭湯には、天野が目ざしてきた世界が詰まっている。
人と人との繋がりが希薄になってきた、そんな時代だからこそ、地域に密着するプロスポーツクラブも、町中の銭湯も必要とされているのではないか。銭湯利用促進に力を注いできたのは、銭湯を中心とする温かい文化を天野が深く愛しているからでもある。
スーパー銭湯アイドル「純烈」のリーダー酒井一圭と、天野はすぐに意気投合した。酒井は支えてくれた人たちへの感謝の気持ちや、上手くいかない人たちに手を差し伸べようとする意識が強い人だと天野は思っている。
そんな酒井と出会わせてくれたのも、もしかすると銭湯なのかもしれない。同じ四谷若葉で育ち、若葉湯で一緒に遊んでいた幼稚園から中学校までの同級生が、何の前触れもなく中学卒業以来となる連絡をよこし、「アマちゃん(天野)と気が合いそうだから」と、酒井を紹介してくれたのだ。
――――◇――――◇――――◇――――
2022年9月10日。川崎フロンターレがホームでサンフレッチェ広島を破った試合の後、天野はある光景を目撃している。
たぶん親子連れだろう。ユニホーム姿のお父さんが、タオルマフラーを巻いた子どもを肩車しながら、家路についていた。少年はニコニコ笑いながら、お父さんと嬉しそうに何かを話している。
肩車されている目線の高さであったり、そこから見える景色であったり、スタジアムから聞こえてくる音楽であったり、自分を支えてくれているお父さんの両手の温もりであったり、そんな全てが温かい思い出となって少年の記憶に残るだろうか。
残ってほしい。こんなシーンに出会えるのが、フロンターレで仕事をしていて、もっとも嬉しい瞬間だ。
ふと、少年時代の記憶が甦る。天野の温かい思い出は、父親と一緒に銭湯に入り、湯上がりに買ってもらった、いちご牛乳の甘酸っぱい味。若葉湯での思い出だ。
天野は今でも、少年時代を過ごした四谷若葉をぶらりと訪れる。大人になってからも、若葉湯での温かい思い出が、天野を支えてきたからだ。最後に若葉湯の湯につかったのは、初めて自分の息子を一緒に連れていった2017年の春だった。残念ながら2年後の2019年に訪れた時、若葉湯は跡形もなくなり、跡地にはマンションが建っていた。
2022年11月5日。川崎フロンターレは逆転優勝の可能性を残し、J1の最終節に臨んでいた。結局、天に掲げられることはなかったが、今回も風呂桶が用意されていた。
天野は思う。
フロンターレがビッグクラブと呼ばれるようなクラブになったとしても、いつまでも風呂桶を天に掲げるクラブであり続けてほしい。
温かい思い出は、人の支えになる。その価値を生み出せるのは、地域に密着するプロスポーツクラブや、町中の銭湯だけではない。いろんな形の幸せな思い出が、多くの人を支えている世の中へ、自分は川崎フロンターレの活動を通して、温かさという価値を生み出し続けていきたいと。(文中敬称略)
取材・文●手嶋真彦(スポーツライター)
