苦しい日々に4年間耐えたのは、「自分はやれる」という強い思いがあったからと話す西野【写真:球団提供】

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トミー・ジョン手術から今季復活、ストイック右腕の原点に迫る

 ロッテの西野勇士投手が「THE ANSWER」のインタビューに応じた。育成選手から這い上がり、日本代表の試合で守護神も務めた経験もある31歳。かつては年俸1億円にも達したが故障とも戦い、2020年には右肘のトミー・ジョン手術。今季3年ぶりの1軍復帰を果たし、防御率1点台とチームに貢献している。

 激流のような20代を過ごした右腕の礎となっているのは、育成選手として過ごした4年間。今季までの復活の過程を振り返るとともに、プロ人生で培ってきたハングリー精神、悩める状況に対する考え方のヒントなどを聞いた。(取材・文:THE ANSWER編集部・宮内 宏哉)

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 筆者がロッテ担当記者だった2014〜15年、西野勇士はクローザーとして抜群の安定感を誇っていた。

 育成選手から這い上がった13年、先発で9勝をマークしたシンデレラボーイは、翌年から150キロを超える速球に、上原浩治を彷彿とさせるキレのいいフォークで守護神の座を掴んだ。14年日米野球では、4投手によるノーヒットノーランリレーを締めたことでも話題に。15年は54試合で34セーブ、防御率1.83。2敗はしたものの、ことセーブシチュエーションにおいては1度も失敗しなかった。

 あれから7年、31歳になった西野は大手術も経験した。右肘に異常を感じたのは2020年6月、コロナ禍明けの中日との練習試合に登板した時。当時の感覚は生々しく覚えている。

「衝撃的。ブチッというか、変な感覚が走って『ヤバい』と。自分としては試合中(その状態に)なった瞬間にトミー・ジョンをしようと、感覚的に思っていました」

 登板前、ほんのちょっとした違和感はあったが、調子自体は良かった。それが突然、爆発した。痛みを感じた後も続投したが、球速は130キロ出るか出ないかの状態に。試合後、右肘の内側側副靱帯(じんたい)損傷と診断された。

 緩んでいた靭帯をサポートしようとして、屈筋群の肉離れが生じていた。数年前にも右肘の靭帯を損傷しており、当時は保存療法を選んでいたが、今回は復帰まで1年以上を要するトミー・ジョン手術を選択した。

「開幕する裏カードの頭で先発が決まっていて、自分の中では凄くチャンスだったし、前の年も後半に先発して、オープン戦までいい感じで。『今年はいける』って順調に感じていたので、結構ショックでしたね」

 手術は眠りにつき、目覚めたら終わっていた。包帯が巻かれた腕は一切動かない。状態は日に日に良化したが、キャッチボールを再開してからが大変だった。「痛かったり、痛くなかったりの繰り返し。気持ちのコントロールがしんどい」。1軍のマウンドに戻れる日が本当に来るのか……ポジティブであろうと努めても、そうはいかない日もあった。

12年秋には恐怖のホラー体験「俺、クビだわ…」

 故障から1年4か月後、21年10月のフェニックスリーグで実戦復帰。最初の試合でいきなり絶望した。登板を終え、手術前と変わらないほどの強い痛みを感じたからだ。「これは投げられない、ヤバいぞ……」。ただ、不安はすぐに希望に変わった。

 中4日の登板間隔で、投げるたびに右肘の回復力が向上していった。オフには腕が全力で振れるように。「もしかしたら、行けるかも」。そのまま今季3年ぶりに1軍登板を果たし、前半戦は防御率1点台。新型コロナウイルス感染で約1か月離脱したが、今月また1軍に復帰した。今季ここまで26試合で防御率2.10、11ホールドを記録している。

 トミー・ジョン手術を受けた選手は復帰翌年以降に本来の力を取り戻すケースも多いが、中継ぎで既に貢献している。

「手術明けのシーズンですけど(前半戦は)意外とやれてるなという実感はあります。来年が本番という見方もありますが、1軍にいるからにはステップアップの年だとは考えていません」

 富山・新湊高から08年育成ドラフト5位で入団し、守護神にまで成り上がった。大怪我から完全復活を目指す不屈の右腕を支えているのは、間違いなく育成選手として過ごした4年間だ。

「ホントにいろいろあったんですよね。ある程度結果を残しても、なかなか支配下になれなかったり……自分がやれると思っていても、タイミングとか運もある。上手くかみ合わず、心がしんどかったですね」

 当時は今とは育成選手の待遇も違った。選手寮ではなく、少し離れた施設に住み、ロッテ浦和球場に専用ロッカーもなかった。2年目、3年目はファームで防御率2点台。支配下選手よりチャンスが少ない中でもアピールを続けたが、なかなか背番号を2ケタにしてもらえなかった。12年秋には、恐怖に震える「ちょっとしたホラー」を体験した。

 ファーム日本選手権で優勝し、帰京した育成メンバーで牛丼チェーン店の松屋で食事していた時。1人の携帯に球団から電話がかかってきた。「俺、クビだわ……」。1人終わると続けて別の1人、また別の1人……と、続々戦力外に関する電話が続き、その場がどんどん凍り付いていく。西野も着信を覚悟したが、黒沢翔太投手と自分の2人だけには、電話はかかって来なかった。

 支配下登録だけを目指し、苦しい日々に4年間耐えた。高校時代の同級生と「しんどい」「頑張れ」のやりとりをしたのも1度や2度ではない。それでも辞めなかったのは、「自分はやれる」の強い思いからだ。

「支配下の選手より、絶対やれるという自信もあったし、プロの世界でやり続けることで、もしそのチームでチャンスがなくても、ほかのチームが獲ってくれるかもしれない。プロでしかアピールしかできないものもあるので。とにかく何が何でもと、そういう気持ちでやるしかなかった」

負けず嫌いな西野を掻き立てた環境「絶対負けたくない」

 入団時の年俸は240万円。金銭的に余裕がない中でも「今しかない」と自己投資を惜しまなかった。球団のサポート外でも個人的にジムを探して通い詰めた。

 若くして高額な契約金を得ることも可能な世界。プロという肩書でもてはやされ、勘違いし、野球に集中しきれていないように見えてしまう選手も球界を見渡せばいた。「先に稼げばいいのに、なぜだろう?」。そうした選手の存在が、若き西野のハングリー精神を掻き立てた。

「絶対負けたくないっていう、負けず嫌いな部分が生きたと思います。若い時にやらないとダメだって僕は思っていたので」

 雌伏の時を経て支配下契約を掴み、2015年の契約更改では、育成出身としては元巨人・山口鉄也以来2人目の年俸1億円に到達。入団から40倍以上の昇給を果たした。でも、西野は変わらない。18年からは米国の「ドライブラインベースボール」を自費で利用。理想の投球を追求する姿勢はリハビリ中も忘れなかった。

 育成、1億円守護神、大手術と、プロでは激流のような20代を過ごした。酸いも甘いも知る西野だから、人が苦しい時、迷った時になにかヒントになる考えを聞けるのではないかと、今回取材を申し込んだ。悩める人、後輩に相談された時、あなたならどんな考えを伝えますか? 質問にゆっくり、はっきりと答えてくれた。

「ゴールだけを見ていると、その距離って結構遠く感じることが多いと思うんです。それこそ『無理だ』って思っちゃうくらいに。だから、僕はなんでも近い目標を立てるようにしています。

 漠然とゴールだけを見ず、そこに行くためにどんなステップを踏むかを考えて、近い目標をバーッて立てて。これができた! 次はこれ、次はこれ……って。達成したら嬉しいですし、気持ちも次につながる。少しずつを積み重ねていくために、小さい目標をたくさん立てることが大事だと思います」

 そんな西野の小さな目標の一つが、後半戦もきっちりチームに貢献し、復帰シーズンをやり抜くこと。「穴を埋められる存在になれると思っているし、埋められることができたらいい」。先発、リリーフどちらの経験もあるだけに、求められればどこでも行く気だ。

 広報を通じたリハビリの経過報告に対して声援を届けてくれた熱いマリーンズファン、辛く長いリハビリ期間を支えてくれた家族に報いたいという思いも強い。肘に不安のなくなったストイック右腕。30代ではどんなプロ人生を歩むのか、これからに注目したい。

■西野勇士(にしの・ゆうじ)

 1991年3月6日、富山・高岡市出身の31歳。新湊高から08年育成ドラフト5位でロッテ入団。4シーズンを育成選手として過ごし、12年11月に支配下選手登録された。伊東勤監督が就任した13年は先発として9勝をマーク。ポストシーズンはリリーフで好投したこともあり、14年からクローザーに抜擢された。16年までの3年間で86セーブをマーク。17年は先発に再転向したが、右肘の故障で5試合登板に終わった。18年以降は先発、リリーフの両方を経験。20年開幕前の練習試合で右肘を痛め、トミー・ジョン手術。21年フェニックスリーグで復帰し、今季は開幕から1軍中継ぎで貢献している。183センチ、90キロ。右投右打。

(THE ANSWER編集部・宮内 宏哉 / Hiroya Miyauchi)