急死した母と和解する機会を持てなかったと悔いる50歳の男性。彼のこれまでを語ってもらいました(写真:筆者撮影)

取材応募のメッセージを送ってくれたのは、この連載では珍しく、筆者と同年代の50歳の男性でした。

「いつかは穏やかに話をできるようになりたい」と願いつつ、かなわぬまま急死してしまった母への行き場のない思いを、どこかに吐き出さずにいられなかったようです。悔いにあふれた文面には、こちらを巻き込まずにおかない勢いのようなものがありました。

取材場所に提案されたのは、男性が勤務する会社のオフィスでした。コロナ禍でリモート出社がメインとなり、昼休みの社内は閑散としています。会議スペースの一角で、買ってきたコーヒーを手渡すと、遠慮がちに受け取ってくれました。

今回の語り手は、大阪育ちの潤也さん(仮名)です。現在は学生時代に知り合った妻と、2人の子どもと、東京近郊の街に暮らしています。子どものとき「大人たちはわかっていない」と感じてきたことを、聞かせてもらいました。

靴も履かず窓から外へ出て、母の自転車に飛び乗った

物心がついたときから、母とふたりの生活でした。離れて暮らしていた父親は潤也さんに会うため定期的に家を訪れていましたが、母親は父親と決して顔を合わせないようにしていたようです。


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幼稚園に入るか入らないかの頃、父親が潤也さんを果物狩りに連れて行ってくれたことがあり、このとき「母ではない女性」が一緒だったことを覚えています。

「なんとなく『これは母には言わないほうがいいのかな』と感じて、父に『誰なの?』とも聞けなかった。そんな気持ちを抱えているのは4、5歳の年齢で、たぶんしんどかったと思うんです。遊びに行ったこと自体、母に対して『ごめんなさい』という気持ちがあったし、父には憎しみを感じていました」

夜、家に突然父親が現れることもありました。父の来訪に気づくと、母親は「出るで!」と大声をあげ、潤也さんはいつも靴も履かずに大急ぎで窓から外へ。母がこぐ自転車の後ろに乗って、祖母の家に「避難」するためでした。

「自転車の後ろの座席に、座布団を巻いてあるんですよ、いつでも逃げられるように。10キロくらい先の祖母の家に向かうんですが、その自転車が猛スピードで。後ろに乗って目をつぶって、母の腰に手を巻いて、振り落とされないように必死にしがみついている。

すごく怖いんですけれど、行く途中にパチンコ屋さんがあって、そのネオンがきれいだったこととか。何度も落とされたこともあるし、たまに車輪に前足が引っかかって血まみれになったりして。信号無視するので車にひかれないように、でも警察がいるなと思ったらぱっと自転車降りてやり過ごして、また乗ったりして」

なぜ父親が来たとき、そんなに急いで逃げなければいけなかったのかははっきりしませんが、母の背を抱きしめ、夜の街を疾走しながら見た光景は、いまも潤也さんのなかに鮮明に残っています。

徹底的な言葉の暴力で、人を潰そうとする母

学校では「問題の多い子」だったといいます。怒りやすく、すぐ手が出てしまうし、先生の言うこともきかなかったそう。

「『相手が悪いから、自分が怒るのは当たり前だ』と思っていました。そういう表現の仕方しか知らなかった、というと言い訳になるんですけれど。母は家でよく誰かと電話をして、汚い言葉で責め立てていて。自分が敵だと思った相手には、徹底的な言葉の暴力で、平気で潰しにかかる。それが日常風景だったので、何か不快なことがあればそういうふうにしていいんだ、って思っていた時期はありました」

そんな難しい子どもでも、幸い学校でいじめられることはなかったといいます。学校の友達も、周囲の大人も「なんか許してくれていた」のです。

「同じ団地の自治会長が、いわゆる世話焼きのおじいちゃんで、よく声をかけてくれて。当時は『僕だけ目の敵にして注意してくる』と腹を立てていたけれど、今になってふり返ると、うちの家庭環境もよく知っていて気にかけてくれてたんですね。そういうふうに、自分の知らないところで心配してくれる大人たちがいました」

一方で、母子家庭という自分の境遇に対する周囲の視線には、とても敏感でした。「かわいそう」という目で見られることが嫌で、親切で声をかけられても「つっかかってばかりいた」といいます。

「お父さんお母さんがいて子どもがいる、というのが『標準な形』だというのが、成長するにつれてだんだんわかってくる。すると『なんでうちだけ欠けてるの? “ふつう”じゃないの?』といって、母をすごく責めていた時期もありましたね」

もしかすると母親自身に「ふつうの家族」でないことへの負い目があり、潤也さんはそれを感じ取っていたのでしょうか。潤也さんは母親としょっちゅうぶつかり、明け方近くまで大声で怒鳴り合うのがつねだったといいます。

小学校の頃に参加していた、校外の野外活動クラブでも、潤也さんは「みんなと暮らしぶりが違う」ことを強く意識していました。

「周りは経済的にすごく恵まれた人ばかりで、自分は不憫だと思われているって過度に思い込んでいたんですね。いま思えばみんな一般的なサラリーマン家庭なんですけれど。

キャンプのときに食器を忘れたりすると、みんなふつうに『貸したるわ』って言ってくれるのに、素直に受けとれない。『情けは要らん』みたいな反発をして。

でも結局、食器がないと食べられないから借りるんですけれど、泣いちゃうんですね。食器忘れて借りるだけの話なんですけれど(笑)。

『ありがとう』って言うんですけれど、周りは『そこまで感謝してもらわんでもいいで』って。気持ちのうえで、余計な仕事をたくさんしてきたと思います」

子どもたちはきっと、潤也さんの家の事情はわからなくても、何がつらくて苦しいのか、気持ちはわかっていたのでしょう。

「馬鹿げている」と感じていた質問

潤也さんは当時、大人たちが好む「将来、何になりたい?」という質問を「馬鹿げている」と感じていました。

「『大人になったらこんなことをしたい』と思える人って、明日に希望が持てる人だけでしょ、と思ったんです。

僕は昨日、一昨日のことを思い出したくない。嫌な思い出が積みあがっていくだけだから、明日に対して何の希望も持てない。そんな人間に対して『将来、何になりたいの?』なんて質問をするのは、狂気でしかない。それに気づいてない馬鹿な大人ばっかりだ、みたいにひねくれていました」

何も知らない大人からしたら「ひねくれた」子どもだったかもしれません。でもこうして聞くと、潤也さんの言うとおり、そんな質問を無邪気に投げかけることの無神経さに気づかされます。

(この記事の後編:「イヤな奴だった」自暴自棄だった僕を変えたもの)

本連載では、いろいろな形の家族や環境で育った子どもの立場の方のお話をお待ちしております。周囲から「かわいそう」または「幸せそう」と思われていたけれど、実際は異なる思いを抱いていたという方。おおまかな内容を、こちらのフォームよりご連絡ください。

(大塚 玲子 : ノンフィクションライター)