楽天イーグルスで15年間プレーした青山浩二さんの現在に迫る【写真提供:楽天野球団】

写真拡大 (全2枚)

連載「Restart――戦力外通告からの再出発」第9回、青山浩二さんは楽天野球団のアカデミーコーチとして活躍中

 日本におけるプロスポーツの先駆けであり、長い歴史と人気を誇るプロ野球。数億円の年俸を稼ぎ、華やかにスポットライトを浴びる選手もいる一方、現役生活を終え、次のステージで活躍する「元プロ野球選手」も多くいる。そんな彼らのセカンドキャリアに注目し、第二の人生で奮闘する球界OBにスポットライトを当てる「THE ANSWER」の連載「Restart――戦力外通告からの再出発」。第9回は楽天イーグルスで15年間プレーした青山浩二さん。

 生え抜き投手としては球団史上1位の通算625登板を記録。星野仙一監督の下では抑えも務め、楽天イーグルスが初めて日本一に輝いた2013年も60試合に登板した。2020年限りで引退し、現在は楽天野球団のアカデミーコーチとして東北6県の子供たちに野球を教えている。「投げることが趣味」だった現役時代の知見をどのように還元しているのか、教えてもらった。(文=THE ANSWER編集部・宮内 宏哉)

 ◇ ◇ ◇

「現役中、投げることを追究しておいてよかったです。“絶対音感”じゃないですけど、子供のフォームでちょっとした違和感が分かることがある。体をバランス良く使えば将来の怪我の予防にもなるので、それを教えられるのが結構楽しいです」

 現在は東北6県を回り、アカデミーの6歳から中学3年生までを指導している青山さん。15年間に及ぶプロ生活を終え、純粋に野球を楽しむ子供たちに技術を伝えている。

 投球はもちろん、打撃や守備など基本的なことを教える。「返事や挨拶は大事にしていますが、やっぱり返事が『はい!』って素直。それに、子供はちょっと教えたらすぐに上手くなりますよね」。教え子の成長が、引退後の何よりの喜びだ。

 楽天イーグルス一筋で2020年までプレー。プロ野球人生を大きく変えたのは、2018年に亡くなった星野さんが監督を務めていた時期に、ストッパーを任されたことだ。

 打診された際、「僕じゃ無理ですよ」と一度は苦笑いで応じた。星野政権1年目の2011年には51試合に登板しているが、まだ確固たる自信がなかったからだ。即座に闘将から叱咤を受けた。

「お前、稼ぎたくないんか?」

 怒られはしたが「稼ぎたいです!」と答え、そのまま守護神を任せてもらえた。味方打者の決勝打、先発の勝ち星を消してしまうこともある重要な役割。吐きそうな思いをしながらも務め上げ、12年に22セーブを記録。翌13年も11セーブ、17ホールドと大車輪の活躍を見せ、日本シリーズは故障で出られなかったが、リーグ優勝と日本一の喜びも味わった。

「いろんな指導者の人に感情を揺さぶられましたが、僕の野球人生で一番大きかったのは抑えを経験させてもらったこと。今まで自分勝手にやっていたのが、ちょっと視野が広がった。そこを任せてもらえたのは本当に感謝しています」

 入団1年目の06年から42試合に登板するなど、先発、中継ぎ、抑えと全ての役割をこなした。積み重ねた登板数は球団の生え抜き投手では最多の625だ。

プロ野球史上43人しかいない通算600登板超えを果たしたが、実は5年目あたりから肩の痛みと戦っていた。

「痛くならないフォームで、かつ出力を下げないフォームを模索しながらやっていたんですけど、最後の2〜3年は毎日(痛み止めの)薬を飲みながらやっていました」

 15年間もプレーできたのは、飽くなき探求心が一つの要因だ。「野球、投げることが趣味」と自認するほどで、休日ほかにやることと言えば多少ゲームを楽しむ程度。自宅では何気なくボールを手に持ち、考える時間が長かった。

「育成契約でもいい」の願いは叶わず引退、愛着ある球団での第二の人生

 ボーっとしている時、頭の中ではいつの間にか他球団のバッターと対戦していることが多々あった。「職業病らしいんですよね。『ここにスライダー投げたら空振り捕れるかな』とか、『このボール使えるかも』とか。妄想するのが好きなんです(笑)」。思いつくとすぐに練習したくなる。筋肉量の多くない自分の体を、100%使えるフォームも常に模索していた。

 考え、実践してみたことはノートや携帯電話のメモ帳に残すのが習慣だった。意識していたのは「人に伝えて同じフォームをやってもらうにはどう書けばいいか」。将来子供に伝えるには、どんな言葉でかみ砕けばいいかを念頭に置いていた。

「これも妄想ですけど、例えば僕が記憶喪失になった時、ノートを見て元通りに投げられるか。同じ状態に戻ることができれば、人に話すときも伝えられるんじゃないかと」

 肩の痛みと付き合いながら第一線で投げ続けた青山さんも、2020年は11試合で防御率4.35。1日3回飲んでいた痛み止めの効きが遅くなり、肩が温まるまでに時間を要するようになっていた。若い選手の台頭もあり、シーズン終盤に戦力外通告を受けた。

 まだ1年はやれる――。そんな思いから「育成契約でも良いのでチャンスが欲しい」と願い出た。ただ、青山さんほどの実績を残した選手に、球団がそのオファーを出すのは難しかった。

「海外も選択肢に入れましたが、コロナも流行っていてちょっと怖いなと。球団から背番号(41)を別の選手に渡したいと話を受けてから、踏ん切りがつきました。15年もやって、やっぱり引くところかな、1つの球団で終わるのもいいんじゃないかなと思えたので」

 第二の人生は、愛着のある仙台をスタート地点にしたかった。「球団に居続けられるのは自分の中でも意味がある」。戦力外通告の際に打診されていた楽天野球団のアカデミーコーチになると決めた。現在は1度に最大40人の子供たちを見ているが、指導者側になって初めて感じることも当然ある。

「自分が子供の頃はプロ野球選手を目指していましたけど、意外とそうじゃない子もいたりするので、1人1人に温度差があります。1対1の指導なら個別に対応できますが、1対40だと上手い子に合わせるか、そうではない子に合わせるかが難しかったですね」

 大切にしているのは、感覚で教えるのではなく、子供たちが学んだことを自分で説明できるようにすること。誰かに伝えることを意識しながらノートを書き続けてきた青山さんだからこそ、どうすれば子供たちの記憶に残りやすいかが分かっていた。

星野さんの指導を踏襲「やる気にさせるのが上手かった」

「練習の最後に必ず、子供たちに『今日は何をやったか?』を聞いて、説明してもらいます。自分で何を学んだか説明できるようになれば、今日の練習をやったことになるよって。継続しないと上手くならないから、野球ってやっぱり難しい。継続のためにも、短い時間でどれだけ忘れさせないで、体に覚えさせてあげられるかが大事だと感じました」

 目指しているのは、モチベーションと気付きを与えられる指導者。偉大な星野さんもそうだった。ファームにいる頃も、顔を合わせると叱咤激励をしてくれた。

「冗談で『まだ野球やっとんのか?』とも言われました(笑)。声をかけられること自体が嬉しかったですし、人をやる気にさせるのが上手いなと感じていました」

 子供たちに、型にはめる指導はしない。「投げる瞬間に胸が開かない方がいい」「もう少し足をあげてみて」などとちょっとしたポイントを伝えて、重要なことは自分で気付かせる。やってみたい考えがある子供には、やる気を削がないように一度やらせてみる。主体的に考える力を養わせるやり方だ。

 今は実技で教えられるが、年齢を重ねれば投げられなくなる時期もやってくる。「実技ではなく、言葉でどうやって気付かせるかが目標であり、理想です」。指導している子供たちが次のステージで活躍してくれればもちろん嬉しいが、最大の願いは野球が楽しいスポーツだと忘れずにいてくれることだ。

「教え子が甲子園に行ったり、プロになったりしてくれるのが一番ですけど、そういうのは一握り。野球を続けてくれたり、続けられなくても『あの時楽しかったですよ』って言ってくれたりする子供たちが増えてくれたら嬉しい。何がきっかけで上手くなるかは分からないので、きっかけになれたらいいなと思います」

■青山浩二(あおやま・こうじ)
 1983年8月12日生まれ、北海道・函館出身の38歳。函館工、八戸大を経て2005年の大学・社会人ドラフト3巡目で楽天イーグルスに入団した。野村克也監督の下、1年目から先発、中継ぎで42試合に登板。守護神を務めた2012年は5月の月間MVPに輝くなど61試合で22セーブ、防御率2.51と活躍。初のオールスター出場も果たした。翌13年も60試合に登板して日本一に貢献。15年には通算150ホールド、19年には通算600登板を達成。2020年限りで現役引退した。現役時代の身長・体重は180センチ、80キロ。右投右打。

(THE ANSWER編集部・宮内 宏哉 / Hiroya Miyauchi)