才能ある「ギフテッド」の子どもに英才教育を施すことは有色人種への差別につながるのか?
「ギフテッド」とは、周囲と比較して突出して高い知性や能力を先天的に持っている人のことを指し、近年ではギフテッドの子どもに特別な教育を施して能力を伸ばすことが盛んに行われています。その一方で、「ギフテッドと認定されるのは白人の裕福な子どもに偏っており、有色人種が過小評価されている」として、公教育におけるギフテッドへの特別教育プログラム(ギフテッドプログラム)は公平性に欠けるとして反対する動きもあるとのこと。そんなギフテッドプログラムと公平性の問題について、弁護士であり教育関連組織の「thinkLaw」の創設者でもあるコリン・シール氏が、「公平を訴えてギフテッドプログラムをやめるのは逆に有色人種への不平等を強めてしまう」と主張しています。
https://www.teachforamerica.org/one-day/opinion/stop-eliminating-gifted-programs-and-calling-it-equity
公教育におけるギフテッドプログラムに対する批判として、「特定の子どもの才能を伸ばそうとするプログラムはすでに特権を持っている生徒にリソースを集中させ、過小評価されやすい有色人種の生徒にとって不平等である」というものが挙げられます。
さまざまな指標で子どもをラベル付けする公教育において、一部の子どもが高度な学問的才能を持っていることは明らかです。その一方で、黒人の小学生はテストで同じスコアを記録した白人の小学生と比較して「才能がある」と識別される可能性が66%低いという調査結果や、黒人・ラテン系・ネイティブアメリカンの子どもたちは「ギフテッドプログラムを提供する学校」に通う割合がはるかに少ないという報告があり、これらの不平等は問題です。
そこで、学校システムの構築に携わる一部の人々は、この不平等を解消するために「公教育のギフテッドプログラムを一律で廃止する」ことを検討し始めているとのこと。自身も有色人種であるシール氏は、表面的に見ればこれは論理的な結論に感じられると認めつつも、「ギフテッドプログラムを閉鎖することは、優秀で過小評価された有色人種の生徒に対する不公平を深め、彼らの才能を引き出す上での新たな障壁を増やすだけです」と述べ、ギフテッドプログラムを廃止するべきではないと訴えています。
シール氏は、「有色人種の8年生(日本における中学2年生)が『代数I』を受講する比率が有意に低い」というケースを例に挙げ、この場合は差別解消を目的として8年生のカリキュラムから「代数I」の授業を撤廃するのではなく、7年生以下のカリキュラムを見直して全員に「代数I」を受講するチャンスを与えるべきだと主張。「いつから公平性は『全員が何も得られないこと』を意味するようになったのでしょう?」と述べました。
自身もギフテッドプログラムを受講していたというシール氏は、周囲と比較して学問的才能がある子どもは、年齢に合わせた授業では退屈すぎるために問題行動を起こしがちだと指摘。ギフテッドプログラムへのアクセスが遮断されてしまった場合、多くの優秀な子どもたちが学問への熱意を失って、破滅的になってしまう可能性があるとのこと。
また、たとえ公教育におけるギフテッドプログラムを廃止したとしても、裕福な親は学校外で子どもの才能を伸ばすプログラムにアクセスできるという現実にも目を向ける必要があります。つまり、公教育のギフテッドプログラム廃止はもともと特権を持たない子どもに打撃を与えるだけで、特権を持つ子どもに大した影響はないというわけです。
シール氏は「すべての子どもには才能がある」として全員に同じ教育を施すのと、すべての子どもが才能を伸ばす特別なプログラムにアクセスできるようにすることはまったく別物だと指摘。ギフテッドプログラムの廃止は裕福な人々と恵まれない人々との不平等をさらに強化するため、公教育におけるギフテッドプログラムを廃止するのではなく拡大して、特別な教育が必要なすべての子どもが受講できるようにするべきだと訴えました。