源義経の戦いぶりはどのようなものだったのでしょうか(写真:やまさと/PIXTA)

NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。平清盛の死後、破竹の勢いで進撃し、「平家都落ち」を実現した木曽義仲(源頼朝の従兄弟)ですが、源義経に討たれます。今回は義仲と義経の軍勢がぶつかった「宇治川の戦い」の様子について、歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

伊勢平氏出身の平信兼も加勢

寿永2年(1183)閏10月、源頼朝の命を受けた義経は、伊勢国まで進軍していた。当初は合戦を目的とせず、後白河法皇への貢物を持参する使者とされた。しかし、義経の軍勢は、木曽義仲の軍勢といずれ、ぶつかることになる。

当時の貴族・九条兼実の日記『玉葉』には、このときの義経の軍勢を「わずかに500騎」と記している。今から、義仲を討伐するにしては、明らかに少ない人数だ。

しかし『玉葉』には「わずか500騎」の文に続いて、次のような文章が載る。「その外、伊勢国人など、多く相従うと云々。また和泉守信兼同じくもって合力す」と。つまり、義経の軍勢は少ないが、彼に加勢する伊勢国の豪族が多くいたということだ。和泉守信兼というのは、平信兼のことで、伊勢平氏の出身だった。

義経の軍勢には伊勢国の豪族だけではなく、伊賀国の豪族までもが加勢してきた。そして、義経の軍勢ばかりでなく、異母兄・源範頼の軍勢も美濃から近江に向かっていた。

一方の木曽義仲の軍勢はこのとき、1000騎あまりだったと言われる。さらにこのときには、叔父の源行家をはじめ、多くの者が義仲軍から離反していた。叔父の行家は河内国で反旗を翻す。よって、義仲は家臣の樋口兼光を討手に遣わすなどしている。そのため、義仲は軍勢を割かねばならなかった。義仲本軍はさらに弱体化していったのだ。

弱体化する義仲軍に比べて、義経の軍勢は膨らむ一方だった。古典『平家物語』によると2万5000の軍勢にまでなったといわれる。軍記物は軍勢数を誇大に記すことが多いので、さすがに2万5000の軍勢ではなかっただろう。とはいえ、義仲軍を超えるほどの軍勢にはなっていたと推測される。こうした軍勢の差が、義仲が敗れ、義経が戦に勝利した大きな要因だったと思う。

宇治川を渡るか、迂回するか、で悩んだ義経

1184年1月20日、宇治川の戦い。戦いを控える義経の様子を古典『平家物語』は次のように描いている。

「さて、源義経は、川端に進み出て、水面を見渡し、他の武将たちの心のほどを試してみようと思われたのか「どうしたものか。淀、一口(いもあらい)へ迂回するべきか。それとも、水かさが減るのを待つか」と言われた」(『平家物語』を筆者が現代語訳)

源義経軍は、伊勢・伊賀と進み、南山城から宇治川に出る。『平家物語』には、宇治川に出た義経が、山々や谷に降り積もる雪が溶け、水かさが増している川を渡るのを迷う場面が登場する。

しかし、時はまだ1月下旬、雪や氷が溶けて河に流れ「滝の落ちるようにひびきをたて」ることはまだあるまい。この描写は事実ではないが、戦を前にした武将たちの緊迫感を描くのには適しているだろう。

夜は明けてはいるが、霧が深く立ち込め、馬の毛色や鎧の色も判別できないなか、義経は「迂回するべきか、水かさが減るのを待つか」悩むのである。すると、畠山重忠(武蔵国の武士)が進み出て「いかに待とうと、水は引きますまい。また、橋も誰がかけて渡すでしょうか。治承の合戦のおり、足利忠綱は鬼神であったから、ここを渡れたというのでしょうか。この重忠が瀬踏みしてご覧に入れましょう」と言うが早いか、渡河の準備を始める。

ちょうどそのとき、武者2騎が、激しく馬を走らせて現れる。梶原景季と佐々木高綱である。

2人は先陣争いをしているのだが、景季が一歩リードしていた。高綱は、このままでは先を越されると思ったか「この川は、西国一の大河。梶原殿、腹帯(鞍を固定するために馬の腹にしめる帯)が緩んでいるように見える。早く、しっかりと締めなされ」と親切を装い、声をかける。

景季は「そうか」と思い、腹帯を解いて締め直す。その隙に、高綱は川へざっと馬を乗り入れる。さすがの景季も「してやられた」と感じたのだろう、急いで、馬を進める。

「佐々木殿、手柄を立てようと焦り、失敗なさるな。この川の底には大綱がござる」と景季が言ったので、高綱は太刀を抜き、馬足にかかる大綱をぶった切り、一目散に向こう岸に駆け上がった。景季の馬は、急流におされ、はるか下流の岸に上がる。

大音声で名乗りを上げ、敵中に突撃

佐々木高綱は馬上で立ち上がり、大音声で名乗りをあげた。

「宇多天皇から9代の子孫、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣なるぞ。われこそはと思う者どもは、この高綱と組め」(『平家物語』)とわめくと、敵中に突っこんでいくのであった。宇治川での先陣争いは、佐々木高綱の勝利に終わる。

畠山重忠の率いる軍勢も急流と木曽方が放つ矢に苦しめられながらも、岸にたどりつく。向かってくる敵兵に重忠は「いかなる人か、名乗られよ」と声をかける。緋威の鎧を着たその武者は「木曽殿の家の子で、長瀬判官代重綱」と名乗ったので、重忠は「軍神の捧げもの」とするため、馬を押し並べ、組み付いて引落とし、長瀬の首をねじ斬るのであった。東国の大軍が渡河したこともあり、木曽方は次第に劣勢となり、敗退していく。


佐々木高綱と梶原景季の先陣争いが繰り広げられた宇治川に建てられた「宇治川先陣之碑」(写真:soulman/PIXTA)

さて、宇治川の先陣争いは『吾妻鏡』や『玉葉』などには記されていない。よって、この話は虚構と考えられていたが、『拾珠抄』に高綱が太刀で大綱を切り捨て、宇治川を渡河したとの記載があることから、事実であるとする研究者もいる。

宇治川の戦いは木曽方が敗北したが、もはやこれまでと思った義仲は「最後のお暇」のため、院御所に馳せ向かう。法皇や公卿は「何をされるかわからない」とおびえ、神仏に祈っているばかりであった(『平家物語』)。

義仲が門前まで来たところで「東国勢、賀茂河原まで進軍」との報が入ったので、義仲は法皇に挨拶することなく、その場を立ち去る。『玉葉』によると、義仲は法皇を擁し下向しようとしたが、敵軍が襲来してきたので、それが叶わず、慌てて防戦するために去ったという。

後白河法皇と対面した義経

都に入った義経は、院の御所が気がかりとして、自ら六条殿に向かう(『平家物語』)。土煙を立て向かって来る武装した武者たちを、御所のなかの人は「また木曽が来た」「この世の終わりだ」と誤解し恐怖するも、東国の軍勢であると気づき安堵する。

「東国から前兵衛佐頼朝の舎弟・九郎義経が参りました。門をお開けください」と義経が大声をあげると、御所内の人のなかには歓喜し、土塀から飛び降り転倒するもの(大膳大夫業忠)もいたという。

法皇と対面した義経は、法皇から「この御所をよく警護せよ」との命を受ける。義仲の敗退が確定した瞬間であろう。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)