「男の人に慰めてほしくて」入社1日目にして、先輩から嫌味を言われた女は…
愛とは、与えるもの。
でも、与えすぎる愛は時に、相手を押しつぶしてしまうことがある。
愛情豊かなお嬢様・薫子(26)は、そんな“重すぎる愛”の持ち主。
「適度な愛の重さ」の正解とは……?
その問いに答えを見いだすべく、改めて恋愛と向き合った女の、奮闘物語である。
▶前回:記念日に突然フラれた女。泣きながら綴った、元彼へのLINEメッセージ
大手町の眺望と日差しを取り込む、一面のガラス。
展示されたアート作品のごとく点在する、スタイリッシュな椅子の数々。
その真横で、このオフィスのトップであり、今日から上司となる山田社長が、ニコニコとおおらかな表情を浮かべながら薫子に話しかけていた。
「詳しいことは、前任の三島さんから聞いてね。僕のスケジュール管理とお客様の対応、あとはお礼状や手土産の手配なんかが薫子ちゃんの主な業務になると思うから…。あ、薫子ちゃんじゃなくて“竹林さん”って呼ばなきゃね」
「はい、山田のおじちゃま…じゃなくて、社長!」
しっかりと返事をしながらも、薫子の頭の中はパニックだ。椅子から立ち上がり深々とお辞儀をしつつ、今の状況に置かれるまでの経緯を思い返す。
1ヶ月前。秀明にフラれて帰ってきた、あの夜。
神妙な顔をした父から持ちかけられたのは、こんな話だった。
「薫子。お父さんの友達の会社で働いてみる気、ないか?」
父からの意外な提案。失恋したての薫子が思ったことは?
「お父さんの開成高校時代の友達、山田って覚えてるだろ。今日一緒にゴルフに行ったんだけど、あいつの会計事務所で、秘書の女性が辞めるから後任を探してるって言うんだよ。
それで、薫子が来てくれたら安心だって言うんだけど…。お前ももういい大人だし、どうだろう?もちろん、薫子がいやだったら断っても…」
「やる!」
明らかに意気消沈して帰ってきた娘に対して、戸惑いがあったのだろう。父の歯切れは悪かったものの、薫子の返事は即答だった。
― 世間知らず過ぎて、世間と感覚がズレているのかも…。
恋愛がうまくいかない原因がそこにあるのではと感じていた薫子にとって、この話を受けることが、解決への糸口になるかもしれないと思った。
それに、恋人がいなくなった今、彼の部屋で留守中に手料理を作っておいたり、彼からの電話を部屋でじっと待ち続けるような用事もない。
有り余る退屈な時間は、きっと失恋の傷を長引かせるだろう。
きちんと働いて、大人の女性として自立する。
それは、いつも恋愛にのめりこみ過ぎてしまう薫子が、「重い女」から脱け出すためには最適な手段であるように思えたのだった。
◆
― それにしても、山田のおじちゃまの事務所って、こんなに大きな会社だったんだ…。全然知らなかったなぁ。
そんな経緯でごく内輪の面接を済ませ、出勤初日となった今日。思いのほか大きな職場の規模に面食らいながらも、薫子は新しい挑戦への期待に胸を膨らませた。
指示されたとおり、現秘書を務める三島紀香のもとへと向かい、またしても深々とお辞儀をする。
「初めまして。三島さんの後任を務めさせていただきます、竹林薫子と申します。精いっぱいがんばりますので、ご指導ご鞭撻のほどどうぞよろしくお願いいたします」
「薫子ちゃん、ね。よろしくお願いします」
目の前にいる紀香の返答は至って普通の挨拶だったが、その反応に、薫子はわずかな違和感を覚えた。
ニッコリと微笑む紀香の歳は、30前後といったところだろうか。26歳の薫子とそう変わらないように見える。
けれど、Theoryのスーツでパリッと決めた紀香の雰囲気は、薫子のそれとは対極的だ。
何より、こちらに向けた笑顔が冷たい。その目に浮かんでいるのは、薫子に対するよそよそしさだった。
「あの…」
それ以上発展しない会話に緊張した薫子は、言葉を続ける。
「あの、結婚でご退職なさるって聞きました。ご主人を支える生活、素敵ですね!もうすぐお昼ですし、良かったらランチをご一緒しながら、いろいろお話お伺いできませんか?」
FOXEYのワンピースの裾を握り締めながら、勇気を出して言った言葉だった。
しかしながら、紀香の反応は、先ほどよりもさらに冷たくなる。
「素敵ですか?転勤についていかなきゃいけないので、仕方なく辞めるんです。結婚しても仕事は続けたかったですし、次も探してますよ。
ごめんなさい、引き継ぎ資料を作るのに忙しいので、ランチは済ませてきてもらえます?24階にカフェテリアがありますから」
「あ…はい…」
促されるがままフロアを後にする薫子の背後で、だれかが紀香にヒソヒソと話しかけているのが聞こえた。
「ねえ、あれがこの半端な時期にコネ入社の…?」
「シー、聞こえるから」
薫子は、全身が凍りついたようにこわばるのを感じながらも、振り返らずにカフェテリアへと向かった。
ショック続きの仕事始め。薫子はカバンからあるものを取り出し…
カフェテリアへと向かいながら、薫子はフェラガモの小さなミニトートから、スマホを取り出す。
ちくちくと痛んだ心を、誰かに慰めてもらいたい。悲しみを共有したい。
そう思ってLINEを開いたものの、今の自分には誰もいないことを改めて自覚し、そっとスマホをバッグへと戻した。
― こんな時にも私、また誰か男の人に頼りたくなってる。きっと、こういうところがダメなんだろうな。
別れてからひと月が経ち、もう秀明のことを特別思い出すことはない。
でも、こうして頼れる「だれか」を、いつも探してしまう。
その事実は、秀明のことを心の底から愛していたわけではないこと。そして、「だれか」にすがりたくて恋愛に逃げてしまう自分の心の弱さを物語っていて、薫子は情けなくなるのだった。
― 紀香さん、ちょっと怖かったけど、結婚しても仕事は辞めたくなかったなんて、カッコいいなぁ。私、失礼なこと言っちゃった。あとで謝らないと…。
きっと紀香のような自立した女性は、男性から「重い」と疎まれることなどないのだろう。
引き継ぎまでの期間、紀香のような女性から、仕事だけでなくカッコイイ生き方まで学びたい。
そうボンヤリと考えながら、カフェテリアでおすすめのセットとアイスラテを頼んだ薫子だったが、ふいに厳しい声をぶつけられたことでハッと我に帰った。
「IDは?」
「え?ID、ですか?」
「IDは?ないんですか!?」
「あの…IDって…?」
レジに立つ男性が、鋭い視線を薫子に向ける。
戸惑いながらも薫子がもう一つのレジに視線をやると、社員らしき男性が首から下げたIDカードを端末にかざしていた。どうやら会計は、社員証かなにかをかざすことで済ませるらしい。
― どうしよう、私、まだ仮の社員証しかもらってない。
出社してから積み重なり続けているショックと情けなさ。そして、レジの流れを止めてしまっている恥ずかしさで、どうしたらいいか分からない。
立ち尽くすことしかできない薫子が、もはや逃げ出しそうになったその時。すぐ後に並んでいた男性が、低い声をあげた。
「すいませーん」
早くしてください。そう叱責されるのを覚悟した薫子だったが、男性はのんびりとした口調でレジの男性に話しかける。
「彼女の分、僕と一緒でお願いします〜」
「はい!じゃIDかざしてくださいね」
あれよあれよと言う間に、目の前で薫子のランチ代が支払われていく。そして、さっと会計を済ませた男性は薫子に小さく会釈をすると、何事もなかったかのように去っていこうとするのだった。
「え…あ…あのっ!」
薫子が呼びかけると、男性が振り返る。推定35、6歳。とぼけたように下がった眉と、対照的に口角の上がった唇が、優しげな印象を抱かせる。
「ありがとうございます。本当に助かりました…。あの、現金でお返ししてもよろしいでしょうか?」
財布を取り出しながらそう問いかける薫子に、男性はクシャッとした笑顔を浮かべた。
「ああ、いいですよ。新人さんでしょう。先輩社員からの、入社祝いということで。もしスッキリしないようでしたら、バッタリ会った時にコーヒーでも奢ってください」
そう言って首にかけた社員証をひらひらと掲げる。社員証には、「マネージャー 横井純一郎」と記してあった。
「じゃあ」
忙しげに去っていく純一郎の背中に、これ以上かける言葉が思いつかない。
「どうしよう…」
出社初日。さまざまな感情が入り乱れ、心臓の鼓動が激しくリズムを奏でる。
純一郎の背中を見送りながら、薫子は小さな声でつぶやいた。
「ぜったいぜったい、運命の人だ…!」
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薫子に訪れた新たな恋の予感。次こそ「重い」と言われないためにとった行動は…