源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その3】

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平泉に栄華を誇った奥州藤原氏の祖・藤原経清が歩んだ壮絶な生涯についてご紹介します。

平安時代後期に東北の地で起きた「前九年の役」は、俘囚の長である安倍氏と源頼朝の祖先源頼義の間で行われた戦乱でした。

陸奥国府の官人であった藤原経清は、安倍氏側について「前九年の役」を戦い抜き、源頼義率いる国府軍を窮地に追い込みました。その結果、経清は悲惨極まる死を遂げることとなります。しかし、藤原経清の存在と活躍が、その後の日本の歴史に大きな影響を与えることとなったのです。

【その2】では、「前九年の役」再燃のきっかけとなった「阿久利川事件」と安倍頼時の死、そして、経清が頼義から離反した真相についてお話ししました。

【その3】では、貞任・経清軍の前に頼義率いる国府軍が完敗を喫した「黄海(きのみ)の戦い」と、清原氏を味方につけ巻き返しを図る頼義について、お話ししましょう。

国府軍が完敗した「黄海(きのみ)の戦い」

安倍貞任・藤原経清軍が源頼義(国府)軍を破った黄海古戦場跡。(写真:T.TAKANO) 

頼義の焦りから起きた「黄海の戦い」

1057(天喜5)年9月、源頼義は朝廷に対し、安倍頼時を討ち取ったことを報告します。頼義はこの功績により、朝廷から論功行賞を受け取ることと安倍貞任・藤原経清討伐のための援軍を期待したのです。

しかし、朝廷は動きませんでした。藤原経清が予測したとおり、朝廷はこの戦いを頼義と安倍氏の私戦と見なしたのです。こうした朝廷の態度と経清の裏切りに対し、頼義は怒り心頭に達したことでしょう。

頼義:おのれ経清め。一度は安倍についたことを許してやったのは、余の温情によるものだ。平永衡と一緒にその首を晒してやることもできたのに、その恩を踏みにじるとは。こ奴だけは絶対に許せぬ!

源頼義はこうした状況を打破するために、11月に2000人の兵を率いて多賀城を出陣します。安倍氏に戦を仕掛けることで、なにがなんでも朝敵に仕上げる必要があったのです。

頼義出兵を察した安倍貞任と藤原経清は、河崎柵(一関市)に4000人の兵を集め、国府軍を待ち受けます。一方、源頼義は白旗山と呼ばれる小高い丘に本陣を構えました。これが世にいう「黄海(きのみ)の戦い」です。

九死に一生を得た頼義と義家

経清は、安倍軍の強靭さと兵力が歴戦の頼義軍にも勝ること、さらに雪上での戦いに慣れているという判断から、野戦を行うことを貞任に進言します。戦いは吹雪が吹き荒れる極寒の中で行われました。安倍軍は、地の利も活かし頼義軍を圧倒します。戦いが進むにつれ、頼義麾下の部将たちが次々と討ち取られていきました。

国府軍は数百の戦死者を出し、壊滅的な敗北を喫したのです。そして、乱戦の中、頼義討死の誤報が流れるほどでしたが、嫡男義家が奮闘し窮地を脱出しました。

 源頼義の嫡男義家。武勇に優れ、鎌倉・室町と続く源氏隆盛の礎を築いた。(写真:Wikipedia)

しかし、貞任と経清は敗走する国府軍を執拗に追いつめます。そして、ついに雪原を彷徨う頼義・義家父子とわずか6騎にまで減った郎党たちを包囲したのです。ここに頼義の命運は極まったかに見えましたが、貞任と経清は彼らにとどめを刺しませんでした。

経清:見よ貞任、我らはついに頼義を捉えたぞ。だがここまで追い詰めれば十分だろう。この場は見逃してやろうぞ。

二人の目的は頼義を陸奥から追い出すことにあったのです。もし、勢いに乗じて、国司兼鎮守府将軍である頼義の命を奪うことになれば、完全な朝廷への反逆になります。敗戦の痛手で、頼義にはしばらくの間、安倍氏と事を構える余裕がないだろうとの判断もあったのでしょう。

実際、命からがら多賀城へ帰り着いた頼義は、朝廷からの援軍も期待できず、安倍氏の動静を見守るしかない状況に追い込まれていたのです。

 「黄海の戦い」で頼義が本陣を構えた白旗山。(写真:T.TAKANO)

ただ、貞任・経清もそんな頼義の状況に安堵していたわけではありません。頼義は必ず巻き返しを図ってくるに違いない。その時のために軍備を整える必要がありました。

経清:頼義はこれに懲りず、必ず戦を仕掛けてくるに違いない。我らはそれに備えることこそ肝要ぞ。

貞任は、奥六郡以南に勢力を伸ばします。経清は朝廷の赤符を無視し、独自の白符を発行し税の徴収を行います。こうした貞任や経清の動向を、彼らの驕りとか横暴さと捉える向きが多いようです。しかし、源頼義を相手にするからには、常に国府が動員できる兵を上回る戦力を維持する必要があり、そのための経済活動であったと考える方が妥当ではないでしょうか。

 藤原経清が本拠とした亘理郡の豊田館跡。(写真:Wikipedia)

清原氏の援軍に活路を見い出した頼義

 頼義の要請に応えて陸奥国府軍に加わった清原武則。(写真:Wikipedia)

頼義が三度陸奥守に任じられる

安倍貞任や藤原経清は、源頼義に対する警戒心を解いていませんでした。しかし、そんな心配をよそに1062(康平5)年の春、源頼義の陸奥国司としての任期が終了します。これで頼義が都に戻れば、経清が考えた通りの筋書きとなったのですが、ことは思い通りに運びませんでした。

「黄海の戦い」での屈辱的な敗戦の復讐に燃える頼義はこの間、河内源氏に縁のある畿内・東海・関東の武士たちに働きかけ戦力の増強を図っていました。さらに、貞任・経清の動向に反発する郡司らと親密な主従関係を築いていたのです。そんな中、新任の陸奥守として高階経重が意気揚々と多賀城に着任しました。

頼義:実戦経験のない者が来ても、何もできるはずがない。ただ、国府の防衛が危うくなるだけだ。郡司たちよ、ゆめゆめ新国司の命令に耳を傾けるでないぞ。

申し合わせ通り、郡司たちは経重に全く従いません、この状況ではどうすることもできないと判断した経重は帰京し、陸奥守を解任されてしまいました。この事態に朝廷は混乱し、頼義が陸奥守として再々任されることとなったのです。

貞任・経清討伐の軍容が整う

三たび、陸奥守となった源頼義の動員兵力は約3000人にまで増加していました。しかし、「黄海の戦い」で貞任・経清軍の強さを身をもって知った頼義は、さらに大きな戦力の確保のため策をめぐらせます。

頼義:朝廷からの援軍はもはや望めぬ。こうなれば頼みは出羽の清原だけだ。なんとしても味方に引き入れるのだ。

安倍氏と並んで「俘囚の長」を務める出羽の清原光頼に、援軍を要請したのです。しかし、光頼は頼義の味方になることをなかなか了承しません。そこで頼義は光頼に数々の貴重な宝物を贈り、さらに経清や貞任が朝廷に反逆していることを説きます。そして最後は、臣下の礼までとって懇願したのです。

頼義の熱意に促された清原光頼は、弟の武則を総大将に7000人の援軍を頼義のもとに送りました。これで、国府軍の軍勢は一気に10000人を超え、貞任・経清軍の倍以上の兵力の動員が可能になったのです。

 清原光頼の本拠と推測される大鳥井柵跡。今も土塁や堀跡が残る。(写真:T.TAKANO)

【その3】はここまで。【その4】では、滅亡する安倍氏と藤原経清の最期、そして、その後日談をご紹介しましょう。