二股してたら、ある夜、婚約者から「話がある」と切り出され…。
「彼以外を、好きになってはいけない」
そう思えば思うほど、彼以外に目を向けてしまう。
人は危険とわかっていながら、なぜ“甘い果実”に手を伸ばしてしまうのか。
これは結婚を控えた女が、甘い罠に落ちていく悲劇である。
◆これまでのあらすじ
結婚相手を探してさまよう美津は、大介と守の2人とこっそり二股交際をしている。「どっちも遊びじゃない、あくまで真剣な交際」そんな結論に辿り着いた彼女は、悪気もなく今の状況を楽しんでいた。
時計は20時。
美津は満足げに伸びをして、オフィスチェアから立ち上がった。担当しているお花見特集のゲラチェックが、全て完了したのだ。
― あー今日は頑張った。寒いし、タクシーで帰ろうかな。
「空車」の表示を探して右手を上げると、タクシーはすぐに捕まった。
「神泉まで」
運転手に告げ、動き出したタクシーの中で目をつむる。心地よい車体の揺れを感じながら、人知れず笑みをこぼした。ここのところ、毎日が楽しくて仕方ないのだ。
― あー、恋愛って楽しいな。仕事より、全然楽しいかも。
経済誌で毎日朝から深夜まで働いていた頃が、遠い昔のように思える。2人の男から大事にされる日々は、率直に言って気分がよかった。
『疲れたからタクシーで帰るね』
家で待っている大介にLINEを送ったあと、『お疲れさま、金曜だね』と守にLINEをする。
罪悪感は、そこまでない。少しでも罪の意識が芽生えたら、美津はそのたびに篤志の存在を思い出していた。
― あんなに遊んでる篤志さんが楽しそうに生きているのよ。だったら、私だって悪くないわ。私はただ、自分の人生を真剣に考えてるだけ…。
そう自分自身に言い聞かせ、甘いだけの現実にうっとりするのだった。
自分勝手に状況を楽しむ美津。そこに、予想外の出来事が起こる
「乾杯〜!」
キンキンに冷えたビールが、まっすぐ喉をすべり落ちた。大介の手料理が、今日もテーブルに並んでいる。
「なんか美津、今日はご機嫌だね」
「うん。今日はね、例のお花見特集の仕事を納めてきたの」
「へえ」
大介は、蓮根の挟み揚げを美津のために取り分けながら、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、しばらくは仕事落ち着く?」
邪気のない目で言う大介。彼のワクワクした様子に、美津は少し戸惑った。
頭にあったのは、守の存在だ。
ここのところ週に2回は、終電間際まで守と一緒にいた。「仕事が落ち着く」と言ってしまえば、大介に疑われてしまうから、会う時間を頻繁に作ることが難しくなってしまう。
「んー、どうかなあ。またすぐ次の仕事が始まると思うけど」
「そっか、ずっと忙しいんだね」
大介は何かを考え込むような表情をした後、「あ、カブのぬか漬け取りに行くわ」と言って立ち上がった。
美津は、大介がキッチンに行くたびにスマホを開く。
『美津さん、今度デートするときは何食べたい?』
柔らかな声で再生される、守からのLINEの文面。
― 早く会いたいなあ。
守と過ごしていると、自分も20代前半に戻ったような無邪気な気分になる。美津はそれが好きだった。
「今日は私が片付けるわ。たまにはね」
食後、美津がそう提案すると、少し驚きの混ざった表情で大介は「ありがとう」と言った。
食後の片付けをするのは本当に久々だった。知らぬ間に、スポンジが新調されている。
片付けと言っても、食洗機があるから一瞬だ。しかしさすがに毎日毎日大介にやらせているのはどうなのだろうと、ふと思ったのだ。
― 大ちゃんは家事を率先してやってくれるから、甘えてたわ。申し訳なかったなあ。
素直にそう思ったあと、美津は自らの感情の中に罪悪感の存在を感じた。
よく耳にする「旦那が突然優しくなったと思ったら、不倫をされていた」というエピソードを思い出す。
― なんか今、その気持ちがわかるわ。人間の心理って単純ね。
美津は鼻で笑いながら、食洗機に洗剤をセットしてキッチンを後にした。
…リビングに戻ると、そこは無音の空間になっていた。
いつもはつけっぱなしにしてあるテレビが、消されているのだ。
「…大ちゃん?どうしたの?」
無言でソファに座っている大介に問いかける。すると彼は、口を一文字に結んで座ったまま美津を見上げた。
「美津、ちょっといい?こっち座って」
「う、うん…」
― ん?なにか話があるんだわ。
洗い物でしっとりとした手に、汗がにじんだ。きっと守とのことがバレたのだ。そうとしか思えなかった。
「美津さ、この前なにか言いかけてたでしょう?あの時、美津が何を言いたかったか、僕ね、ちょっとわかってて」
張り詰めた雰囲気のリビングで、大介が言おうとしていたこととは
体が、硬直した。
― ああ、やっぱりバレたのね…。
窮地に追い込まれた、と思った。その途端、美津はこれまでの自分の行いを激しく後悔する。
― そうよね、こんなふうに自由に振る舞い続けられるわけない。
自分のしてきたことを思い返して、萎縮した。積み重ねてきた罪の重さが、一気にのしかかってきたような気分だ。
そして、そんな激しい罪悪感のあとに湧いてきたのは、「こんなふうに大介を手放したくはない」という強い想いだった。
…散々蔑ろにしてきたのに今になって、彼が自分の人生にとって絶対的に必要な存在だと思えたのだ。
でも、後悔のため息をついた次の瞬間、意外なことが起こった。
こわばっていた大介の表情が、ふっと緩んだのだ。
彼は背中から手を回し、手のひらに乗る白い箱を取り出す。
― プロポーズ…!?
「あのさ、美津。正式にプロポーズできていないのに、結婚後の話ばっかり先にして、ごめん」
「え?」
「いつはっきりしてくれるのって、あの時言いたかったんじゃないかなって」
「…んん」
美津は、肯定と否定の間のあいまいな声を漏らし、軽く口角を上げた。
― 大ちゃん、それは見当違いよ。あの時私は別れ話を…。
「本当にごめんね。ちゃんと伝える気持ちは、もちろんあったんだ。でも、できれば旅行先とかで渡したいって思ってたから」
「うん…」
「でも美津は、忙しそうで、なかなか難しくて。だから、次に美津の仕事が落ち着くタイミングで言おうって決めてたんだ」
静かに開かれた箱。
中で、指輪が輝いている。静まり返った部屋に、キラキラという音を放ちそうなほどの輝きだ。
彼は、体勢を整えてから改めて切り出した。
「美津と出会ってから、平凡な僕の毎日が本当に輝いたよ。笑顔で仕事を頑張っている美津が好きだし、支えたいと思うし。僕と結婚してくれますか?」
指輪を片手に微笑む大介。
その姿を見て美津は、これまでの4年間を思い返した。
記者の仕事は、慣れるまでは時間的にも精神的にもかなり負担が大きいものだった。何度も降りかかってきたストレスを、そのたびに優しく拭ってくれたのは、大介だ。
彼自身の幸せを蔑ろにしてでも、美津に尽くすことができる大介だから、この4年間やってこられた。
あんなに渋っていたのに、いざプロポーズされた途端に、美津の胸には急速に大介への愛おしさが込み上げてくるのだった。
― あれ?私、なんだかとっても嬉しい…。
気がつけば美津の手は、大介の方へと伸びていた。
美しい指輪が乗った、大介の温かい手。その手に触れながら、美津はゆっくりと口を開いた。
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新たな決意をした美津。しかし幸福は、崩れ始める…。