「彼以外を、好きになってはいけない」

そう思えば思うほど、彼以外に目を向けてしまう。

人は危険とわかっていながら、なぜ“甘い果実”に手を伸ばしてしまうのか。

これは結婚を控えた女が、甘い罠に落ちていく悲劇である。

◆これまでのあらすじ

彼氏・大介がいるのに「別れた」と嘘をついて、バー『onogi』のマスター誠司の弟・守とも付き合うことにした美津。嘘まみれの彼女を、誠司が呼び止めた。

▶前回:年越しは浮気相手と…。「彼氏と別れたの」と嘘をつき、年下男子と過ごす大晦日




「あの。…ひとつ、聞いてもいいですか?」

美津は振り返る。心臓が、バクバクと飛び跳ねていた。

「はい」

「うちの守が、美津さんに迷惑かけていないですか?」

「…め、迷惑ですか?」

誠司は、美津の表情を測るように静かに瞬きをした。しかし美津が何も言わないと、彼はふっと口元をゆるめる。

「いや、なんでもないんです。でも、もし迷惑かけてたら、いつでも言ってくださいね。掛川さんは、大事なお客さんなので」

― 何が言いたいんだろう?

美津は立ち尽くす。

「でもね、掛川さん」

誰もいないカウンターの一点を見つめながら、誠司はうつむきがちに言った。

「守も、大事な弟です。息子のように育ててきた、大事な大事な弟です」

誠司の貼り付けたような笑顔からは、心情が全く読めない。しかし、こすり合わせたその指先からは、かすかな怒りを感じた。

― 誠司さんは、守と私のことを知っている。そして、大ちゃんと別れていないことも知っている。

誠司の意図がはっきりと伝わった今、美津の全身に緊張が走る。

「うん、そういうことです。また来てくださいね」

そう言って、誠司はぎこちなく微笑む。その微笑みに動転した美津は、逃げるように店を後にしたのだった。

― このままじゃダメだわ。選ばないと。…やっぱり大ちゃんを振ろう。きちんと終わらせて、守のところに行こう。

美津は、帰宅するやいなや、大介に声をかけた。

「あのさ、大ちゃん…話があるの」


「別れたい」そう言おうと決意した美津。その瞬間、ある感情が彼女を襲う


相変わらず、式場のパンフレットがテーブルの端に置かれていた。いつもなら大介は、テーブルに置いたものはこまめに片付けるはずだ。

― 大ちゃん、私が手に取るのを待ってるんだろうな。

ふいに、はげしく胸が痛んだ。大介をかわいそうだと思ったのだ。

「話って?」

大介は、眉をひそめながらソファの美津の横に腰掛けた。美津の顔色を見て、ただごとじゃないことを感じ取ったのだろう。その顔は、心配そうに歪んでいた。

― 別れたいの。

何度も頭の中で予行練習をしたはずの台詞。それなのに、いざとなると口に出すことができない。

自信がないのだ。

守は若くて、これから遊び盛りの男子だ。すぐに結婚を考えているということもないだろう。

― 「結局大介にしておけばよかった」。数年後にそう思うかもしれない。

その可能性が恐ろしかった。損も失敗も、絶対にしたくない。

「ううん、なんでもない」

結局、言い出せなかった。

大介は、落ち込む美津をなぐさめるように、美津の長い髪を愛おしげに手でとかす。

「ならいいけど。美津、最近本当に忙しそうだけど、仕事は楽しい?」

「…楽しいよ。どうして?」

「そうか。ならいいんだ。…いや、経済誌にいた時は、もっと仕事の話を色々してくれてたでしょ?だから今はつまらないのかなって」

「ああ…」

不覚だ、と思った。

「だから、もし今の部署は、忙しいだけでやりがいがないのかなって心配したんだ。でも楽しいならよかった」

立ち上がった大介の背中を見て、美津は考える。

― 仕事は最近、どうでもいいのよね。

部署異動が決まったときは、フリーの経済記者になってやろうと鼻息を荒くしていた。でも今や、その気持ちも忘れて、恋愛の深みにズブズブにはまり込んでいるのだ。頭のてっぺんから、足のつま先まで。

― なんでだろう。今までは、あんなにキャリアが大事だったのに。

そう思った時、美津はふと思い出す。

子ども時代に、ピアノコンクールで賞を逃した日を。




自分が絶対に賞を取る。

そう信じていたのに、その日、幼い美津は賞を逃した。その途端に美津はピアノが一気に嫌になってしまい、ついには辞めてしまったのだ。

― 子どもの頃から、自分の不足に向き合うのが怖かった。今もそう。…フリーになったら私、全然ダメかもしれない。それを知るのが怖いんだわ。

突然上司から見切られて、違う部署にいかされて。自分には実力がないのかもしれないと思ったら、怖くなってしまった。

ソファの背に首を預け、天井を見る。

― でも守くんは、私の原稿を褒めてくれたわ。あの時のキラキラした目…。

自信を失った美津にとって、そのまなざしはまるで心の栄養のように思えた。


甘い日々に堕ちていく美津。そのスマホに、ある連絡が届く…


年明けムード満載の日曜日の渋谷を、1人で散歩する。

「福袋」と書かれた紙袋をぶら下げて歩いている人がたくさん。街は賑やかだ。対照的に美津は、年明け早々、良心の呵責に襲われていた。

― 早く、早く決めないと。このまま大ちゃんと守くんと両方と続けるわけにはいかないわ。

ちょうどそのとき、LINEの通知が鳴った。

― あら。篤志さんだ。久々。

「美津さん、あけましておめでとう。またデートしようね」

文面を見て、美津は衝動的に思った。

― どうしてだろう…。私、無性に篤志さんと話がしたい。

理由は自分でも不明だった。一旦スワイプしかけたトーク画面を開く。

「あけましておめでとうございます。いいよ。今からどうです?」

篤志は、タクシーを飛ばしてすぐに迎えにきた。




ステーキハウスで、昼間からビールで乾杯をする。

美津は、開口一番に質問をした。

「ねえ突然だけど、遊び人の篤志さんは、どうやって今の奥様を選んだの?」

「遊び人?ちょっと心外だなあ」

そう苦笑してから、篤志は言った。

「シンプルに、結婚してって言われたからだよ。俺は、そうじゃなきゃ結婚はしていないね」

「どうして?」

「自覚があったんだ。一人を一生愛し続けるなんて、できないってね」

「…それなのに結婚したんだ」

「まあ、1人に絞ることは無理だけど、同じ人を愛し続けることはできるから。妻のこと、今も愛してるし」

そう言うと篤志は、口の周りについたビールの泡を拭った。そしてその途端、真面目な表情になる。

「複数相手がいるっていうのは、別にたいした問題じゃないよ。それによって奥さんへの愛が減るわけじゃないし。十分に愛していればいいんだ」

「そういうもの?」

篤志は、自信満々にうなずいた。

「むしろ複数相手がいる俺は、たくさんの女性を幸せにしているから偉いよね」

「ふふ、最低ね」

ふざけて篤志を睨みつけながらも、美津はハッとした。

― ああ、なんでこの人に会いたくなったのかわかった。安心したかったんだ。世の中には私より自分勝手な人がいる。そう確認したかったんだ。

「美津さん、彼氏との結婚になにか迷っているの?」

「……」

美津は何も言わずに、ステーキを頬張った。

「はは、図星だ。まあ美津さんは、若いんだからじっくり選べばいいよ。ちょっと他の男も見てみたらいいじゃん。俺だったらそうしちゃうね」

― もう見てるのよ。なんなら、付き合ってしまったの。

そんなふうに守とのことを洗いざらい打ち明けてみたい気がしたが、飲み込む。

「俺を選んでもいいわけだし。あ、籍は入れらないけど」

篤志は楽しそうに笑った。

「どう?またヘリ乗って京都行こうよ」

「いやよ。冗談じゃないわ」

ビールを飲み干して、美津はニッコリする。

「遊ぶだけの恋愛はしないの。だから篤志さんから身をひいたのよ」

「残念だ。美津さんがそんなちゃんとした人だったとはね」

篤志と笑い合いながら、美津は思う。

― そうよね、そんなに悪いことはしてないわ。どっちも遊びじゃないもの。真剣なの。大ちゃんとも、守とも。

大晦日の夜から感じていた胸を塞ぐような罪悪感が、スーッと溶けて消えていった。

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罪悪感を失った美津。止まらない暴走