就活をやめて結婚を選んだ妻を追い詰める、裏切り夫のヤバい行動
あふれた水は、戻らない。割れたガラスは、戻らない。
それならば、壊れた心は?
最愛の夫が犯した、一夜限りの過ち。そして、幸せを取り戻すと決めた妻。
夫婦は信頼を回復し、関係を再構築することができるのだろうか。
◆これまでのあらすじ
夫の孝之が、秘書の木村と一夜の過ちを犯していた。一度は離婚を考えたものの、娘・絵麻のためにも再構築の道を選んだ美郷。
ギクシャクした再構築生活に悩んでいたとき、学生時代の友人・最上から仕事を頼まれる。孝之に内緒で最上と会った美郷だったが…。
朝。絵麻と孝之を送り出すと、私は珍しく化粧台へと向かった。
専業主婦の私は、午前中はノーメイクで過ごすことも少なくない。
午前中は掃除や洗濯などの家事をしているし、午後だって、絵麻のお稽古の送迎くらいしかやることがないのだ。
けれど、今日は違う。薄いながらもきちんとメイクをすると、ノートパソコンを持って近くのコーヒーチェーンへと出向く。
寒いけれど雪の降らない東京の冬は、バンクーバーと少し似ている気もする。
そんなことを思いながらノートパソコンを立ち上げた私は、熱いコーヒーを片手に、なしくずし的に引き受けることになった留学プログラムの寄稿文の執筆に取り掛かるのだった。
わざわざカフェに来なくても、家でやればいいじゃない。そう思う気持ちもあったけれど、今はとにかく自宅ではないところで過ごしたい気分だ。
孝之と一緒に過ごす自宅で、彼のことを否応もなく考えてしまう場所に、私は居たくなかったのだ。
孝之が土下座をしたリビングにも、孝之と芝居のキスをする玄関にも、…孝之が「おかえり」と言って、薄暗がりの中でたたずんでいた廊下にも。
こうして外で中学時代の思い出に浸っていれば、きっと何も考えずにいられる。
孝之の浮気が発覚してからの辛い毎日のことも。私を待ち受けていた、昨日の孝之とのやりとりのことも…。
孝之に内緒で最上に会った美郷。自宅で孝之が待ち受けていた理由は
「おかえり。どこに行ってたの?」
最上くんとの再会を果たし、バターを買って帰ったのは14時頃。
窓のない廊下は昼過ぎでも薄暗い。その廊下の片隅から、朝確かに会社に行ったはずの孝之が、帰宅した私を出迎えたのだ。
「きゃっ!?」
予期せぬ孝之の声に思わず悲鳴をあげた私を、奇妙な微笑みを浮かべて孝之がじっと見つめる。
「ちょっと時間が空いたから、たまには夫婦でランチでもどうかなと思って帰ったんだけど。
こんな時間に美郷が留守にしてるなんて、珍しいね。どこに行ってたの?」
そう問いかける孝之は、目が笑っていない。
最上くんと会ったことで前向きになっていた気持ちも一瞬で消え失せてしまった。
「別に。昔の友達と会ってただけよ」
「昔の友達って?」
問い詰めるような食い気味の口調に、私は思わずイラッとしてしまう。
― 自分は仕事のふりして浮気していたくせに…。
一度そんな考えが浮かんでしまったら、もう、優しい態度をとるのは難しかった。
孝之とやり直したい。もう一度、信頼関係を築きたい。…けれど、感情にまかせてめちゃくちゃに罵倒して、傷つけてやりたい。
再構築を始めて以来ずっと、孝之の顔を見ると、そんな相反する気持ちが同時に湧き出てくるのだ。
“再構築”というけれど……再び、なにを構築すればいいのだろう。どんな顔をして幸福な夫婦でいたのか、今はうまく思い出せない。
でも、険悪な雰囲気になることだけは避けなくてはならない。そう考えた私は、まとわりつくような孝之の視線をはねのける。
「とにかく、料理しなきゃいけないから」
なるべく感情を込めずにそう突き放すと、私はキッチンにこもった。
◆
家と関係のない場所にいれば、孝之のことを考えずにいられる。
そう思ってカフェまで来たはずなのに、なぜだかコーヒーを飲んでいても、思い出すのは孝之との過去ばかりだった。
カフェでパソコンを開くという行為は、遠い昔、就活をしていた大学生の頃をどこか彷彿とさせた。
『自分で書いてる?編集者?将来は出版関係の仕事につきたいって言ってたよね』
かつて本の虫だった私は、最上くんがそう言っていたように、幼い頃からずっと本や雑誌に関わる仕事をするのが夢だった。
その夢は大学生になっても変わらず、就活生だった頃は出版社を第一志望にして、こうしてカフェでエントリーシートや作文を書いたものだ。
ただでさえ採用の少ない出版社の就活は、決して楽ではなかった。
書類選考で落ちてしまうこともあり落ち込んだけれど、第一志望の選考は着々と駒を進めることができ、2年先に就職していた当時の彼氏・孝之によく相談に乗ってもらっていたのだ。
けれど…。
あれから15年もたった今でも、まるで昨日のことのようにハッキリと思い出せる。
最終面接を数日後に控えた私に、当時の孝之がかけた言葉。
それは、まったく予期せぬものだった。
15年前。就活に悩んでいた美郷に彼氏だった孝之が言った言葉は
「頑張ってる美郷に、こんなことを言うのは間違ってるのかもしれない。でも俺、来年には海外赴任になる。
美郷。就活やめてくれ。それで、俺と結婚してついてきてほしい」
あまりに突然のプロポーズに、私は言葉を失った。
もちろん、孝之との結婚をこれまで考えなかったわけではない。彼が商社マンになった時から、いつかは遠い赴任先へ帯同となることもぼんやりとは予想していた。
でもまさか、一度も就職せずに結婚することになるなんて…。それだけは自分の人生で、一度も考えたことがなかったのだ。
「孝之。嬉しい、嬉しいよ。でも、え…?ちょっと待って…」
言いよどむ私に、孝之は真剣な眼差しで続けた。
「お願いだ。絶対に美郷を幸せにする。世界で一番大切にする。だから、結婚して。俺、美郷がいないとだめなんだ…」
普段から自信満々で、いつもひょうきんなことばかり言っている孝之の初めての懇願だった。
2回目の懇願にあの土下座が待ち受けているなんて考えもしなかった私は、孝之の不安げで思いつめた表情に心を打たれて、気がつけば震える彼の手をそっと握っていた。
自分自身が商社マンの娘として育ったのだ。海外赴任の大変さ、孤独さは、よくよくわかっているつもりだった。
孝之を、支えてあげたい。そう強く感じたことを覚えている。
「…わかった。結婚、しよっか」
気がつけば、そう答えていた。このとき私は、自分の夢ではなく孝之を選んだのだ。
そして今。孝之は商社マンではなくなり、…私を裏切った。
「将来は出版関係の仕事につきたいって言ってたよね」
最上くんが言う通り、本当にそうしていたら。あのとき、結婚ではなく就職を選んでいたら。
それでも私は今ごろ、再構築の道を進んでいただろうか?
― バカ。そんなこと考えたって、意味ないのに。
過去には戻れない。それどころかあの日結婚を断っていたら、孝之と結婚することにならず、絵麻にだって出会えていなかったはずだ。
私は、寄稿文のためのワードを閉じると、張り切って買ったグランデサイズのコーヒーに口をつける。
気がつけば3時間もずっとこうしていたのだ。まだなみなみと残っているコーヒーはすっかり冷たくなっていた。
― 冷え切ったコーヒーを、温め直してくれるサービスがあればいいのに。
そんなことを考えたけれど、本当はわかっていた。そんな無茶な注文をする人はいない。
熱くて美味しい頃合いを逃した人は、みんな黙って我慢して、冷えたコーヒーを飲む。
◆
結局どこへ出かけたところで、憂鬱な気持ちからは逃れられない。
そのことにやっと気がついた私は、少しも使わなかったノートパソコンをゴヤールのサンルイに無造作に放り込み、カフェをあとにした。
こんな最悪な気分の時でも、結局は家に帰るしかない。自分の世界の狭さには辟易してしまう。
けれどこの日は、うんざりするような毎日を送る私を信じられない衝撃が待ち受けていた。
エントランスを抜けたインターホンの前に、見覚えのある人物を見つけたのだ。
小柄な背中がくるりと振り向き、私を見つけてニコっと微笑みかける。
「美郷さん〜!お出かけしてたのね。忙しい時に急におしかけてごめんなさい。…ねえ、悪いんだけど…ちょっと上がらせてもらえるかしら?」
勢いよく私に話しかける女性。それは、数日前に会ったばかりのお義母様…孝之の、母だった。
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突然自宅に押しかけてきた、夫の母親。その信じられない目的とは