純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 実用化されるものは、理論上は、すべて絶対に安全だ。なぜなら、いまどき、理論的に安全でなければ、実用化されないから。しかし、それはあくまで理論上。人間の理論は、現実を直接に支配してはおらず、それゆえ、事故が起きないことまで保証しえない。

 たとえば、コンピュータシステム。商品として提供する以上、入念にチェックが行われ、安全な状態で納品される。しかし、それは、そのチェック項目に対して安全であるだけで、やはりトラブルは起きる。チェックしなかった状況については、未検証だからだ。

 鉄道など、その最たるもの。緻密な検査と細心の運用をしていても、やはり事故は起きる。検査項目外、チェック項目外のところからトラブルが忍び込むだけでなく、システムが複雑になるにつれて、個々の項目にはどこにも問題が無くても、複合要因によって思わぬ穴を生じる。いくらフールプルーフ、フェイルセイフ重ねても、そのフールプルーフやフェイルセイフがまた、フールやフェイルだったりする。

 ノーベル賞でさえ当てにならない。1994年、経済学賞を取った天才的学者らを集め、高度の金融工学を駆使して投資するファンド、LTCM(ロングターム・キャピタル・ファンド)が創設された。それが1000億ドルを運用し、なんと年利40%を叩き出していた。ところが、4年後の98年8月、超大国のロシア、エリツィン政権がいきなり国債をデフォルト。LTCMの投資は逆レバレッジに陥り、わずか1ヶ月後には事実上の破綻。なにをやらかすかわからない世間の不合理な人間たちの現実を甘く見た結果。

 もっと我々に身近なところでは、原発事故がそうだろう。多重の安全機構で、絶対安全と言われていた。理論上、メルトダウンなどありえない、とされた。でも、事故は現実に起きた。「想定外」という言葉が流行したが、理論上の安全は、しょせん想定された条件の下での話。想定していなかった状況では、何が起きるか、まったく未知。

 理論と現実が合わない場合、理論の方がまちがっている。そして、そもそも理論は、すべてそこに暗黙の定義域を前提としている。逆に言えば、定義域の外では、その理論はまったく無力だ。これまでがどうであれ、これからへの外挿には、根拠が欠けている。

 今日、かんたんに安全を人々にふれ回る連中がいるが、はたして本物の研究者なのだろうか、それとも政治の茶坊主か。これほどの大変でさえ誰ひとり事前に予測できなかったくせに、どの口が、その解決を、そんなに確信を持って語れるのか。

 ニュートンは、みずからを、真理の深遠な大海を前に、岸辺で貝を拾う少年にすぎない、と謙虚に評した。また、彼は、事実に反することを理解しても、それは理解ではない、と言い、天体の動きは計算できても、人々の愚行は予想できない、と言う。真理の探究は、わからないことを、素直にわからないと気づくことこそ、その第一歩だろう。