メンガーのスポンジ:フラクタル組織の末路/純丘曜彰 教授博士
東大の院生時代、いまからもう三十年も前、他学科にもかかわらず、経営戦略論の土屋守章先生のゼミにおじゃましていた。そのころ、〈学習する組織〉というアイディアが注目を浴びていた。それまでの階層型トップダウンの指示待ちでは組織が硬直し、時代に即応できない、そこで、どの部分も全体と相似になる〈フラクタル〉な構造をとることで、組織の柔軟性、現場の即応性を高めようというもの。数学で言うシェルピンスキーのピラミッドだ。
これは、軍隊では以前から常識だった。部隊が孤立し、上部との連絡が絶たれてしまった場合でも、そのときの現場の中での最上位将校を中心に、小さな軍隊として組織的行動を継続する。ただし、これには、組織の末端まで、組織全体の理念、いわゆる「DNA」が行き渡っていることで、どこで切れても、そこから再生できる「風通しの良さ」があらかじめ確立していなければならない。
ところが、この話を犬田充先生にしたところ、大笑いしていた。この先生は、もともと理系で、文系の連中がイメージだけで語るよりリジットに、この構造の問題点を指摘してくれた。いま、その懸念が現実化しているのがよくわかる。
ようするに、フラクタルは、数学的には大きなものを無限分割していく形で現われる。しかし、人間社会は、個人をアトムとして、その寄せ集めでできあがる。このとき、似非フラクタル組織は、合同することにのみ合意していて、もともとそれ以上の理念を共有していない。また、ここではもはや組織理念のトップダウンが現場から反発され、それどころか、ボトムどおしでもぶつかりあい、収拾がつかなくなる、と。
もとより、その後、多くの行政や企業が、ピラミッド型、いわゆる富士山型の組織から、多元的な八ヶ岳型、さらには、縦型事業部制と横断的プロジェクトチームを掛け合わせたマトリックス型の組織に移行。同じフラクタルでも、シェルピンスキーのピラミッドは、立体的なメンガーのスポンジへと発展した。しかし、バブル崩壊や、リーマンショックもあって、その実体は、拙速な吸収合併によるものであり、まさに犬田先生が予見していたような、理念がまったく異なる組織の打算的寄せ集め。
つまり、フラクタルとして同じDNAが部分まで共有されているのではなく、DNAがまったく異なる部分をむりやり結合したフランケンシュタインの怪物、キメラだ。連合体やネットも同じ。フラクタル、まして似非フラクタルは、中心が無い。だれも最終決定権者ではなく、だれも最終責任者でもない。それぞれが好き勝手にやって、ちぐはぐのグダグダ。どうにかしようにも、意見集約の方法も無く、また、ムリをしても、かならずどこかのキメラ部分から強硬な反発を生じる。
実際、フランチャイズなど、地方ごとの既存の総合企業体が特定分野、半身のみ本部の傘下に入っているだけで、すぐに反逆が起きる。いまや顧客までこの似非フラクタルの主要部分に組み込まれており、彼らもまたそれぞれ勝手にその企業の理念を語って、それに反しているとクレームをつける。イヤなら止めればいい、と切り捨てようにも、その別理念に賛同するキメラ部分は、組織の内部深くにまで食い込んでおり、身動きが取れない。
たとえば、左派政党は、労働組合との関係を断とうという連中と、それを基盤とする連中との呉越同舟。同様に、右派政党も、地元主義と、業界連携と、二律背反。企業でも、たとえば自動車産業で、従来のエンジン中心型か、車輪ごとのモーター型か、根本原理、戦略方針をまとめられず、どっちつかずのまま、経営資源と対応時間をあたら中途半端に双方へ費やし、どちらの分野でも世界に遅れをとりつつある。
民主的、というと聞こえがいいが、合意しているのは、民主的に決めよう、ということだけで、その中身はたがいに絶対に妥協しえず、結局、にっちもさっちも動けない。やがて、組織は形骸化し、だれも信用しなくなる。メンガーのスポンジは、最終的には、体積ゼロ、質量ゼロになる。