川口 雅裕 / NPO法人・老いの工学研究所 理事長

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1979年に出版された「ロゼト物語」は米国の医師、スチュワート・ウルフらが書いたものですが、高齢期の健康に関する興味深い事実が記述されています。まずは、その概要を紹介します。

米国ペンシルベニア州にあるロゼト(Roseto)は19世紀後半、イタリアのある村からの移民たちがつくった千数百人ほどの小さな町。1950〜60年にかけた調査で、心臓疾患による死亡率が周囲の町と比べて半分以下だったことで、にわかに注目されるようになりました。飲酒、喫煙、食事、運動といった健康行動や意識、あるいは生活水準などの調査も行われましたが、それらは周囲の町と大して変わりませんでした。

なぜ、ロゼトの住民は心臓疾患にかかる確率がこんなに低いのか。研究者たちが導いた結論は「連帯感や助け合い以外にその理由は見当たらない」というものでした。1960年代に入り、ロゼトは外部の町との交流が増えて、町の結束が弱まり、米国的な生活スタイルに変わっていきます。それは移民イタリア人の社会的・経済的な地位向上ではありましたが、それとともに、心臓疾患による死亡率は周りの町と同じようになってしまったのです。

この話は「ロゼトの奇跡」と呼ばれ、健康が「生活習慣」や「物理的環境」だけでなく、「人間関係(コミュニティー)」に大いに左右されるという点で関心を集めました。では、どのような人間関係を持ち、どんなコミュニティーに身を置くのが健康にとってよいのか。「ロゼト物語」の著者の分析を踏まえて、考えてみたいと思います。

ロゼトは移民の町ですから、周囲の町で暮らす人々とは異なる文化や生活スタイルがあったはずです。生活水準も周りに比べて低く、異国で孤立気味になったのかもしれません。著者が指摘する「ロゼトの連帯感」はそんな中だからこそ生まれた、皆で団結して、何とかやっていこうという気持ちの表れだったのでしょう。

また、全員が新しく移ってきた人たち(以前から、そこにいた人がいない集団)ですから、内部の人間関係には主従や上下の関係、昔からのしがらみなどがなく、対等、かつ寛容で、フランクな関係の中で暮らせたのでしょう。このような人間関係が互いへの配慮や目配り、助け合いを自然に発生させ、それぞれが集団を維持するための役割や居場所を持ったといえます。

ロゼトの奇跡は古い町の固定的な役割や身分のようなものに縛られた社会、あるいはお金や地位・名誉で大きく差のついてしまったような格差社会では生まれなかったはずです(もちろん、周りに人がいないような、孤立した環境ではいうまでもありません)。

もっとも、連帯感や対等・寛容な人間関係、互助や居場所などが心臓疾患のリスクを直接的に減少させているわけではありません。おそらく、これらが食事や運動、交流といった生活習慣をよくする効果を持ち、自分の役割や居場所の存在が精神的な充実をもたらし、周りに人がいる安心感がストレスを緩和することなどによって、健康状態の維持・向上につながっていたのだと考えられます。その結果、心臓疾患による死亡率が周りの町と比べて半分以下になっているというわけです。

ロゼトの奇跡に学べることを2つ、挙げたいと思います。

1つ目は健康を「自分の努力次第」「健康習慣を心掛ける」といった“個人レベル”で考えてはいけないということです。 食事・運動・交流に気を付けて暮らすのは大切ですが、それだけではロゼトの周りにあった町の人々と似たようなものです。ロゼトの奇跡は個人レベルの努力では健康リスクを大きく減らすことはできず、「どのようなコミュニティーで暮らしているか」が健康状態を大きく左右するのだと教えてくれています。

2つ目は古い人間関係の中にいるよりも、新しいコミュニティーで暮らす方が健康維持に効果的であるということです。 「住み慣れた場所で人生を終えたい」という高齢者は少なくありません。しかし、それはやはり、ロゼトの周りの町の人たちと同じです。もちろん、新しければ何でもよいというわけではありませんが、ロゼトのような対等・寛容・互助・居場所といったものが感じられる、極めて「居心地のよい場所」であるなら、古い所に居続けるよりも健康長寿が実現する可能性は大いに高まるはずです。 高齢期の健康維持には健康習慣よりも、「どのようなコミュニティーで暮らすか」が決定的に重要である。ロゼトの奇跡はそんなメッセージを伝えているのです。