日本サッカー協会は、6月の親善試合で日本代表とU−24日本代表が「アニバーサリーユニフォーム」を着用すると発表。3日のA代表対U−24代表ではA代表が、5日のU−24ガーナ代表戦ではU−24代表が、記念のユニフォームを着てプレーする。


日本代表が着用するアニバーサリーユニフォーム/(C)JFA

 日本サッカー協会が今年9月に創立100周年を迎えるのに伴った企画で、1930年代のユニフォームを模したデザインで、最近のユニフォームと違って「ライトブルー」が基調となっている。

 色調はだいぶ変化してきたが、日本代表は1930年代以降のほとんどの時代を通して青のユニフォームを着用して戦ってきた。では、いったいなぜ日本代表のユニフォームは「青」なのか?

 アニバーサリーユニフォーム着用を発表した日本サッカー協会のリリースには「『国土を取り巻く海』をコンセプトに制定された」とあるが、1930年代の文書をいくら読んでもそんなことはどこにも書かれていない。なぜ青なのか。実は「何もわからない」というのが正解なのだが、今回は日本代表ユニフォームの歴史を追うことで、理由と思われる有力な説に迫ってみたい。

 多くの国で、代表チームは国旗の色を使用している。

 最も有名なのはフランスのトリコロール(青白赤)だろうし、アルゼンチンの空色と白の縦縞もまさに国旗を模したものだ(同国のラグビーの代表チーム「プーマス」のユニフォームは空色と白の横縞である)。スコットランドの紺も、スコットランドが独立国だった時代の国旗「セントアンドリュー旗」の色だし、メキシコの「緑白赤」も国旗にちなんだものだ。

 しかし、世界には国旗とは異なった色のユニフォームを使っている国も多い。

 オランダのオレンジは国のシンボルカラーで、オランダの王家も「オラニエ家」という。英語の「オレンジ」に当たる言葉だ。

 イタリア代表は「アッズーリ」と呼ばれるが、イタリア語でブルーという意味の「アッズーロ」の複数形が「アッズーリ」だ。しかし、イタリアがなぜブルーのユニフォームになったのかについては、理由がわかっていない。「イタリア半島を取り囲む海の色」とか「かつてイタリア王国を統治していたサヴォイア王家の紋章の一部の色」とか諸説あるが、本当のところは何もわかっていないのだ。

 国際試合に出場するために編成される日本代表。現在では海外クラブ所属も含めて、日本国籍を持つすべての選手の中から選抜されるのが当たり前になっているが、1921年に日本サッカー協会が結成された当時は「全日本選抜」結成は不可能だった。交通機関が未発達だった当時、たとえば関西の選手を東京に呼んで合同合宿をすることは難しかったのだ。

 そこで、1917年に東京で開催された極東選手権大会に日本のサッカーが初めて参加した時には、日本最強と言われていた東京高等師範学校(筑波大学の前身)が選ばれて代表として出場した(中国に0−5、フィリピンに2−15と大敗)。

 その後も日本は極東選手権大会で中国やフィリピンと戦うのだが、1920年代は大会前に国内予選が行なわれ、優勝したチームが日本代表として派遣された(他のクラブから補強選手を何人か入れて戦うことが多かった)。

 しかし、日本でも少しずつサッカーが盛んになってきた1930年の極東選手権大会は、東京の明治神宮外苑競技場で開催された。現在の国立競技場がある場所だ。そこで、日本サッカー協会はこの大会には単独チームではなく、全日本選抜チームを組んで出場し、優勝を狙うことにしたのだ。

 実際、この大会で日本(全日本選抜)はフィリピンに快勝し、中国とは3−3で引き分けて同時優勝。日本のサッカーが国際大会でタイトルを獲得したのは、これが初めてだった。

 ユニフォームはそれまで、予選を勝ち抜いたチームが自分たちのユニフォームを着用して出場していた。たとえば、1917年の極東選手権大会の時は、東京高等師範学校の海老茶色のユニフォームに、日本代表であることを示す旭日旗をモチーフにしたマークを付けて出場していたのだ。1927年の上海大会で日本は初めてフィリピンに勝利したが、この時は国内予選に勝った早稲田大学が出場したので、早稲田のエンジのユニフォームで戦っていた。

 さて、それでは1930年に初めて全日本選抜が結成された時に、なぜブルーが選ばれたのか......。考えられる理由はただ一つ。当時、関東大学リーグで6連覇を達成しようとしていた日本最強の東京帝国大学(東京大学の前身)のユニフォームがブルーだったという理由だ。

 1930年の極東選手権大会に参加した日本代表は15人のうち9人が0Bを含む東京帝大の選手だったのだ。これまでも国内予選を勝ち抜いて出場したチームは、他クラブからの補強選手を含めて各クラブのユニフォームを使用していた。だから「今回も東京帝大主体なのだからライトブルーにしようという」のは自然な発想だろう。

 結成された日本代表チームは、現在の東京都練馬区の石神井にあったグラウンドで合宿を行ない猛特訓に励むのだが、当時の写真を見ると多くの選手が胸に「帝大」の文字が入ったブルーのユニフォームをそのまま着用している。

「ユニフォームの色を何色にするか」について、公式文書はもちろん、当時の関係者の証言も新聞記事も何も残っていない。だが、1920年代までの歴史を考えれば、代表の中核を担った東京帝大のユニフォームをそのまま使ったというのは大いにありえることだ。

 1930年大会で「初優勝」という好結果を残したこともあって、その後も日本代表のユニフォームには青が使われるようになった。

 日本代表は1936年のベルリンオリンピックに出場し、のちの1938年ワールドカップでベスト4位に入る強豪スウェーデンを破る快挙を成し遂げたが、この時の日本代表は早稲田大学主体の選抜チームだった。しかし、ユニフォームは早稲田のエンジではなく、1930年に初の国際タイトルを獲得した時と同じブルーが使われており、ベルリン五輪の成功によって「ブルー」は日本代表のカラーとして完全に定着した。

 もっとも、日本代表がファーストカラーとしてブルーを使っていたのは1950年代までで、1960年代になると白が日本のファーストユニフォームとなっていた。1964年東京五輪でアルゼンチンを破った時も、1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得した時も、日本代表のユニフォームはブルーではなく、白が基調だった。

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 その後も、1980年代までは白の時代がつづいたが、1989年に突然ユニフォームは赤に変更された。しかし、Jリーグ発足前年の1992年に初めての外国人監督としてハンス・オフトが招聘されて日本代表が本気でワールドカップ出場を目指すようになると、ユニフォームの色は再び「ブルー」に戻された。

 オフトの時代以降、日本代表のブルーの色調は次第に濃くなってきた。だが、日本代表の原点は今回のアニバーサリーユニフォームのような「ライトブルー」(東京帝大のスクールカラー)だったのだ。

 今後は、日本代表のユニフォームの青の色調も頻繁に変えないでほしい。できれば、原点である「ライトブルー」に戻してもらいたいものなのだが......。