トニー・シェイとの出会い:経営戦略の柱は戦略的企業文化の構築/石塚 しのぶ
2020年11月27日、ザッポスの元CEOであり、その飛躍的な成長を率いたカリスマ経営者トニー・シェイ(Tony Hsieh)が逝去したという報せを受けた。火事による事故死。46歳の若さだった。8月にザッポスを電撃辞任し、『サンダンス映画祭』で知られるユタ州のパークシティで不動産を爆買いしているというニュースが数カ月にわたって報道されていた。ラスベガスのダウンタウンで試みたような、「ビジネス(起業)」と「カルチャー(文化)」と「ミュージック(音楽)」が融合する町づくりを構想しているという噂も聞かれ、また何か凡人には想像もつかないような刺激的な「こと」を起こしてくれるのだろうと期待していた矢先だった。残念でならない。
2008年春の出会い以来、トニーには年に一度かそれ以上のペースで会い、インタビューを行ってきた。優れた文化を軸に頭角を現している企業を研究し、戦略的な企業文化構築のメソドロジーとしての「コア・バリュー経営」を開発・提唱する発端となったのがまさしくトニーとの出会いであり、私自身のこの12年間の歩みの傍らには、常にトニー/ザッポスの存在があった。
私はダイナ・サーチというコンサルティングの会社を1982年にカリフォルニア州ロサンゼルス市に創設し、以来、アメリカの優良企業の研究に従事してきた。2008年の時点で、もう既に、数えきれないほどの企業を訪問し、経営者やビジネス・リーダーのインタビューを重ねていた。その中にはディズニーやスターバックスといった有名どころも名を連ねる。しかし、ザッポスは私の30年にわたるコンサル人生の中で「他に類を見ない」「奇跡の」企業であり、トニーはまぎれもなく、天才的な経営者であり、イノベーターだった。
ただし、トニーという人は、「天才」というだけではなく、すべての人が幸せに働ける会社、ひいては社会を、「真剣に」追い求めて、それを実装するための実験を重ねた人だったのだ。そういう意味ではあれほどまでに純粋な人もいなかった。「真摯」という言葉がほんとうにぴったりくる人だった。46年というあまりにも短い人生だったが、その中で出会いの機会を与えられ、たくさんの刺激や学びをもらった、その幸運に心から感謝する。そしてその感謝のしるしとして、トニー・シェイという人について、その思想について、研究者として私が垣間見たことをここに記しておきたい。
過去の出来事について、よく「昨日のことのように覚えている」という表現があるが、2008年5月のトニーとの出会いについてはそれはあてはまらない。ずいぶん長い年月が経ってしまったのだなあという感じだ。それは彼と出会った場所が『Community 2.0(コミュニティ2.0)』という時代を物語るような名前のカンファレンスの会場だったからかもしれない。当時、「企業が顧客、社員、あるいはサプライヤーをネット上でコミュニティ化する」というのはまだまだ新しいコンセプトだった。『Community 2.0』の席上では、主にテクノロジーを活用した「コミュニティのつくり方」について議論が交わされていた。
そんな中、トニーのプレゼンは異色だった。ランチを囲みながらの基調講演の題名は『顧客フォーカスなカルチャーをつくる』。ネット通販の会社でありながら、テクノロジーの「テ」の字も含まない話を、ザッポスのロゴ入りTシャツにジーンズとスニーカー、それに坊主頭という少年のようないでたちで、トニー・シェイは飄々と語った。訥々(とつとつ)と話す様子は、お世辞にも「上手い」プレゼンとは言えなかったけれど、決して揺らぐことのない信念と、沸々と湧き出すような情熱は一目瞭然だった。どんなに雄弁なスピーチよりも説得力があった。彼は本物だった。
「コア・バリューを基盤に、顧客フォーカスなカルチャーをつくれば、成果(驚嘆(WOW)のサービス)はあとからついてくる!」
この言葉の謎を解き明かすのに12年間を費やすことになるとは、その時は思ってもみなかった。ただ、プレゼンの最後の「ぜひ、ザッポスの本社に来てください!」という招待に誘われて、トニーがステージから下りるなり、自己紹介をし、その数週間後には、当時、ラスベガス郊外のヘンダーソンという町にあったザッポス本社を訪問する約束を取り付けていた。
これが、私とトニー・シェイの出会い、ザッポスと企業文化、そしてコア・バリュー経営をめぐる旅路(ジャーニー)の始まりだった。