純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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J それにしても、四世紀末、キリスト教会がローマ帝国を乗っ取っちゃったんですよね。

でも、甘くはありませんよ。匈奴、つまり、フン族が中央アジアで勢力を拡大し、東欧のゲルマン人たちを圧迫したため、375年には、ダキア地方、現ルーマニアからゲルマン人ゴート族がローマ帝国領内へ難民として流入。その扱いがひどかったため、378年には、反乱を起こして東正帝を殺害。ローマ帝国は、反撃しようにも、傭兵がゲルマン人だらけだから、どうにもならない。それで、テオドシウス帝(位379〜95)は、退役兵や地元民を召集して対抗しますが、最終的にはゴート族を同盟と認めてバルカン半島を割譲。それで、ローマ帝国は完全に中央に遮断されてしまいます。

J 分割統治ではなく、完全に分断された領域になってしまったわけですか。

こんな時代、北アフリカ、チュニジア、カルタゴ市の優秀なラテン語弁論術教師アウグスティヌス(354〜430)は、383年、ローマ市に出、さらに新興のミラノ市に迎えられますが、次から次へひっきりなしに女たちと関係を持たずにいられない、という、とにかく病的な性交依存症で、生活も破綻寸前。

ところが、387年、33歳のとき、「取りて読め」(トッレ・レゲー)という声を聞いて、たまたま近くにあった本を開くと、ちょうどそこに「肉欲を棄てよ」と書いてある。その本は、聖書。驚いて彼は、ミラノ市の強権的な司教アンブロジウスの下でキリスト教に入信。37歳、391年には北アフリカに戻り、カルタゴ市の西、150キロほどのアルジェリア、アンナバ市で司教になりました。

J ああ、ちょうどこのころ、ヒエロニムスが聖書のラテン語訳を進めていましたよね。

しかし、この後、ゴート族はバルカン半島からイタリア半島にも進撃。西ローマ皇帝は、首都ミラノ市を棄て、402年、いつでも海へ逃げられるアドリア海沿岸の湿地ラヴェンナ市へ避難。それを無視して、ゴート族は410年、ローマ略奪。もっとも、彼らは、この後、さらに西へ行って、415年、南フランスからイベリア半島の地中海側に西ゴート王国を建てる。

J 直接に巻き込まれたわけでないまでも、地中海対岸の騒乱は、アウグスティヌスにも、この世の終わりと思われたでしょうね。

でも、北アフリカ出のアウグスティヌスは、それまでの思想家や聖職者と違って、ヘレニズムの伝統に染まっておらず、新たなラテン文化の思想家、聖職者として、この激変を、文字通り対岸の火事として距離をおいて客観的に咀嚼する余裕がありました。

当時、この災厄は、伝統の神々を棄てさせたキリスト教のせいだ、と言われました。実際、ローマ略奪を行ったゴート族は、アリウス派ながら、たしかにキリスト教徒だったのです。これに対し、アウグスティヌスは、まずキリスト教の弁明、護教論から始める必要がありました。

ヘレニズム、とくにグノーティシズムやマニ教からすれば、世界は善悪の対立で説明されます。しかし、キリスト教では、絶対的な唯一神の下、悪や災厄を悪魔のせいにすることができません。このため、悪は、たんなる善の欠如や不足、それも、最終的な善の完成に至るまでの間の一時的なものにすぎない、というような、逃げの神義論が考え出されてきました。これに対し、アウグスティヌスは、神は悪を創らず、という大原則を守りつつ、人が悪を生む、それこそが人間の原罪だ、として、悪の根拠を積極的に提起します。

J だけど、その人間を創ったのは神でしょ。となると、やっぱり神が悪を創ったことにならないですか?

アウグスティヌスが問題にするのは、人間の自由です。神は、人間を神の似姿とし、神と同様の自由を与えた。そして、本来であれば、人間は、神と同様の節度で、その自由を楽しむべきだった。ところが、人間は、神を忘れて知恵の実を食べ、神が世界に与えた摂理の全貌も知らぬまま、度を超して自己判断で自由を貪り、悪や災厄を生み出すようになった。これこそが、人間存在の根本的な原罪だ、と言う。

彼による人間の悪の説明で重要なのは、それが、魂が善、肉体が悪、というような対立図式ではない、ということです。本来、魂が善であれば、肉体も善になりうる。ところが、自由を貪る魂の悪のせいで、肉体まで悪に陥っている。つまり、その悪の罪は、肉体ではなく、むしろ魂の問題であり、それに対する罰は、肉体の死ではなく、魂そのものの永遠の死が当然、ということになります。

J 罪を憎んで人を憎まず、じゃなくて、まさに人が罪を犯したのだから、その肉体ではなく、その人の魂こそが精神的に罰せられるべきだ、ということか。

いや、むしろ、人の魂のほうに罪があるだけで、自由を貪る悪しき魂に振り回されしまった肉体には罪はない。そして、強姦によろうと、不倫によろうと、生まれた子どもは健全。ただ、アウグスティヌスによれば、人間は、その魂からして社会的であり、したがって、自由を貪る魂の悪も社会全体で引き継がれる、とされます。

J まあ、すさんだ人々の中で生まれ育てば、すさんだ性格になる、というのは、なんとなくわかりますけれど。

したがって、すべての人間は、本来は、その魂からして自由を貪る原罪に汚れてしまっており、永遠の死という罰がふさわしい。ところが、神は、世界創造のときから、その一部を恩寵で救うことにしていたのだそうです。それが、アダムとイヴの子、カイン・アベル兄弟の、弟アベルの一族。

J つまり、たいした理由も無く、兄の一族のほうは見捨てられ、弟の一族は救われることに決められていたわけですね。

それで、とりあえずは、アブラハムと、それに従ったユダヤ人が「選民」とされました。しかし、イエスは、「神の国」は、目に見えるものではなく、最後の審判以前の現世ではむしろ「地の国」と混在する、と言います。「地の国」では、そのそれぞれの人々が自分の自由を際限無く貪ろうとして、たがいに悪や災厄に苛まれます。これに対し、「神の国」では、人々が回心し、神とともに幸福な自由を享受する。

J 回心って? 教会に入ること?

外から内へ魂の向きを変えることです。人間の魂は、その自由の貪りにおいて、その肉体とともに、外の物事を追ってしまう。しかし、魂そのものが回心することで、内の物事、つまり、神の与えた摂理、個々の使命を追うようになる。とはいえ、魂を内に向けても、神が与えた自分の使命なんていうものがわかるわけがない。そこで、ここでは、個人ごとに上からの神の恩寵が絶対的に必要になる。

上とは何か。彼によれば、神は時間を超越する存在であり、神において、すべての時刻が同時に存在する。神にとって、世界は、言わば一冊の本のようなもの。誰が何をするか、結末で誰が救われるかも、すべて決まっている。それは、しばしば「予定説」、プレデスティネイションと呼ばれますが、それは時間の流れの中に閉じ込められている人間から見ての話で、時間を超越している神からすれば、世界創造とともに、誰を救うかも、すべて決めてある、というだけ。

J え? その人が教会に入ったとか、善行に努めたとかは、救済と関係が無いということ?

いえ、「我を通らずには神に至らず」とイエスが言い、また、「教会の外に救い無し」とカルタゴ市のキプリアヌスが言ったように、アウグスティヌスにおいても、キリスト教を信じるのは、救いの大前提です。でも、キリスト教を信じただけで救われる、などということはありません。現に、ゲルマン人など、アリウス派キリスト教徒ですが、どうみても「地の国」で、自分たちの自由の貪りにのた打ち苦しみ、バルカン半島からイベリア半島まで、どこへどう転がって行っても「神の国」は築けない。まして、人が自分の善行で神の判断を変えて救われる、などというのは、論外。

でも、アウグスティヌスと同じ時代、ペラギウスという苦行修道僧が、人は善行によって救われる、という素朴な教説を語り、ローマ市で多くの信者を集めます。それどころか、410年のローマ略奪の後は、北アフリカのカルタゴ市に来て、いよいよ人気を得ていきます。それで、同じ北アフリカのアンナバ市司教だったアウグスティヌスは、原罪・入信・恩寵を強調することで、素朴なペラギウス説を論駁する必要がありました。

その後、ペラギウスは、彼の友人が司教を務めていたイェルサレム市に移り、さらに信望を集めます。しかし、ここには、アウグスティヌスの先輩で、聖書のラテン語翻訳を進めていたヒエロニムスもおり、両派はローマ司教を自分たちの側に引き込もうと、さかんに争います。

J アウグスティヌスが神学から神の無条件判断を説くのはわかるけれど、それだと、教会や善行を否定することにもなりかねないし、ローマ教皇や、聖母マリアなどの執り成しも怪しくなりません?

そうなんですよ。それで、歴代の教皇も態度を決めかねた。おまけにこのころ、神の三位一体や神の無条件判断に加えて、イエスの神人二性も問題になっていました。アレキサンドリア市総司教のキュリロス(374〜444)は、単性説で、神性、つまり神のロゴスが受肉して受難した、と主張していました。これに対し、アンティオキア市のネストリウス(c381〜c451)は、神性は受難しえない、したがって、イエスは神性と人性で完全独立の二位格を持っていた、としました。

418年のカルタゴ会議で、アウグスティヌス派がペラギウス派を否定。しかし、20年にヒエロニムスが死去。28年にネストリウスが東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル大主教になるに至って、論争はいよいよ混迷。30年にアウグスティヌスも亡くなりますが、同年、カルタゴ市を含む地中海中央部がゲルマン人ヴァンダル族に征服されてしまいます。

この国家的危機に、東西の皇帝は、31年、小アジアのエフェソス市で公会議を開いて、国教のキリスト教統一を図ります。ところが、単性説のキュリロス派が暴力的な修道士たちを総動員して会場を占拠し、一方的に二位格説のネストリウス派を異端として、ネストリウス本人も大主教の座から引きずり下ろしてしまいました。こうして、アウグスティヌス派やキュリロス派が正統、ペラギウス派やネストリウス派は異端ということになりましたが、こんな力づくのインチキ会議など知るか、ということで、アリウス派同様、ペラギウス派、ネストリウス派も、根強く世界に広まっていきます。

J もうヤクザの争いですね。隣人はもちろん敵をも愛せと言ったイエスの教えなんて、ほんと、どこへ行っちゃったんだか。

この間にも、中央アジアから来たフン族はさらに西進して、ドナウ地方を征服。東ローマ帝国は、これに貢納を払って押しとどめ、すでにヴァンダル族に地中海を奪われていた西ローマ帝国は、むしろフン族を傭兵にしてゲルマン人との戦争に利用しました。

しかし、434年、アッティラ(位434〜53)がフン族の王になると、協定を破って東ローマのバルカン半島を荒らし回り、西のガリアにも侵入。このため、西ローマは、こんどは逆にゲルマン人の西ゴート族などと組んで、防戦。しかし、戦才も人望も無い西ローマ皇帝は、ラヴェンナ市にあって、逃げ回るばかり。西ローマ帝国は、ローマ教皇レオ一世(位440〜61)が差配せざるをえません。

J もともと、愛人を弟の西ローマ皇帝に殺された実姉が、復讐を企んで、指輪をアッティラ王に送って求婚したとかいうのが、ことの発端なんでしょ。それが、『ニーベルンゲンの歌』っていう伝説になったって聞いてますよ。

451年、かろうじて西ローマ・西ゴート連合軍がガリアでフン族を一敗させた直後の同年秋、フン族に対する国内結束のために、東ローマ皇帝は、小アジアのカルケドン市で公会議を開き、コンスタンティノープル総主教アナトリオスを議長とし、ローマ教皇レオ一世の書簡を読み上げることで、イエスの二性一位格を確認し、二位格説のアンティオキア市ネストリウス派はもちろん、単性説のアレキサンドリア市キュリロス派も異端として排除し、東方での宗教的統一を図ります。

J ややこしい神学はわからないけれど、ようするに西ローマ帝国の実質的代表、ローマ教皇の裏書きで、東ローマ帝国首都のコンスタンティノープル総主教が、アンティオキア大司教やアレキサンドリア大司教を抑えて、東方の宗教的主導権を確立した、ということですね。

翌52年、フン王アッティラは、いよいよイタリア半島に南下。皇帝のいる首都ラヴェンナ市に迫ると、ローマ教皇レオ一世が出向き、直接交渉に当たって、どういう密約を買わしたのか、とにかく連中を平和的に退去させることに成功しました。この後、アッティラは、再度、東のコンスタンティノープル市攻略をめざしますが、族内に疫病が蔓延し、本人も病死してしまいました。なんにしても、この和平交渉の成功で、西ローマにおいても、ローマ教皇の主導権が確立されます。