純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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アルルカンのパレード

オカルト、などと言うと、すぐ変な連中が飛びついてくるので困る。連中は、それを、アホな実利的黒魔術かなにかだと思っている。だが、この分野は、文字以前のイメージの文化を読み解くものであり、教養浅はかでは歯がたつようなものではない。

で、ミッキーマウスだ。どのディズニーランドでも、パレードをやる。昼も、夜も、やたらやる。その先頭にミッキーマウスがいる。このパターンは、しかし、ルネッサンス以来の、それどころか、古代ギリシアからの伝統。

日本語で「百鬼夜行」というが、ヨーロッパにも、それがある。地獄の門が開く晩。5月1日、6月23日夏至、8月15日、11月1日(万聖節前夜のハロウィン)、12月25日、1月1日、そして、2月末のカーニヴァル。いずれもその前日の日没から、季節不詳となり、これらの晩には、ろくでもないものが街中を徘徊する。

その先頭に立つのが、黒いアルルカン。地獄の使者だ。錫杖をもって、派手なつぎはぎの服を着ている。後ろには山車が続く。棺桶の上に赤ん坊たちが乗っている、というのが、もっとも象徴的なスタイルだ。

興味深いことに、中国や日本にも、きわめて似た習俗がある。旧正月の鬼払いや、真夏の盆踊り、秋のだんじりなどがそうだ。これらの行事とはかならずしも重ならないが、土用というのも、季節を持たない日とされ、各季節の直前の18日間、つまり年4回ある。そして、土用は、地蔵菩薩の日とされる。


アルルカンとパンドーラ

プッサンの『アルカディアの牧童』を『ダヴィンチ・コード』の元ネタになった『レンヌ・ル・シャトーの謎』は、そのアナグラムから、宝探しの地図かなにかと思っているが、アルカディアがヘルメスの地であり、牧童は、その父ゼウスの仮の姿であることを知らないようでは、プッサンの謎など解けるわけがない。

この手の謎解きを理論化したイコノロジーの祖、パノフスキーは、『パンドラの箱』において、十八世紀の散文劇を引き、ゼウス、パンドーラ、ヘルメス=アルルカンの関係を論じている。一方、バフチンは十三世紀の『五月木の芝居』からアルルカンとドゥースの結婚におけるカーニヴァル的な倒錯を論じた。さらに、十六世紀の『アルルカンの物語』では、その冥界下りが語られる。

クロック・ソット=ファルスタッフ=パルジヴァル=パンタグリュエル、ドン・ジョヴァンニやメフィスト・フェレスも、みな物語として親族関係にある。アンドレーエの『化学の結婚』もそうだ。さらには、『魔笛』でパパゲーノに対し、パパゲーナが、当初、老婆の姿で現れてくるのも、それがアルルカンとパンドーラであることを示している。だいいち、パパげーノが持っているのは、ヘルメスが発明したというシューリンクスの笛(パーンの笛、パーンはヘルメスの子)そのものだ。

この問題は、キリスト教の根本のところに触れる。だから、オカルトだ。イエス本人ないしその解釈者のパウロが、ユダヤ教とは異なる、もっと古い信仰を下敷きにしていた可能性に関わる。最近、それはエジプト教だ、などという本も出ているが、エジプトはもちろん、ギリシアや、オリエントをも含む、かなり広い領域に、ある神話が成立していたことが知られている。


蛇と両義性

「妖精の女王」ドゥースこと、売春宿のやり手婆カルディーヌ=パンドーラ(すべてを与えられし女)は、地母神であり、一方、アルルカン=ヘルメス=オルフェウス=デュオニソスは、植物神とされる。後者は捨てられて地に撒かれてこそ復活する。この死と再生の神話は、全世界的な広がりを持つ。

アルルカンは、脱皮して若返る蛇に象徴される。その末裔のアルレッキーノがつぎはぎの服を着、また、先に挙げたパパげーノが緑の羽に覆われているのも、蛇のウロコの痕跡を示している。そして、蛇としてのアルルカンは、ときに太いツタとなり、唐草模様や、さらには建物に絡まるグリーンマンとなる。

また、その死と再生の両義的な性格は、笑いや陶酔の倒錯と一体となり、両性具有として現れる。とくに、白でもあり黒でもある月女神ディアーナに化けることが多い。ヘルメスにおいては、この両義性は、二匹の蛇になる。また、東洋では、地蔵は、男性的な騎獅の文殊菩薩と女性的な乗象の普賢菩薩の関係に展開する。両者は、地母的な釈迦如来の脇侍だ。

問題は、地母神に抱かれた植物神で、この手の母子神像が世界のあちこちにあるということだ。つまり、聖母マリア像だの、慈母観音像だのより、はるかに古い。そして、慈母観音像を聖母マリア像だというのであれば、聖母マリア像は、地母神像だ、とも言うべきだ。そして、まさにその地母神信仰こそ、本来の「ミステリ」の語源にほかならない。


植物神としてのイエス

メイソンリーの中核にあるのは、ヒラム神話だ。しかし、それもまた、植物神の問題に行き着く。石工は、当時、一般に青銅のクサビを用いて、石材を加工した。ところが、ツロのヒラムは、古代エジプト以来の、大量の木材を用いて超巨大石材を加工する錬金術的な技法を知っていた。が、誰にも教えない。それで殺された。しかし、その神話自体が、その技術の秘密を明かすものとなっている。

そしてまた、キリスト教においても、イエスは、自覚的に植物神の死と再生の物語を演じた、ないし、パウロが、イエスはそれを演じた、と解釈した。聖書にも、イエス自身の言葉として、種を蒔く人のたとえだの、毒麦のたとえだのが出てくる。しかし、このことをその中核の人々はよく知っていながら、この先行信仰の問題は、その後のキリスト教において深く隠された。というのも、この問題は、地母神としての母マリアないしマグダラのマリアの、教団内での地位に関わるものであったためだ。

物理的に種を蒔いた、だからマリアの子はイエスの子孫だ、などというのは、論外な話だ。むしろイエスが植物神をみずから体現していたのであれば、むしろ陰に陽に、そこには両性具有的なニュアンスを伴っていたと考える方が妥当だ。


発酵のコントロール

石工のメイソンリーが麦のビール発酵をテーマとするジョン・バリーコーンの物語にヒラム神話を隠したように、イエスの話の中心に発酵がある。ワインとパン、は、私の血と肉、と言うが、そのワインやパンは、かなり特殊なものだ。

カシュルート(食事規定)によれば、ワインは、異教徒が触れたものであってはならない。ロスチャイルドが自分たちでワイン畑を買い取ったのも、こういう事情からだ。そもそも、ワインといえば、当時、赤に決まっており、それも発酵止めの方法を知らなかったから、底抜けの辛口で、オリーブオイルで割って飲むようなものだった。ところが、ユダヤのコーシャ・ワインは、本来、ドロ甘だ。熱処理して酵母を殺菌し、発酵を止めるのだ。そのくせ、ボトルを開けっ放しだから、酸化しまくっている。

パンも、過越祭のものは酵母を使ってはならない。たてまえでは、出エジプトのとき、発酵させている暇がなかったから、ということだが、過越祭の後、一週間の除酵祭(ペサハ)が続く。ここにおいては、パンだけでなく、家中の古い酵母を一掃しなければならない。これは、酢酸菌や乳酸菌などの雑菌の混入を防ぐ農耕文化を起源とするもので、出エジプトのイスラエル人とは関係ない。

いずれにせよ、家具大工の息子イエスが、やたらこの酵母の問題にこだわり、酵母そのものから除菌してしまえ、と訴える。彼に言わせれば、酵母は悪しき不純物であり、人を高慢にふくらます、と。もちろんその根の一端は、たしかにユダヤ教にあるのだが、イエスの奇蹟には、水をワインに換えた、とか、パンを数千人に分けた、とか、バッカス的な発酵技術のにおいがする。


ミッキーマウスとハロウィン

『魔笛』において、アルルカンは、緑のパパゲーノになるが、その黒い面は、モノスタトスに引き継がれる。また、ヨーロッパにおいて、煙突掃除人、葬儀屋、大工、などは、黒い服に決まっている。そして、この世とあの世の間の仕事として、差別と畏怖の微妙な関係に置かれていた。だいいち、サンタクロースだって、もともとは真っ黒だ。緑のグリンチやシュレック、白黒のビートルジュースやキャット・イン・ザ・ハット、ジャック・オランタンも、彼らの末裔に位置づけられる。

ミッキーマウスも例外ではない。黒いネズミは、南部ミンストレルショーのように、白い手袋とどた靴をはかされて、アルルカンよろしく、いたずらのし放題だった。その後、妙な優等生になったが、それで出自が変わるわけではない。(それにしても、ネズミに飼われる白い犬のプルートとネズミの友人の黒い犬のグーフィの関係はどうなっているのだろう。グーフィがプルートを散歩に連れて行ったりもするのだろうか。)

とくに問題なのは、ハロウィンだ。たしかに万聖節というのは、カトリックの中にある。というか、聖人を持たない新教にはない。それで、本来、11月2日の死者の日が繰り上がった。さらに言えば、東方教会やポルトガルでは5月1日の前後になる。いずれにせよ、その元は、ラミュレスと呼ばれる古い古い、妖精の女王である地母神と死者たちの祭。

なんにしても、こんなものは、せいぜいお彼岸のような墓参りの日というだけで、ヨーロッパでは、ほとんど廃れていた。ところが、ディズニーがマンガでがんがんとハロウィンを広めた。ディズニーは、新教国アメリカに、なぜこんなイベントを広めたのだろう。


メイソンロッジ「ドモレイ」

『ダヴィンチ・コード』の主人公は、ミッキーマウス時計を使っていて、ディズニーは聖杯伝説に関係がある、作品にやたら薔薇が出てくる、と言う。しかし、どの程度わかって言っているのやら。

ウォルト・ディズニーの一家は、アイルランド系カトリックだった。しかし、彼は、終生、教会には通っていない。彼にとっては当然だったハロウィーンは、カトリックの万聖節というより、キリスト教より古いアイルランドの土俗的な妖精祭のものだ。ディズニーが自社の作品からいっさいの宗教色を排除させたこともよく知られており、たとえば、イタリアのピノキオですら、神に祈らず、星に祈ったりする。そんな彼が、雑多なスタッフによって作られる自分の作品に、聖杯伝説など描き込むわけがない。

ディズニーの信仰は、カトリックのものではなく、メイソンリーのものだ。それは、すべての信仰を尊重するとともに、共産主義のような無神論を徹底して排除する。彼の会社の内部における労働組合との熾烈な闘争も、彼のこのメイソンリー信仰に基づく。

彼の父は新聞配達業をしており、彼自身も、列車内販売のアルバイトをしていた。これらの関係で、彼は、カンサスシティのロッジ「ドモレイ」に入る。いちおう国際的メイソンリーのひとつ、ということになっているが、もともとはミズーリ州の青年会のようなもので、正会員でいられるのは21歳まで。とはいえ、その後は、たしかに全米に散っていって、郷土人会として機能している。

第一次世界大戦中に作られたために、先行するボーイスカウトや、後のヒットラーユーゲントに似て、国粋主義的教育団体としての色合いが強い。このことは、宗教はもちろん、国籍も問わない本来のメイソンリーとは、決定的に異なっている。


名誉メイソンのミッキー

おもしろいことに、このドモレイ出のウォルト・ディズニーは、彼の作ったミッキーマウスを、自分の息子のように、このロッジに入れようとし、ロッジはミッキーマウスを名誉会員にすることにした。したがって、ミッキーマウス自体が名誉メイソン、というわけだ。

このころから、ミッキーマウスは、かつての手に負えないいたずらっ子から、学級委員長のような、みんなのまとめ役へと変わる。そして、国際親善で海外に行くときも、ミッキーマウスは、当然、この「ドモレイ」の肩書を内々に使っただろう。

とはいえ、メイソンというのは、べつにオバカな陰謀論者が騒ぎ立てるような悪の組織でもなく、一枚岩でもない。それどころか、そこには、メイソンリー同士のややこしい対立関係が複雑に絡み合っている。そうでなかったら、独立戦争だの、南北戦争だの起きたりしなかった。

そして、ミッキーマウス、というか、ウォルト・ディズニー、そして、ディズニー全体の「無国籍風」の思想が問題なのは、それがかならずしも真の無国籍ではなく、かなり特異な「ドモレイ」というメイソンロッジのもの、アルルカンの死と再生の物語をつねに隠している、ということだ。

そのうえ、ウォルト・ディズニーは、労働組合と対抗するため、当初、ディズニーランドの従業員で、「ディズニーランド・メイソニック・クラブ」を組織させていた。また、これとは別に、他のロッジの高位者接待用に「33クラブ」を作った。しかし、これは、いまやディズニーランドのスポンサーに開放されているが。


ブードゥ教とドルイド教

ウォルト・ディズニーに先行するマーク・トウェインを読むと、当時の中西部が、人口的には黒人の方が圧倒的に多く、その独自の文化が、支配側の白人にも強い影響を与えていたことが知られる。とにかく彼らはみな迷信や霊視を好んだ。『ハックルベリー・フィンの冒険』でも、黒人ジムはどっぷりオカルト的で、ハックもそれに引っ張られて、冒険に振り回されることになる。

それはいわゆるブードゥ教だ。このブードゥ教というのは、純粋にアフリカ的な呪術ではなく、カリブ海と中西部アメリカで熟成したもので、キリスト教とも親和性がある。この根底にあるのは、精霊的な多神教の世界観で、教義らしいものがあるわけではない。

このブードゥ教は、ディズニー家の出身地であるアイルランドのドルイド教の精霊的世界観と、同根であったのではないかと見まがうくらい似ている。実際、ジャガイモ飢饉で食い詰めてアメリカにやってきた内陸中西部の貧農アイルランド人の信仰と、西アフリカからカリブ海経由でやってきた黒人奴隷の信仰とが、ここで融合する。

ジャック・オ・ランタンも、もともとはアイルランドの煉獄(地獄の手前)をさまよう男ウィルのカブのランタンの話だが、これは、ブードゥ教のゲーデと呼ばれる死神の話と一体化しており、あのカボチャの頭は、まさにブードゥ教の儀式で用いられるもので、生者と死者の間を仲介する。そして、ゲーデは、ブギーマンとして、もともとまさにハロウィンを担当する精霊なのだ。

話をまとめると、アメリカの中でも、ハロウィンは、もともとかなり特殊な文化に発している。すなわち、キリスト教の彼岸観に、アイルランド的ドルイド教と黒人奴隷的ブードゥ教がくっついたもの。これは、内陸中西部でこそ生まれたものであり、まさにそこにウォルト・ディズニーと彼の仲間である「ドモレイ」たちは育った。

しかし、彼らは、自分たちのその文化が特殊であることを知らなかった。そして、アニメや遊園地で、これを全米に、そして全世界に広めることになった。それは、「ドモレイ」たちの郷愁であり、子供たちが近所の大人たちとふれ合う、古き良きアメリカの、小さなコミュニティを象徴する祭りだ。


『悪魔は涙を流さない カトリックマフィアVSフリーメイソン: 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだ パーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』