純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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/よく西欧の歴史観は、天地創造から最後の審判まで直線的だ、などと言われるが、じつは、エデンの園に始まり、エデンの園に終わる、きれいな歴史の円環になっている。/

キリスト教国教化とともに、397年、第三回カルタゴ教会会議で、諸教会の文章のうち、事実かどうかはともかく、伝承として使徒に基づくとされる初期のもの、27編がまとめられ、『新約聖書』とされます。最初の数百年の間に、ほっておくと、あちこちの司教がかってなことを言い出すのがわかってきたので、教義の正統性は、これらのいずれかの聖書文章に根拠を持ち、かつ、他のいずれの文章にも矛盾抵触しない、という典拠主義が採られ、ここにキリスト教の神学が成り立ってきます。

J どこかのネット事典みたいですね。でも、歴史を経てきた『旧約聖書』ですらその後もずっと切り貼りみたいなままだったのに、『新約聖書』は、わずか百年くらいの間にあちこちの教会でばらばらにできた文章の寄せ集めなんだから、その中でもうすでに矛盾抵触したりしてしまっているんじゃないんですか?

そこをどうにか切り抜け、うまくこじつけて、ぜんぶ丸く収めるのが、神学者たちの腕の見せどころ。とはいえ、政治的な権力争いも絡み、延々と神学論争が展開したんですよ。それで、イエスの教えに従って行動することより、イエスとは何だったのか、信じ思うことのほうに重点が置かれることになったのです。

J で、結局、キリスト教って、どんなことを信じているですか?

まず、神ですが、キリスト教以前のユダヤ教からして、アブラハムの神とモーゼの神の二つが接ぎ木されています。カナンの山の神、エルシャッダイは、紀元前1800年ころ、アブラハム族がカナン地方に住み着いたときに帰依したもの。これに対し、シナイ半島のホレブ山の神、ヤハウェは、紀元前1350年ころ、モーゼが使命を受けたものです。そして、モーゼがエジプトから救出したヨセフ族がもともとアブラハム族と同じヘブライ人で、カナン地方に合流したことで、ヤハウェはもともとアブラハムの神、エルシャッダイだった、として、一つにまとめられます。

また、エルシャッダイにしても、ヤハウェにしても、当初はよくある地元の山の神だったのですが、ユダヤ教になることで、ユダヤ人を選民として保護する神となり、また、そのユダヤ人がバビロン捕囚の後に世界に散ることにおいて、また、キリスト教が人種を問わない普遍宗教となることにおいて、いつでもどこでもいる普遍神としての性格を強めます。その根拠となったのが、旧約聖書におけるモーゼの問いに対する神の答えです。

すなわち、モーゼの前に神が現れたとき、名を問うと、神は、エヒイェ・アシェル・エヒイェと答えました。最初に、先祖の神だ、と言っているのに、モーゼがしつこく名まで聞くから、神は、私は私だ、と言った、と取るのが、ふつうでしょう。ところが、その前に「私はかならずあなたと共に在る」とも言っており、また、『黙示録』の「在りて、在りし、来たる方」という神の表現からも、である、の方を重視して、我は在りて在らん者だ、という解釈を生じ、これがヘレニズムの存在論とも結びついて、キリスト教では、神は存在を本質とする、という、ひどく難解な話になっていきます。

J あー、めんどくさそう。

ただし、神は存在であっても、ヘレニズム哲学に出てくる存在のような世界そのものとは異なります。というのも、こんどは、この存在神を、『創世記』の、神は創造主である、という、まったく別の定義と結びつけなければならなかったからです。それで、存在する神によって、無から被造物としての世界が創造され、存在させられている、というように、存在する創造神と、存在させられている被造物の世界とは、絶対に越えられない区別がある、とされます。

J ほほう、世界は存在させられているだけで、ほんとうの意味では存在していない、と。

『創世記』によれば、第一日目に、神は天と地を創り、光あれ、と言って、昼と夜を成します。第二日目、神は天を造り、水を上下にに分けます。第三日目、下の水を海に集め、乾いた陸を現し、草や木を生えさせます。第四日目、太陽と月、星々を造ります。第五日目、魚と鳥を造ります。第六日目、地の生き物を造ります。また、「神の似姿」、イマーゴ・デイとして人を造り、地を従わせ治めよ、と祝福し、草と木を食物として与えます。そして、第七日目、神は休み、この日を聖別します。

J なんかでっかい鉄道模型を作って、最後に自分に似たちっちゃい人形を中に飾ってみた、っていうような感じですかね。

でも、これが『ヨハネ伝』だと、すこしニュアンスが違ってきます。すなわち、『創世記』や『黙示録』だと神=存在ですが、『ヨハネ伝』の冒頭では、神=ロゴス、とされます。以前にお話したように、ロゴスは、静止均衡の理性、ヌースと違って、自己展開するエネルギッシュでダイナミックな語りです。そして、世界もまたロゴスによって創られた、とされます。したがって、『創世記』の創世神話も、神は最初から世界を完成させたのではなく、世界ができていくようにすべてを設定しただけで、だからこそ第七日目を休まれ、その完成を待った、ということになります。この神の世界設定を「摂理」、プロウィデンティアと言います。

J つまり、それぞれのものにプログラミングして、あとは自動生成するようにしておいた、ということですね。となると、人間も、ただできた世界にいるだけじゃなくて、神の似姿として積極的に世界の完成に向けて貢献しないといけないんでしょうね。

しかし、『創世記』では、この創世神話の後に、別由来の文章、失楽園神話がつなげられます。神は、東にエデンの園を設け、ここに、土のちりから造って命の息を吹き入れた男を置き、ここを耕し守らせた。そして、この直前の創世神話と違って、これより後に、神は土から獣や鳥を造りますが、男の助手としてふさわしいものがいなかったので、あらためて男のあばら骨を取って、それで女を造ります。

J あばら骨で女を作るって、どういうことなんでしょうね? 男の人って、女の人よりあばら骨が足りない? 頭のネジのまちがいじゃないかな。

このエデンの園の中央には、善悪知の木と永遠命の木が生えており、蛇に唆されて、善悪知の木の実を女が食べ、女は男にも与えた。すると、裸が恥ずかしくなり、イチジクの葉を腰に巻き、木の間に身を隠した。神は、女に産みの苦しみを、男に耕作の苦しみを呪い、神のように善悪を語るだけでなく、永遠命の木の実まで食べて不老不死の神のようになったしないよう、エデンの園を追い出した。

この後、アダムとイヴからカインとアベルの兄弟が生まれ、神にカインは農作物を、アベルは放牧羊を捧げると、神はカインと農作物を無視したので、カインはアベルを殺してしまい、永遠の放浪者として呪われます。また、さらに弟のセツが生まれ、この家系がその後の物語を引き継ぎます。

J あれ? セツはだれと結婚したんでしょう?

なんにしても、セツの九代目がノアで、これが大洪水に遭い、セム、ハム、ヤペテの兄弟のうち、ノアの裸を見たハムの子孫、つまりユダヤ人は、セムやヤペテの子孫の奴隷になる呪いをかけられ、セムが東方、ハムが南方、ヤペテが北方の諸民族の祖となったとされます。また、セムから十代目がアブラハムに当たるとされます。また、この系図とつながり無く、セムの東方でバベルの塔の建設と神による言葉の混乱、人々の離散が起こった話が語られます。

J それで、アブラハムがカナンに移って、その一部がエジプトで奴隷になって、それをモーゼが救い出して、またカナンで合流、という話でしたね。それから、神を王とするユダヤ人になって、でも、世俗のバビロニアだの、ローマだのに支配され、そこにイエス事件。

重要なのは、キリスト教として、無抵抗に処刑されたイエスの「救済」とやらが「贖罪」として説明されたことです。すなわち、イエス自身は、無実にもかかわらず、他の人々の罪をかぶり、代わりにその罪を贖った、これによって我々は救われた、と信じるのが、キリスト教です。

J でも、何の罪なんですか?

ユダヤ教でも、神の律法を不十分にしか守っていないのせいで苦難に追いやられている、という発想は、古代にはありましたが、預言者エゼキエルなどは、バビロン捕囚で国が滅ぼされて、その罪も清められた、としています。一方、キリスト教の西方合同教会、つまりカトリック派は、イエスの贖罪に対応させて、原初のアダムとイヴの罪、原罪がすべての人間に及んでいる、と考えています。

J そんなの、遠い昔のアダムとイヴがやったことで、なんでその後の人間すべてがその罪を負っているってなるんですか?

とにかくまずイエスの贖罪があっての後付けだから、なんの罪なんだか、教会の中でも話がまとまっていないんです。エイレナイオスは、アダムは人間の代表、だから、その罪はみんなの罪、とし、テルトゥリアヌスは、アダムから罪を相続した、と言い、また、アレクサンドリアのクレメンスは、すべての人間は事実として罪を犯す、とします。

本人が病的な性交依存症だったアウグスティヌスに至っては、性交だ、性交は罪なんだ、すべての人間は罪から生まれるのだ、などと言い、神から特別な恩寵を与えられないかぎり、人間に罪を犯さない、つまり性欲に溺れない自由など無い、とします。一方、アウグスティヌスの恩寵主義に批判的だった同時代のペラギウスは、神は人を善なるものとして創った、アダムの罪はアダムの罪、むしろイエスを範として自由意志で罪を避け、徳を積め、と説きますが、これは異端とされてしまいました。

結局、カトリックは、原罪を、神に背くこと、などという、ざっくりした一般論で煙に巻くことに。これに対し、プロテスタント、とくにカルヴァン派は、全的堕落、すなわち、全人類が全人格で罪に陥り、みずからは救いに至る意思能力を失っている、だが、神は特定の人々の救いを予定し、イエスはその選ばれた人々の罪のみを贖った、として、新たな選民主義を主張します。

J なんかよくわかんないなぁ。

失楽園神話を素直に読むなら、アダムとイヴの罪は、善悪知の木の実を食べたことです。それで、人間は、神の摂理の全体像を知らないくせに、知ったかぶりで神のようになんでもすぐ善悪を決めつけたがるようになった。

J まあ、それなら、たしかに人間すべてが引き継いでいる罪かもしれませんね。ようするに、自分のパート譜しか知らないのに、オーケストラの指揮者のように振る舞う罪ですよね。でも、だったら、なんで人は原罪に落ちたんでしょう? 神さまの摂理の失敗?

この世に悪があることの神の正しさを弁明する神学分野を「神義論」、テオディシーと言います。エイレナイオスは、悪と思えるものもまた摂理全体では意味がある、としたのに対し、アウグスティヌスは、神は悪を創らず、ただ人間の自由意志濫用の罪に対する罰である、として、悪を説明します。

J だけどさ、自由意志を濫用するやつが悪なのに、なんでその罪も無い人がそんな悪人にひどい目に遭わされるわけ? それ、罰になってないですよ。

いや、それを言い出せば、それは、なんの罪も無い人が事故や病気、災害に遭うのか、という問題にもなります。旧約聖書には『ヨブ記』という神話があって、神がヨブの信心を褒めると、悪魔が、そりゃあんたがやつを良くしてやっているからだ、とからかって、試しにちょっとオレがやつの家族も財産も失わせ、病気にして苦しませてみるぜ、などという、むちゃくちゃな話。それでも、ヨブは、生まれたときは何も無かった、主は与え、主は奪う、それだけのことだ、として、信心を失わない。

ところが、その続きを別のだれかが書いたようで、さすがのヨブも試練をグチり始め、友人たちと議論になる。ヨブは自分の無実を訴えるが、友人たちは、いや、おまえ、ぜったいなにかやらかしたんだよ、とっとと思い出してさっさと神さまに謝っちまえよ、と責め立てる。これに対し、ヨブは、自分に覚えのないことまで罪だと言われてもたまらん、と反論。だが、友人たちは、以前に裕福だったのだって、それは貧しき人々の得るべきものを奪っていただけではないか、そういう罪の自覚がないのがまさに罪だ、などと言い出す。

すると、最後には神自身が登場。ヨブに対し、おまえ、おれがおまえを不幸にしたとでも言うのか、と絡む。ヨブは、めっそうもございません、と悔い改める。また、友人たちに対しても、ようもまあおまえらも知ったかぶりして、あれこれ語ってくれてたよなぁ、と怒るので、ヨブが、まあまあ、と執り成し、それで友人たちも許された。で、最後は、ヨブの財産は倍増、新しい家族もできて、140歳まで長生きした、とか。

J 変な話。

ここで注目すべきは、事故や病気、災害は、その個人に対する罰ではない、ということです。原罪は、もっと大きな、神の本来の摂理を離れてしまった、という、人類全体、世界全体が負っている問題。なんにしても、七日目に完成するはずだった世界の摂理は、悪魔のちょっかいだか、どこぞの人間の自由意志の濫用だか、善悪知の知ったかぶりだかで、ちぐはぐになって、あちこちがガタガタに。それで起きるのが、事故や病気、災害。

J ああ、神さまは、そういう悪いものは創ってないんですもんね。あれ、でも、大洪水だとか、硫黄と火だとか、そういうの、神さまの仕業じゃなかったでしたっけ?

いや、それは、まあ外科的な荒療治ということなんでしょ。内科的にも、律法だの預言者だので、人間が神に向き直るように導こうとしたりもしてますよ。でも、それでも、いったん狂って予定を外れてしまった世界の摂理は、どうにもならない。それで、仕方なく、神自身がイエスとなって、この世に降り、世の罪をぜんぶ背負って磔刑で贖った、とされます。

J 世界創造シミュレーションゲームで、後はこのままでうまくいくようにセットして、サルにコントローラを持たせておいたら、かってによけいなことをやらかして、世界をぐっちゃぐっちゃにしちゃったから、それで自分がサルのアカウントでログインして、トラブルをごっそり片付けた、っていうことかな。

しかし、イエスの贖罪だって、じつは世界の摂理の完全修復じゃないんです。この後、人間がイエスの教えに従い、神の方に向き直って、本来のすべきことをしてこそ、世界の摂理も持ち直すんで、そうでないと、人間はあいかわらずまたデタラメをやって、世界もまたいかれてしまう。

つまり、イエスの降臨も、神に背く原罪からの回心、心を向き変えることの最後のチャンスにすぎません。自分の自由意志で回心できるか、それとも、あらかじめ誰が回心するか神に決められているのかはともかく、この後、神は、救われる者と、罰せられる者と、個人個人を仕分けすることになります。

J いわゆる「最後の審判」ですね。

その前に、とりあえず死んだところで、ざっくり天国か、地獄かに、分けられます。ただ、キリスト教は、基本的にすべての人間に原罪があるとしているから、そうそうかんたんに天国に入れず、たいてい地獄に墜ちる。ほっておくと、最後の審判まで苦しみ続けることになる。それで、イエスが地獄に降りて、善人を救い出す、ということになりました。東方教会では、その後も、この考えを信奉しています。

一方、カトリックでは、「マタイ伝」で、ペトロがイエスから天国の鍵を授かった、とされていることから、これに続くローマ教皇が、イエスの代理人として天国行きを推薦できることになります。しかし、破門されて地獄に直行の悪人はともかく、ふつうの人も、みな原罪の一端を負っているから、死ぬと、地獄でないまでも、煉獄、プーガトリウムで苦罰を受け、罪を清めないといけない。それで、生きているうちに、また、すでに煉獄に墜ちている亡き人のために、天国に行けるよう、つねに教会に執り成しを祈ることになります。それが、洗礼・堅信・聖餐・告解・終油・叙階・婚姻の七つの秘蹟、サクラメント。さもなければ、キプリアヌスの言うように「教会の外に救い無し」として、煉獄墜ち確実。

J つまり、カトリック教会は、わけのわからない原罪と煉獄で脅して、信仰を勧めたわけですね。

でも、ローマ教皇権を認めない東方教会などでは、むしろ母マリアにイエスへの執り成しを願うことが広まります。当初、マチズム(男権主義)のパウロなどは、母マリアの完全無視を決め込んでいるのですが、なにしろ母マリアは、神に直接に選ばれ、処女懐胎どころか、生まれながらに無原罪という、歴代のローマ教皇以上の唯一無二の超特別な人間で、この世を去ってすでに直接に天国に引き上げられていることになっていますから、執り成しを頼むなら、教会よりも母マリア、となるのも当然。だから、カトリックもこれを認めざるをえず、西方でもマリア崇敬が広まっていきます。

J もともと植物的な地母神信仰の発展形だから、地獄や煉獄からの再生なら、母マリアの方が本家本元でしょうね。

じつはほかに、辺獄、リンブスというのもあるんですよ。死んで、天国に昇るでも、煉獄に墜ちるでもなく、未決囚みたいなのの溜まり場。聖書でも、教義でも、位置づけがはっきりしませんが、きちんと煉獄に繋がれていなくて、ときどき地上にぷらぷら出てきてしまう亡霊みたいなのは、この辺獄の連中ということのようです。

J ま、なんにしても、最後の審判で、ぜんぶ仕分けされるんですよね。

とはいえ、これも、けっこう段取りが冗長で面倒なんですよ。この究極のリセット方法は、以前から巻物に七つの封印で閉じられていたのですが、イエスが昇天したことで、ようやくこれを開けるようになったのです。

J 大統領しか押せない最終核兵器の発射ボタンみたいですね。

で、イエスがその封印を解くと、第一に白馬の支配騎士、第二に赤馬の戦争騎士、第三に黒馬の飢饉騎士、第四に青馬の疫病騎士が現れ、第五で復讐を求める殉教者たち、第六で天変地異、そして、四隅の天使たちに守られて信者たちが第七の祈りを捧げる。次に、七人の天使のラッパ。第一で火雨、第二で火山、第三で隕石、第四で暗天、第五で機械獣、第六で戦車隊、そして、第七で契約の箱。

J なんかSFっぽいなぁ。

まだまだ。この後、天で悪魔が天使ミカエルと戦って、地上に落とされますが、それが三年半に渡って地上を支配。しかし、天から鎌が投げ入れられ、神の怒りの七つの鉢を地上に。そして、ハルマゲドンの地で、悪魔に仕える地上の王たち、大淫婦のバビロンを滅ぼす。この勝利の後、小羊の婚礼の祝宴。

J まあ、結婚式でハッピーエンドというのは定番でしょうけれど、それ、誰と誰の婚礼ですか?

イエスと教会ですよ。ここから、教会は、ハルマゲドン後のイエスの花嫁とされ、キリスト教では、聖職者はもちろん信者に至るまで、将来のイエスと教会の結婚に備えて、徹底して処女性が求められることになり、ユダヤ教の律法にもなかったような厳しい性色嫌悪、エロフォビアが蔓延するんです。なんにしても、ここにおいて殉教者たちも復活し、このイエスと教会の新婚生活は、千年も続くことになります。

J ああ、それが「千年王国」ですね。これで復活できると信じて、やたら殉教したがる信者が出てきていたわけか。

でも、千年たったところで、悪魔もまた地の底から解き放たれ、地上に出てくる。ここで、神は、これまでに死んだ者、天国に行った者はもちろん、煉獄や地獄に墜ちた者も、とにかく全員を蘇らせ、その個人個人の所業に応じて裁く。これが、厳密な意味での最後の最後の審判です。こうして、悪人は、悪魔とともに火の池へ。一方、善人は、天から降り下る新しい天地の花嫁、新聖都イェルサレムへ。そして、そこでは、アダムとイヴがエデンの園で食べそこねた、もう一つの永遠の命の木の実ももらえる、とされます。

J あれ? また花嫁? あ、そうか、ハルマゲドン後ではとりあえず教会信者や殉教者はまとめて団体で地上の千年王国に救われたけれど、千年後にはもう一度、個人ごとの全員の再審があって、地上に創られた教会の千年王国とは別の、天上から降りてきたホンモノの神の国、エデンの園に戻れるかどうか選別し直されるということかな。

ええ、よく西欧の歴史観は、天地創造から最後の審判まで直線的だ、なんて雑に言われますけれど、中身をしっかりみると、じつは、エデンの園に始まり、エデンの園に終わる、きれいな歴史の円環になっているんですよ。


『悪魔は涙を流さない カトリックマフィアVSフリーメイソン: 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだ パーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』