キリスト教はローマ帝国に迫害されたか(2)/純丘曜彰 教授博士
09.02.01. 五賢帝の二世紀(96〜192)
二世紀は最大版図になって、「パクス・ロマーナ」、ローマの平和を謳歌したネルウァ帝、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝、アントニヌスピウス帝、マルクスアウレリウス帝、の、いわゆる五賢帝とマルクスアウレリウスの子、コンモドゥス帝の時代となります。
J 古代ローマ帝国の最盛期ですね。迫害はどうなったんですか?
前のドミティアヌス帝が暗殺されて終わりですよ。ところが、教会は、またガタガタに。当時はまだ、都市ごとに、いや、同じ都市の中でも、教会に上下関係は無く、それぞれが独立運営でしたから、教義が異なっているほうが当たり前で、教会同士が争うなんていうことも起こってきます。それで、97年にローマ教会の司教クレメンス一世がコリント市の教会の揉めごとに干渉すると、他の教会が一斉に反発しています。
そして、98年に次の皇帝になったトラヤヌス(位98〜117)は、ダキア王国、現ルーマニアを完全征服し、同地の金鉱や銀鉱から莫大な財をもたらします。
J 建設・娯楽・軍隊で政治を支えるローマ年来の慢性的な財源不足が、これで一気に解消したわけですね。そりゃ、ローマ帝国も最盛期にもなるでしょうね。
107年の凱旋とともに、ローマ市ではコロシアムで連日の大剣闘大会。連れ帰った敗戦奴隷が10万人もいましたから、壮絶だったダキア戦争を観客たちの前で連中に生身で再現させるという趣向。これで1万以上の奴隷が死んだそうですが、これを見に来た観客は500万を越えたとか。
J まあ、テレビもネットもない時代だから、そのようすを伝えるのに再現というのもわからないではないですけれど、観客が500万って、それじゃローマ市の人口より多いじゃないですか。
とにかく爆発的な好景気になって、帝国中から見物観光に来たんでしょうね。でも、それだけじゃないんですよ。そのころ、ローマ市とアレクサンドリア市が人口百万、これらに次ぐのが地中海東岸北部、人口50万のアンティオキア市でした。ここは商業娯楽都市で、イェルサレムを脱出した使徒派やパウロ派の拠点でもあり、このころ、イグナティオスが司教を務めていました。その彼がこれに自分が出たいと言い出した。
J え? いくら大観客を集めたショーで宣伝になるにしても、コロシアムなんか出たら殺されちゃうでしょ。
いや、とにかく彼は殉教したいんですよ。おそらく『黙示録』のせいです。殉教したら、イエスさまといっしょに千年王国を治められる、と書いてある。それを真に受けて、わざわざローマ市に行って、コロシアムでライオンに喰われた。
J なんてこったい。
エビオン派は、イエスを救世主とはするものの、イエスはただの人間で、懐胎ないし洗礼で神の養子になっただけ、として、ユダヤ教の内部に留まろうとします。一方、イグナティオスは、ユダヤ教からの完全離脱、とくに土曜の安息日を止め、日曜の主日に礼拝するよう、強く勧告しています。こうして、112年、ようやくユダヤ人とは別のものとしてキリスト教徒が帝国に認識されます。
J で、どうすることにしたんですか?
わざわざ探し出すまでもないが、あくまでキリスト教徒であることを主張するなら、反国家的危険分子として死刑にする、という公安的な原則が立てられ、これがその後にも引き継がれます。
J おや、ずいぶんぬるい処置のようですけど。
とにかく厄介な連中だったんですよ。ユダヤ人のように派手な反乱テロを起こすわけでもなく、それどころか、ユダヤ人と対立していたから、ユダヤ人を抑え込むには役立つ。しかし、広大で多様な帝国内をかろうじて一つにつなぎとめている皇帝崇拝を拒絶することにおいては、ユダヤ人と同じ。とはいえ、へたに摘発すると、やたら信仰をわめき立てて大げさに殉教したがり、それが妙な宣伝になって、かえって信者を増やしてしまう。
J あー、触らぬ神に祟り無しってやつですか。
ところで、95年にローマ市を追放されたストア哲学者エピクテートスは、その後、バルカン半島西岸のニコポリス市に移って塾を開いており、ここに帝国中から多くの人々が集まります。とはいえ、それは、ギリシアの学園のように諸学を体系立てて教えるのではなく、ストア派の先人たちの著書の輪読か、はるばる彼に会いに来た人々の相談事に、彼が弟子たちの前で当意即妙にユーモアを交えて答えるというもので、124年、ハドリアヌス帝(位117〜38)もわざわざ彼の下を訪れています。
しかし、彼自身の哲学は、はっきりしていました。まず、それが自分の内なる物事か、自分の外なる物事、を、明確に区別すること。そして、自分の外の物事は、どうにもできない。一方、それをどうこうしたいなどと思う気持ちは、内なる物事であり、自分次第でなんとでもできる。だから、その内なるロゴスの方を神のロゴスに合わせ、神の望みこそ我が望みである、として、神によって起こった外の物事をすべて、それこそ自分の望んだ物事だ、とすることで、自然どおりの賢者になれる、とエピクテートスは言います。
J そのロゴスって何ですか?
プラトンが考えたような幾何学的で静止的な均衡を意味する理性、ヌースと違って、ロゴスは、ヘラクレイトスの言うような、時間的で力動的な働きです。ロゴスは、ただ論理というのではなく、積極的に語り出す論証で、展開していきます。だから、神のロゴス、世界のロゴスとなると、それが自然、ピュシスであり、個々のものにとっては、分限、モイラ、ないし、運命、テュケーとなります。
それまでのローマニズム・ストア派、キケロやセネカは、激変する時代にあってなお、それに内面まで振り回されまいと頑なに抵抗し、幾何学的な永遠の理性の均衡を守ろうとして、結局は、押し潰されてしまいました。しかし、エピクテートスは、言わば、その激変する現実の方に、うまく自分を溶け込ませることで、不動心、アタラクシアを確立しようとしたのです。実際、彼は、人間を社会的存在と考え、国家や家族なども肯定し、生まれながらの障害があっても、奴隷の身分にあっても、追放の憂き目にあっても、その中でうまく人生を楽しむ賢さを持っていました。
また、キケロやセネカが、神の定めとして、できるかぎりこの世に留まり、最善を尽くしてこそ天上界での魂の永遠の幸福がある、と考えたのに対し、エピクテートスは、むしろデモクリトスの原子論を取り込んで、死はただの解体で、自分の外の物事であり、善でも悪でもない、とし、自然の必然、ロゴスに従うなら、死もまた、この世から解き放たれる自分の自由だろう、と言います。とはいえ、その言葉は、障害も、奴隷も、追放も、死が必然というほどのことではない、という彼自身の生き方の上に理解すべきでしょう。
J なんだか道教や仏教なんかとも似ていますね。
さて、アントニウスピウス帝(位138〜61)の時代になると、東方政策の都合から、再びユダヤ人に対して融和政策が採られるようになります。そして、ユダヤ教の総主教を代表として、神殿税徴収権を与え戻しました。
J 皇帝とユダヤ人がヨリを戻すのって、ユダヤ人と対立することで黙認されてきたキリスト教にとって、かなりまずい状況では?
にもかかわらず、ヘレニズムの強い黒海南岸から着たマルキオン(c100〜c60)は、キリスト教グノーシス派の立場でローマ市に独自の教会を主催し、改竄された独自の聖書を編纂します。彼は、イエスは怒りのユダヤ教の神とは別の、真の愛の神から派遣された霊的なもので、肉体を持つかのように見えただけである、という仮現説、ドケティスムを唱え、ユダヤ教の伝統と律法を全否定しました。
J それって、ユダヤ人にケンカを売っているようなものでしょ。
ええ。それで諸教会の司教たちがすぐに集まって、144年、マルキオン教会を異端として破門しますが、各教会が独立である以上、なんの意味もありません。このため、異端と対抗すべく、信仰の基礎とすべき聖典や教義を整理する必要性を強く認識するようになります。
また、教父ユスティノス(c100〜65)は、グノーシス派のマルキオン教会と対抗すべく、同じローマ市でキリスト教私塾を開きます。ここで、彼は、フィロやエピクテートスのように、神をロゴス、論証として捉え、これによって、太陽とその光のように、イエスは神のロゴスである、とすることで、父なる創造神と子なるイエスの同一性を説明します。
エフェソス市の使徒ヨハネの弟子、ポリュカルポスは、その北のイズミル市司教でしたが、155年、皇帝崇拝を拒否して殉教。一方、トルコ内陸のモンタノスは、156年、聖霊を感じ、再臨に備え、独身・断食・苦行の信仰生活を重視する運動を始め、この運動は北アフリカやガリアなどに急速に普及していきます。このモンタノス運動は、信仰はあくまで個人と神の問題として、このころ一般化しつつあった都市教会の専業司教に否定的でした。
J 修道士の元ですか。でも、イエスの時代から、町を離れて暮らすエッセネ派みたいなのはいましたよね。
この後、学者肌でストア派を信奉し、寛容を信条とするマルクスアウレリウス帝(位161〜80)が161年に即位しますが、さっそくにパルティア、つまり、昔のペルシア、今のイランと戦争が始まってしまいます。将軍カシウスが現バグダッド南東20キロほどの首都へ攻め込んで勝利し、166年に凱旋したものの、翌167年には、こんどはゲルマン人がアルプスを越えて侵入。マルクスアウレリウス帝みずから、これを追って現オーストリアのドナウ川で一進一退の攻防。この間、175年には、将軍カシウスが反乱。これを誅殺して、またドナウへ。そして、180年に客死。
J ようするに、最初の五年くらいしか、ローマ市にいなかった、ということですね。
いや、いなくてよかったんですよ。最初の五年、マルクスアウレリウス帝は、パルティア戦争の都合からユダヤ人の側に付いていました。このころ、キリスト教徒はミサの聖体拝受で「子」の「肉」を喰い「血」を飲んでいる、赤ん坊を生贄にしている、との中傷のウワサが流れます。それで、彼は、キリスト教を弾圧。このとき、ローマで私塾を開いていた教父ユスティノスも殉教させられています。
J おや、寛容が信条のストア派だったんじゃないんですか?
すでに帝国の歯車が衰退へ逆回転を始めていましたから、それをくい止めるべく、踏みとどまる必要があり、同じストア派でも、エピクテートスのように、時代に溶け込んで、やり過ごす、というわけにはいかなかったんでしょう。くわえて、ストア派はあくまで自己責任主義ですから、キリスト教のように、すべて神に委ねる、などというのは、自己責任の放棄に思えて、絶対に相容れなかったでしょう。
J つまり、流動的展開のロゴスではなく、すでに完成した帝国という静止的均衡のイデアを守ることが、皇帝としての自分の使命と考えたのかな。
でも、彼が遠征に出た後のローマ市は、もっとひどいことに。じつは、軍隊がパルティアからやたら感染力の強い疫病、おそらく天然痘を持ち帰ってしまい、それから15年間も猛威を振るい続け、ローマの人口の25%を失うことになります。くわえて、軍隊は、ミトラ教という奇妙な秘密結社の宗教を持ち帰り、これが疫病の中、爆発的に信者を集めたのです。
J 何です、そのミトラ教って?
ペルシアというと、砂や塩の悪神と戦う清浄な火の善神アフラマズダーを崇拝する二元論的なゾロアスター教が中心ですが、アーリア人の契約の神ミトラを崇拝する一神教も古くからありました。
J 契約の神? ユダヤと同じ神ですかね?
よくわかりませんが、これが、その後、ペルシアの高度な天文学、占星術を取り込んで、太陽神となり、万人の監視者とされ、これを信奉する人々が契約の秘密結社を作っていきます。ミトラ神は、岩から生まれ、冬の象徴である牡牛を屠ることで再生する、とされ、その結社では、厳格な階層があり、真っ暗な洞窟の中で、牡牛の血を浴びるなどの儀式が行われたようです。そして、それがローマに入り込むと、あちこちに洞窟のミトラ神殿が作られ、表だって布教もしないのに、下級兵士など、多くの男たちを集めるようになります。マルクスアウレリウス帝の子、コンモドゥス帝(位80〜92)も、信者の一人です。
J そんな結社、入ってどうするんですか?
とにかく、策謀と暗殺だらけの時代でしたからね。軍隊や政界では、いつ仲間に背後から襲われるか、わかったものではありません。だから、この混沌の中で未来を占星術でいろいろ教えてもらえる、というのは、この宗教の大きな魅力でした。くわえて、万人を監視する太陽神を信奉し、血の契約で裏切を絶対に許さない裏の組織にも入って、身の安全を確かなものにしておこう、と考えるのも当然だったでしょう。
実際、コンモドゥス帝も、何度も暗殺されかかり、それで、政治は侍従たちに丸投げして、自分は公式の場にいっさい顔を出さなくなりました。そんなこんなで、父帝のキリスト教排除も停止。それどころか、帝の愛妾が信者で、むしろかってにキリスト教を保護し始めます。
それで、このころからキリスト教も急成長。あちこちの教会の礼拝で使われている主だった文章を寄せ集め、共通の信仰の基礎としていきます。とはいえ、これらはギリシア語で、どの文章を聖典とするか、根本の信仰規準がないために、なかなか意見がまとまりません。かろうじて西方でおおよその賛同がえられた信仰規準が、もとより寄せ集めのローマ教会の洗礼宣誓などで用いられたラテン語の「使徒信条」。すなわち、父なる創造神と子なるイエスを主として信じ、その子なる主は聖霊によって処女マリアから生まれ、十字架に付けられ、蘇って天に昇り、父なる主の右に座し、いずれ再臨して人々を裁く。また、聖霊を信じ、教会、罪の許し、体の蘇り、永遠の命を信じる。
J なんか、全部のエピソードを盛り込んだ感じで、ごちゃごちゃですね。
でも、これでようやくキリスト教が形になって西方合同派ができてきたのです。そして、これを規準に、ヘレニズム的なグノーシス派やユダヤ教的なエビオン派を異端とし、ユダヤ教とも対立。でも、これに反しないとして、聖誕祭や復活祭など、人気のミトラ教の儀式は、ちゃっかりキリスト教に取り込んでいます。
くわえて、北アフリカ出のローマ司教ウィクトル一世(位189〜99)は、ギリシア語ではなくラテン語でミサを行い、ユダヤ暦ではなくローマ暦の日曜で復活祭を行うように主張し、従わない教会は「破門」する、と脅しました。もっとも、師から直接に使徒たちのことを聞いたという最後の使徒派、ガリア、リヨン市の司教エイレーナイオス(c130〜202)は、古い律法はイエスにより更新された、また、ローマ教会には特別な地位がある、と認める一方、教会のことは諸教会が協調して決めるべきだ、として急進的なウィクトル一世を諫めます。
09.02.02. セウェルス朝とキリスト教西方合同派(193〜234)
192年末のコンモドゥス帝暗殺の後、あれこれの野心家が出て、セウェルス帝とその子のカラカラ帝、カラカラの子とされたシリア人のエラガバルス帝、その従弟のアレクサンデル帝のセウェルス朝(193〜235)が成立します。
その最初のセウィルス帝(位193〜211)からして、キリスト教の聖油が自分の病に効いたと信じたことから、キリスト教徒を身近に置くようになり、幼いカラカラらの保育や教育もキリスト教徒に委ねました。これに倣って、各属州でも、総督は現地教会から例年、相応の贈与を受け取り、急速に教勢を伸ばしていきます。
J うまく政治に取り入りましたね。
現チュニジア、カルタゴ市のモンタノス運動家テルトゥリアヌス(c160〜c220)は、マルクスアウレリウス帝が寛容勅令を出していた、などと言って、ローマ帝国に対してキリスト教の護教論を展開。しかし、西方合同派の寄せ集めの使徒信条は、同じキリスト教の他の教会、とくに東方の諸教会のグノーシス派やモナルキア派からさっそく批判され、これらに対しても、テルトゥリアヌスは護教論を工夫しなければなりませんでした。
まず、善なる神による魂と悪なる神による肉体の二元論を採るキリスト教グノーシス派に対しては、魂は肉体の罪の責任を負い、それゆえ、蘇りは神が創造した肉体とともにである、と言います。また、イエスは父なる神の一時的な現れの様態とするキリスト教モナルキア派に対しては、それでは父なる神が十字架の受難にあったことになってしまう、と論破しました。そして、彼は、使徒信条に創造神とイエス、聖霊の三つが挙げられてしまっていることのつじつま合わせとして、神は唯一の実体でありながら、三つのペルソナ、位格を持つ、という三位一体(さんみいったい、トリニタス)説を唱え、子なる神が死んで蘇った、ということについては、「不条理ゆえに我信ず、クレド・クィア・アブスルドゥム」として、哲学を越える信仰の意義を主張しました。
アレクサンドリア学派のクレメンス(c150〜c215)とその弟子のオリゲネス(c185〜c245)も、フィロやユスティノスのロゴス論を発展させ、聖書を比喩的に理解する独自の神学を構築し、やはり神の父子一体を唱えました。彼らによれば、父なる神が父である以上、子なる神もまた最初から父なる神に含まれている、とされます。
J ロゴスとして、言った、なら、何を言ったか、も、いっしょになっているということかな。
西方合同派の成立とともに、あまりに急拡大するキリスト教にセウィルス帝は危機感を抱き、キリスト教への新規改宗、その伝道などを禁じますが、それは既存の教会を破壊するような迫害ではありませんでした。そして、その子、カラカラ帝(位211〜17)の時代になると、いよいよ教会は勢力を増し、土地を買って聖堂を建て、宮廷に堂々と出入りするほどになっていきます。彼は、216年、皇帝に反抗的なアレクサンドリア市の青年たち二万人以上の大虐殺を行っていますが、アレクサンドリア学派のオリゲネスらは無事でした。
J ややこしいことをわめき散らさず、静かに神さまをお祈りだけしているキリスト教徒のほうが、皇帝にとって都合がよかったということですね。
217年、カラカラ帝が暗殺されると、その子という名目で、シリア人トランスジェンダーのエラガバルス帝(位218〜22)14歳が即位し、シリアの太陽神を国教にしようとします。また、同じころ、ローマ教会では、ウィクトル一世の子分で盗人上がりのカリストゥス一世(位217〜22)が司教となったため、厳格なヒッポリュトス(位217〜35)が対立ローマ司教に立てられ、カリストゥス一世だけでなく、モナルキア派のサベリウスを激しく批判。カリストゥス一世は、ヒッポリュトスとサベリウスの両方を破門。しかし、それぞれの教会は独立なので、争いは続きます。
J 三つ巴ですか。隣人愛はどこにいったんでしょう。
軍部の反乱が相次いで、エラガバルス帝も暗殺され、代って、その従弟のアレクサンデル帝(位222〜35)が13歳で即位。彼は、ローマ皇帝には珍しい常識人で、国の乱れを整えようとし、キリスト教も宮廷で手厚く信奉されました。その母ママエアは、アンティオキア市を訪れた際、わざわざアレクサンドリア市のオリゲネスを呼び出して会い、ローマ対立司教ヒッポリュトスとも親しく交流しています。一方、盗人上がりのローマ司教、カリストゥス一世は、井戸に投げ込んで殉教させたとか。
この後、226年にササン朝ペルシアができ、アレクサンデル帝は、これをどうにか撃退するも、234年にはゲルマン人も南下。その最前線にいた軍人マクシミヌスが皇帝を名乗り、アレクサンデル帝を殺害してしまいます。
J だんだんきな臭くなってきましたね。
09.02.03. 軍人皇帝たちの三世紀(235〜284)
この後、皇帝が健在であるにもかかわらず、親衛隊や、ドナウ・ライン、東方、北アフリカの属州軍がかってに総督を「皇帝」に擁立し、これを元老院が承認して内乱を助長することが繰り返されます。これが反乱として鎮圧されるか、前皇帝が殺されて新皇帝に変わるか。ときにはわずか数十日で、次の皇帝に代わるということも。
J 世襲でも養子でもなければ、皇帝である根拠は武力だけですからね。
新たな軍人マクシミヌス帝(位235〜38)は、セウィルス朝残党を一掃。これにはキリスト教徒も多く含まれ、ローマ司教ポンティアヌス(位230〜35)も、対立ローマ司教ヒッポリュトスも、ともにサルディニア島の鉱山へ流されて死亡。戦争好きの彼は、強引な軍資金調達で北アフリカの反乱を招き、親衛隊に暗殺されてしまいます。
そして、親衛隊長から成り上がったのが、フィリップ帝(位244〜49)。彼は、本人が入信していたのではないか、というくらい、キリスト教を優遇します。しかし、ドナウ地方にゲルマン人が来襲すると、デキウスに大軍を預けて派遣。これが裏切って、自分が皇帝に。
J あー、こんな時代に大軍を任せるなんて、お人好しすぎますよ。
デキウス帝(位249〜51)は、キリスト教、とくにローマ教会を、帝国に並ばんとする内なる脅威として迫害。ローマ司教ファビアヌス(位236〜50)も殉教させられてしまいます。それで、ノウァティアヌス(位251〜58)がローマ司教を僭称し、迫害における離教者の復帰を許さない強硬派として、皇帝との対決姿勢を強めます。しかし、テルトゥリアヌスの教えを継ぐカルタゴ司教キプリアヌスは、「教会の外に救い無し、サルス・エクストラ・エクレシアム・ノン・エスト」として教会の普遍性を主張しつつ、ノウァティアヌスの独走を牽制して、コルネリウス(位251〜53)を正規のローマ司教に押し上げます。
デキウス帝がゲルマン人と戦って51年に戦死。253年、ドナウ軍の支持を得て皇帝になったウァレリアヌス帝(位253〜60)は、軍人にしては温厚でした。その下で、ローマ司教ステファヌス一世(位254〜57)が、ペトロ座、カテドラ・ペトリとして、他の諸教会に対する首長権を主張。これに対し、キプリアヌスは、すべての教会を同等として批判。しかし、ウァレリアヌス帝は、晩年、エジプト教信徒の高官にそそのかされ、258年にキリスト教を迫害、ローマ司教シクストゥス二世(位257〜58)はもちろん、対立ローマ司教ノウァティアヌス、カルタゴ司教キプリアヌスも、みな殉教させられ、空位と混乱が続きます。
J ほんと、このころのキリスト教、内輪もめで大きな騒ぎを起こして、まとめて迫害されてばかり。
ところが、260年、ウァレリアヌス帝がペルシアとの戦いに敗れ、捕まって行方不明に。これに乗じて、アルプス以北・ブリテン・イベリア半島で、ガリア帝国が、小アジアからエジプトまで、パルミラ王国がかってに独立し、帝国は事実上の三分割になってしまいます。それで、後を継いだウァレリアヌス帝の子、ガッリエヌス帝(位253〜68)は、もはやキリスト教に関わっている余裕などありませんでした。
ペルシア遠征にも従軍したプロティノス(c205〜270)は、ローマに戻ると、プラトン後期の思想に、フィロやエピクテートスのロゴス論、インドのウパニシャッド哲学などを合わせたような流出説、エマナティオニスムを唱え始めます。それによれば、神とも善や美とも呼ばれる純粋な一、ト・ヘン、は、ただ存在するだけの不変のものですが、その自己認識の像が、理性、ヌースであり、霊魂は自由意志で好んで地上のものに宿り、理性をまねた雑多なものを体現しようとする、とされます。ここにおいて、人間も外に理性の世界を実現しようとするものの、肉体が個々ばらばらで連係が取れず、罪を犯してしまいます。そこで、人間は霊魂の内に一者への愛というエクスタシス、忘我によって、一者に回帰すべきであり、自分もまた、忘我を何度か体験している、と言います。
この新プラトン主義の一元的流出説は、ふつうにプラトンから演繹される善悪二元論のグノースティシズムを否定するものであり、三位一体を採るキリスト教主流派においても、キリスト教グノーシス派に対抗する思想として取り込まれ、神学の基本となっていきます。また、この一元的流出説は、通俗的に人気のあった当時の太陽神信仰ともなじみやすいものでした。そして、プロティノスは、ガッリエヌス帝に気に入られ、かつてプラトンが実現しようとしてできなかった哲人王国「プラトノポリス」の建設を委ねられて、ナポリ市北のミントゥルノに移り住みます。
J 同じプラトンからまったく別の、対抗する思想が出てくるなんて、不思議ですね。
それは、キリスト教でも同じですよ。このころ、パルミラ王国下のアンティオキア市司教のサモサタのパウロスは、ローマ帝国からの分離をいいことに、公私混同で信徒から搾取蓄財のしほうだい。でも、彼の熱狂的な説教によって、排他的で束縛的なカルト集団と化します。おまけに、イエスは人間で、神の養子になっただけ、という古いエビオン派の考えをまた持ち出したものだから、同地の司教たち七、八十人が集まって、アンティオケア教会会議(264〜68)を開き、西方合同派の使徒信条に基づいて、サモサタのパウロスを破門。ところが、サモサタのパウロスは、この手続に異議を申し立て、王国の保護によって、かえって勢力を増す始末。
J でも、地中海東岸のアンティオキア市あたりだと、エビオン派の方がずっと本命で、それからユダヤ教色を抜いても、教会文章を寄せ集めてできた西方合同派の使徒信条より説得力があったんじゃないかなぁ。
ガッリエヌス帝を暗殺したアウレリアヌス帝(270〜75)は、「世界の修復者」として、ガリア帝国とパルミラ王国を征服して回復、防衛のためローマ市城壁の建設を始め、太陽神信仰で軍人たちを収攬します。そして、アンティオケア市教会の分裂問題に対しては、西方合同派のイタリア司教団に諮問し、司教、サモサタのパウロスの私財を没収。しかし、その一派を、潰すことまではできませんでした。
J そりゃ、西方合同派に諮問すれば、エビオン派の残党みたいなのは、当然、異端だったでしょうね。
09.02.04. ディオクレティアヌス・コンスタンティヌス・テオドシウスの四世紀(284〜390)
284年、ディオクレティアヌス帝(位284〜305)がペルシア遠征軍に擁立されますが、妻や娘、彼女たちの使用人たちがもとよりみなキリスト教にどっぷり染まっており、いよいよキリスト教がローマ中で隆盛し、巨大な権力と利権を握って、各地に大規模な教会聖堂が建てられていきます。
86年、皇帝本人はトルコのニコメディア市に移って東方皇帝となり、信頼できる部下のマクシミアヌスをミラノ市を中心とする西方皇帝にして共同統治。さらに92年には、それぞれがガレリウスとコンスタンティウスを副帝とし、テサロニケ市を中心とするバルカン半島とトーリア市を中心とするアルプス以北を委ね、この四分統治によって、異民族に対する辺境防衛と地域の実情に合わせた施策を可能にしました。
J なんかうまくいっているみたいですね。
そうでもないですよ。寛容策で黙認されたキリスト教が巨大化するとともに、このころ、新たにマニ教が伝わり、これが爆発的に流行します。これは、ペルシアのマニ(216〜76)が、ゾロアスター教にユダヤ・キリスト教や仏教を取り込んだ、シンクレティズム、諸教混交で、善悪二元論ながら、宇宙や人間はむしろ善悪の矛盾した結合でできている、とし、いずれ両者が分離して悪から善が解放される、と考え、人間は出家禁欲によってみずから真理の道を極めるべきである、と言います。
J それ、グノーティシズムに似ていませんか?
いや、ペルシアでできただけあって、むしろヘレニズム的で反ユダヤ的なグノーシティシズムとは対抗するものです。マニはサザン朝宮廷に認められ、経典や教団も整備しましたが、伝統的なゾロアスター教神官たちに疎まれ、276年に投獄。286年には後継者や長老たちが処刑され、信者たちはローマやアラブに逃亡。虫も殺さず、酒も飲まず、光の食べ物とか言ってメロンばっかり喰っている変な連中で、反ペルシアでもあり、キリスト教とも対立しないので、ローマ帝国は当初は許容していましたが、あまりの勢いに、ディオクレティアヌス帝は、297年、これをペルシアのスパイとして迫害令を出しています。
J 勢いがあるのが問題なら、キリスト教も帝国の脅威でしょ。
ええ、巨大化したキリスト教でも、その悪い面が一気に噴き出してきます。まず、聖職者たちが権力と利権を伴う司教の地位を巡って世俗的な争いを繰り広げ、信徒たちも、もはやひるむところなく増長して、伝統的な多神教に対して上から目線の啓蒙的攻撃をするようになり、一般の人々の反発を招きます。くわえて、人間イエス養子説を説いて追放されたサモサタのパウロスの弟子筋のルキアノス(c240〜312)が、アンティオキア市にディダスカレイオン学園を開き、三位一体説を採る西方合同派とまた激しく揉め始めます。
とくにまずかったのが、キリスト教徒が四分された皇帝権を軽んじ、ただでさえ辺境防衛で手を焼いているのに、軍隊の中で信者を増やしてつながり、露骨に反帝反戦を訴える狂信的な者まで出てきたことです。皇帝のそばに仕える親衛隊長のセバスティアヌスまで信者で、仲間の多くを勧誘していました。この身中の敵に対して、ディオクレティアヌス帝は、303年、ついに迫害令を発し、巨大になりすぎた各地の聖堂を破壊。ローマ司教マルケリヌス(位296〜304)を屈服させ、ローマの神々を礼拝させています。また、親衛隊長のセバスティアヌスは、柱に縛り付け、大量の矢を射かけて殺しました。
J そのセバスティアヌスって、すっごい美男子のゲイだったんでしょ。なんかゲイの人が言ってましたよ。でも、いくらヘレニズムで同性愛だらけでも、やっぱり軍隊の中だとまずかったんでしょうね。
ディオクレティアヌスの迫害令に従って、軍人で、以前からキリスト教に強い危機感を持っていた西方皇帝マクシミアヌスや東方副帝ガリレウスは、聖堂破壊や司教弾圧だけでなく、一般の信徒さえ火刑に処していきます。一方、アルプス以北を担当する西方副帝コンスタンティウスは、宮廷にキリスト教徒が多かったこともあり、おざなりに迫害令に従っただけでした。
J つまり、ローマ帝国中央のイタリアとバルカン半島で激しい迫害が行われたものの、東方や西方では、それほどでもなかった、ということですね。
305年には、ディオクレティアヌス帝が引退。ガレリウス帝が中心となるも、新規に皇帝になった者やその息子たちが入り乱れて内戦ですよ。もうキリスト教徒の迫害なんか大々的にやっている余裕はありません。そうでなくとも、これまでにもモンタノス運動として町の教会を離れるキリスト教修道者は少なくありませんでしたが、数十年以上も北の砂漠の廃墟で極端な耐乏苦行に身を投じていた隠者アントニオスのところには、多くの弟子が集まり、修道会ができて、彼を訪れる巡礼者が増え続けます。
J 迫害や内戦から遠ざかって信仰生活に没頭したというわけですね。
概して軍人皇帝たちは、反帝反戦のキリスト教徒を嫌って、アンティオキア市のルキアノスなども殉教させていますが、ディオクレティアヌス帝の迫害令もおざなりしか従わなかったコンスタンティウス西副帝の息子、コンスタンティヌス一世西帝(306〜37)は、むしろキリスト教徒を味方にして、312年、十字架旗を掲げ、ローマ市へ進軍。翌313年、ミラノ勅令で、キリスト教を含めた信教の自由を認めます。
J それ、ユダヤ教やミトラ教、マニ教でもOKということですね。
それどころか、キリスト教諸派もあり、ということになります。実際、アンティオキア市のルキアノスの弟子、司祭アリウス(250〜336)は、アレキサンドリア市に移ってイエス養子説を広めました。ただ、エビオン派、サモサタのパウロスやルキアノスと違って、アリウスは、アレクサンドリア学派のクレメンス(c150〜c215)とその弟子のオリゲネスのイエス・ロゴス説も取り込んでおり、キリストはロゴスとして先在し、受肉してイエスとなった、とします。
J いくら帝国が認めても、そんなの、西方合同派が許さないでしょ。
隠者アントニオスらもアリウス派を嫌い、アレキサンドリア司教アレクサンドロス一世は、321年、アリウスを破門、現クロアチアへ追放。324年、東帝を倒して帝国再統一を成し遂げたコンスタンティヌス一世帝もまた、翌325年、東方キリスト教聖職者を集めてニカイア公会議を開きます。参加者はおよそ二五〇名。西方聖職者はわずか五名で、ローマ司教さえ来ていません。つまり、この公会議は、実質的には、西帝だったコンスタンティヌス一世が東方教会をも傘下に収めたことを示すものでした。
内容的には、アレキサンドリア助祭アタナシオス(298〜373)が父子同質、ホモウジオス説を説き、あらためてアリウス派を異端とします。そして、この公会議で寄せ集めの使徒信条が整理され、父と子と聖霊の三位一体が「ニカイア信条」として東方合同派の共通了解として確立されました。
J でも、それ、結局、東方合同派が西方合同派に同意したというだけで、帝国はミラノ勅令で、諸派の信仰の自由も認めてるんでしょ。
だから、東方合同派が自分たちで自分たち以外を異端とする決議をしたところで、個々の教会がそれぞれ独立である以上、アリウス派にすれば知ったことではないですよ。コンスタンティヌス一世帝は、330年、首都を東の新たなコンスタンティノープル市に遷しますが、337年、死去。帝国は息子兄弟でまた三分割されてしまいました。ここにおいて、ローマ司教ユリウス一世(位337〜52)がまた全教会に対する首長権を主張し、東西の合同派をニカイア派として一つにまとめようとします。
また、隠者アントニオスの近くで修道者となった元軍人のパコミウスは、その後、エジプトのテーベ市、現ルクソールの周辺に共同生活を営む修道院をいくつも作りましたが、このころ、その人員は総計三千名以上に膨れ上がっていきます。ただし、彼らは修道者ではなく、むしろたんに食い詰めて流れ着いた人々で、ふだんは農業に従事していますが、いざとなれば軍隊や市民、対立教会との戦闘も辞さない私兵でもありました。
J なんか、帝国が衰退していくのに、教会がその中で別の国家を作り始めてしまったみたいですね。
皇帝たちも、ニカイア派の合同教会は危険だと思ったのでしょう。353年、東帝から帝国再統一を果たしたコンスタンティヌス二世(位337〜61)は、むしろアリウス派で、ローマ司教リベリウス(位352〜66)にアリウス派への転向を強い、アレキサンドリア司教となったニカイア派のアタナシオスを追放します。また、アリウス派を学んだゲルマン人司教ウルフィラ(c311〜83)によって、ゲルマン人にもアリウス派を広く布教していきます。
まして、コンスタンティヌス二世帝を継いだ又従弟のユリアヌス帝(位361〜63)は、ローマ伝統の神々の復興を図り、また、ユダヤ人のイェルサレム神殿を国庫負担で再建することを約します。そのせいで、彼は、べつに弾圧や迫害をしたわけでもないのに、キリスト教徒から「背教者」などと罵られ、363年に暗殺されてしました。
J いや、背教もなにも、ミラノ勅令で何を信仰しようと自由なんだから、べつに皇帝が伝統の神々を崇拝したって、ユダヤ教を支援したって、よけいなお世話でしょ。
この後、軍人ウァレンティニアヌス一世(位364〜75)のウァレンティアヌス朝となりますが、弟のウァレンス東帝(位364〜78)もまたアリウス派でした。しかし、このころ、ローマ市でも、ダマスス一世(位366〜84)がならず者を使って反対者たちを次々と殺し、司教にのし上がってしまいます。これに対し、ウァレンティニアヌス一世西帝は、これを追認するしかありませんでした。それをいいことに、ダマスス一世は、またローマ司教の全教会に対する首長権を主張し、世俗王のような豪奢な生活を見せびらかすようになります。また、彼は、キリスト教をローマ化すべく、ヒエロニムスに命じて新旧両聖書をラテン語に翻訳させます。
J エジプトに次いで、ローマ市もニカイア派の合同教会のごろつき連中に乗っ取られてしまったということですか。
同じころ、その西帝国の首都ミラノ市でも、ニカイア派とアリウス派が激しく争って揉めており、キリスト教徒でさえなかった名門の首席執政官アンブロジウス(位374〜97)がニカイア派に担がれ、司教に立てられます。おりしも内陸のフン族に追われたゲルマン人が、375年、バルカン半島に侵入。これと戦ってウァレンス東帝は、378年に戦死。代わって、ウァレンティニアヌス一世の娘婿でニカイア派のテオドシウス一世(位379〜95)が東帝になります。
J アンブロジウスは、もう帝国を見捨て、教会をはしごにして権力を握ろうということかな。
ニカイア派のミラノ司教となったアンブロジウスは、教会政治家として辣腕を発揮し、380年、テオドシウス一世東帝らに、信教の自由を許していたミラノ勅令に代えて、三位一体のニカイア派を唯一絶対とするテサロニケ勅令を発させ、アリウス派はもちろん、ユダヤ教やミトラ教、マニ教、さらには伝統の神々への信仰までも排除していきます。
これとともに、キリスト教聖職者が扇動し、信徒がユダヤ人のシナゴーグを襲撃して、略奪放火する事件が各地で起こってきます。これに対し、テオドシウス一世東帝は、シナゴーグの再建と略奪放火犯の処罰を命じますが、ミラノ司教アンブロジウスは、そんな事件はすべてユダヤ人のデマだ、と言って、帝命を止めてしまいます。また、390年のテサロニケ暴動鎮圧で七千人の死者を出すと、ミラノ司教アンブロジウスはテオドシウス一世東帝を破門。これを懺悔させることで、教会が皇帝より優位であることを示します。
J ようするに、元老院や軍隊に代わって合同教会や修道院が皇帝を左右するようになったということですね。いや、ヘレニズムから生まれたキリスト教がローマニズムに染め変えられたということかな。それにしても、イエスの教えとはずいぶん離れたものですねぇ。
では、きょうのまとめです。ローマは、陰謀が渦巻き、心の美徳と手の汚れの欺瞞に、罪を問うキリスト教が浸透。グノースティシズムや、終末論が再燃。でも、ダキア征服でもたらされた財で、ローマは最盛期を迎え、東方政策の都合でユダヤと和解。そのせいで、キリスト教は圧迫され、西方合同派が成立。四散分裂した帝国統一のために皇帝がキリスト教を利用し、逆にキリスト教が皇帝を支配することに。今回は、こんなところかな。