サッカーの試合を見たければ、動画サイトに頼るしか方法はない。このご時世、過去の試合を片っ端から貪るように見ている人は多いのではないか。

 幸い、サッカーは面白い。ハズレの試合もある一方で当たりの試合に遭遇すると、ハズレの試合で味わった落胆をすっ飛ばすほどの感激が待ち構える。名勝負はあらゆるスポーツに存在するが、サッカーが一番ではないだろうか。サッカーが世界で断トツナンバーワンの人気を誇る理由だと思う。あの試合を見てしまったばっかりに、サッカーファンを辞められなくなったと言う人は、少なくないはずだ。
 
 筆者の場合で言えば、最初に出かけたW杯=82年スペイン大会で、ブラジル対イタリアの試合を見てしまったばっかりにーーとなる。
 
 ブラジルとイタリア。どちらを応援していたかと言えば、ブラジルだ。周囲で観戦していた人はほとんどがそうだった。そのブラジルが2-3で敗れた。その瞬間、スタンドを埋めたイタリアサポーターを除く大半が、落胆した。「ワールドカップは終わった」と言い出す記者もいた。
 
 だが、観戦歴の浅い筆者には、冷静に試合を振り返る余裕はなかった。あっという間の90分だった。ジェットコースターから降りた瞬間のように、立っているのがやっとというほど、頭はグラングランしていた。

 込み上げてきたのは落胆ではなく感激だった。自分のラッキーを思わずにいられなかった。両軍の選手、そしてこの衝撃的な事件の現場に立ち会うことができた自分自身にも、拍手を送りたい気持ちになっていた。サッカー観戦の喜びを知ってしまった瞬間となる。

 サッカーファンと一口にいっても、見ることが好きな人もいれば、プレーをすることが好きな人もいる。筆者はブラジル対イタリアの観戦以来、すっかり「見る派」に転じることになったが、Jリーガーに話を聞くと見る派が、思いのほか少ないことに気づかされる。「プレーする派」に徹している人が半分以上を占めている。

 世の中にはもう一つ、「応援する派」も存在する。サポーターがこれだ。もちろんサポーターにも見る派は存在する。プレーする派もいる。だが、それまでサッカーとは無縁な生活を送っていた、見る派でもプレーする派でもない応援する派が、Jクラブが各地に誕生していく中で増えていった。日本代表戦なら必ず見るという「日本代表ファン」も応援する派だ。

 どのルートでサッカーファンになるか。サッカーブームが到来した90年代後半から2000年代に掛けて、サッカーの楽しみ方を紹介する本が売れたことがあった。そこで多くの識者が勧めていた観戦法が、贔屓のチームを作れ、だった。贔屓の選手でもいい。それが観戦を続けるモチベーションになると書かれていた。

 筆者はもっと楽観的だった。サッカーそのものを信用していた。何試合か観戦に出かければ必ず虜になる。ハズレの試合に出くわしても、我慢してもう2、3試合見続ければ、当たりの試合に遭遇できる。それを繰り返していけば、いずれ大当たりの試合に遭遇できる、との感覚を持っていた。

 応援する派ではなく見る派だ。どちらか一方というより、試合そのものに関心があった。なにより試合が面白くなることに期待した。

 それは人間なので、好みはある。ブラジルとイタリアなら、ブラジルかなと思うが、ブラジルが勝てば喜び、負ければ悲しむという感じではない。

 日本と韓国が戦った場合でも同じだ。日本頑張れ!という前に、試合が面白くなることを切望する。その方がサッカーファンは増える。サッカーの普及発展に役立つのではないかとの思いに基づいている。

「つまらない内容の1-0で勝つなら、面白い内容の2-3で負けた方が……」とは、ヨハン・クライフが実際に筆者に述べた言葉だが、あまりに究極的かつ哲学的な言い回しなので当時、耳にした瞬間、そこまで言うかと耳を疑ったが、いまでは容易に受け入れられる。