韓国内で最近、ハリー・ハリス駐韓米国大使の“ヒゲ”が物議を醸している。昨年の日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)延長や北朝鮮問題などに関するハリス大使の発言をめぐり、韓国内の一部世論が「高圧的である」という批判を繰り返してきた。

 ハリス大使をよく知る米韓関係筋によれば、ハリス氏は駐韓国大使を最後の公職だと考えているため、昇進を考えて発言を慎重にする必要を感じていない。韓国大統領府内では、ハリス大使の率直な物言いについて「少しは韓国の事情も考えてくれればよいのに」という声が上がっているという。


ソウルで行われた米韓首脳会談に出席したハリー・ハリス大使(左から2人目) ©AFLO

 そのうち、ハリス大使への批判は、ヒゲに向かうようになった。ハリス大使を批判する市民集会で、ハリス大使の似顔絵からヒゲを抜くパフォーマンスもあった。ハリス大使は、米太平洋軍司令官も務めた軍人だが、「外交官になるにあたって区切りをつける意味で」としてヒゲを生やし始めたという。それが、韓国内の一部世論では「日本が朝鮮半島を統治した時代の朝鮮総督を想起させる」という批判を巻き起こしている。

「こんなときに日本製ビールなんか買って大丈夫ですか」

 そこで思い当たったのが、韓国を支配する「空気」だ。韓国には、「社会の風潮に自分を合わせなければいけない」という様々な空気、同調圧力が存在する。

 昨年夏に起こった日本製品不買運動もその一例だ。私の知り合いの韓国外交官は当時、スーパーで日本製ビールを買おうとして、妻から「あなた、こんなときにイルボンメクチュ(日本製ビール)なんか買って大丈夫ですか」と制止された。一時期、客が激減したとされるユニクロだが、韓国の厳しい冬の季節を迎え、ユニクロのヒートテックを目当てにオンラインでの購買数が増えているという。


筆者の新著『韓国を支配する「空気」の研究』(文春新書)。
「日本が好き2割」「日本が嫌い」「どちらでもない6割」……それなのになぜ反日は止まらないのか? 長く日韓関係を取材してきた朝日新聞前ソウル支局長が、様々な角度から韓国の「空気」を読み解く。

 そして、ヒゲは、この空気の一例でもある。韓国のエスタブリッシュメントと呼ばれる層でヒゲを生やしている人はほとんどいない。

 韓国外交省で日韓関係改善のために努力している人物として評価が高い趙世暎第1次官も2013年、日韓GSOMIAの締結撤回の責任を取って外交省を去った際、ヒゲを生やし始めた。だが、2018年9月に外交省傘下の外交院長に就任すると、きれいにヒゲを剃ってしまった。趙氏の周囲によれば、自由な生き方を選んだ同氏はヒゲを生やしたものの、韓国政府内の空気を尊重して剃ってしまったのだという。

ヒゲは社会の秩序に反発している印象を与える?

 知り合いの韓国外交官に聞いてみると、外交省内でヒゲを生やす人物は皆無とは言えないが、幹部たちはほぼ間違いなくヒゲを剃っている。ヒゲを生やすことが、社会の秩序に反発しているような印象を与えるのではないかと心配するからだという。

 日本外務省の幹部にこの話をすると、「へえー、うちとは大違いだ」と驚いていた。日本外務省の男性職員の場合、スーツ着用というのが最低限の不文律で、それ以外はかなり自由だ。外務省内を歩けば、先のとがった靴やオシャレなカラーシャツ姿の男性職員をあちこちで見かける。もちろん、ヒゲを生やすのも自由だ。知り合いの幹部の場合、「さすがに国会答弁の時は白いワイシャツにするくらいかな」と教えてくれた。

「今の韓国は、映画館でみな立ち見しているような状態」

 韓国外交官の1人で、名著として知られる山本七平の『「空気」の研究』(文春文庫)を読んだことがある知り合いは、「韓国にある空気は、日本の空気よりもはるかに重い」と語る。その一例として「日本は公共の場所では秩序を重んじるが、韓国ではそれが私的な空間にまで及んでいる。不買運動への同調圧力もその一つだ」と教えてくれた。

 彼は「同調圧力」のもう一つの例として、「私教育(サギョユク)」と呼ばれる、塾通いなどの受験用教育を挙げた。韓国の私教育はすさまじい。小学生ともなれば、午後10時くらいまで学院(ハグォン)と呼ばれる塾に通う。高校生になると「大学受験のため、この時間はおまえたちの人生から削り取れ」と教えられ、ひたすら勉強に励む。


©iStock.com

 彼は「韓国の父母で、それが正しいと思っている人はほとんどいない。誰だって我が子はかわいい。遅くまで勉強をさせて可哀想だとも思っている。でも、みんなやっているから、自分の子どもだけやらせないわけにはいかない」と語る。

 私も昔、ソウル赴任にあたって、長男をソウルの日本人学校に入学させた。できるだけ、日本と同じような環境で育ててやりたいと思ったからだ。この話を、別の韓国人の知り合いにしたところ、「なんで、インターナショナルスクールに通わせないんだ。英語を教える絶好のチャンスじゃないか」と言われたことがある。

 山本七平を読んだ知り合いの韓国外交官は、韓国の私教育の実態について映画館の話にたとえた。

「1人がもっと良く映画を観たいと考えて、立ち上がる。するとその後ろの人間も立ち上がる。みんな立ってみるのは行儀が悪いとわかっていても、自分だけ観られないのは嫌だから立ち上がる。今の韓国は、映画館でみな立ち見しているような状態だ」

韓国担当になって失敗した新任課長

 こうした「韓国を支配する空気」を外国人のハリス大使に当てはめようとしても無理な相談だ。ハリス大使も「ヒゲを生やすのは、個人の好みの問題だ」と語ったが、ごく当たり前の反論だ。一方、赴任国の空気を知ることも、外交官にとっては必要なことだろう。


世界水泳2019光州大会に出席したハリー・ハリス大使(中央) ©AFLO

 昔、知り合いの日本外務省課長が韓国担当になり、ソウルにやってきた。着任にあたり、韓国の色々な人に会うことが目的だった。韓国の日本研究者と昼食を摂ることになった。韓国の研究者は、日本の韓国研究者に比べると社会的地位も高いし、そういう自負を持っている。有名な日本研究者になると、韓国外交省では局長が応対している。しかも、韓国は上座と下座など、秩序を非常に気にするところがある。

 でも、新任の日本課長はそれを知らなかった。昼食の席で、何げなく上座に座って待っていると、韓国研究者たちが鼻白んだという。これも「韓国を支配する空気」をよく知らないで、失敗した一例だろう。

 日本と韓国との関係が悪化している昨今、私たち日本人が「韓国を支配する空気」を知ることは、それなりに意味があることではないかと思う。

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 朝日新聞前ソウル支局長として韓国社会を取材してきた牧野愛博氏による新著『韓国を支配する「空気」の研究』(文春新書)が本日1月20日に発売されます。対日関係から若者の格差、女性の社会進出など、様々な角度から韓国の「空気」を読み解いています。

(牧野 愛博)