野村宏伸、月収6000万円からドン底に。田原俊彦と共演でブレーク後「気に入らない仕事を断っていたら…」
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1984年、角川映画『メイン・テーマ』のオーディションで2万3000人のなかから薬師丸ひろ子さんの相手役に選ばれ、俳優デビューした野村宏伸さん。
180cmの長身に甘いマスクでアイドル的な人気を博し、1988年には田原俊彦主演ドラマ『教師びんびん物語』の榎本役で一世を風靡(ふうび)するが、年齢を重ねていくに従って仕事が激減。さらに知人に貸して戻らないお金は1億円以上、借金、離婚とどん底状態に陥ったというが、見事復活を果たし、テレビ、映画、舞台で活躍している野村宏伸さんにインタビュー。
20代
◆オーディションに参加したのは賞金目当て?
野村さんの実家は、祖父の代から化学薬品工場を経営し、父親が2代目社長をつとめる裕福な家庭だったが、野村さんが高校1年生のときに突然倒産。生活は一変したという。
「学校から帰ってきたら『すぐにこの家を出ていかなければいけない』って言われたので、『えーっ!?』て驚いて。会社が倒産したということは聞いたけれども、それ以上どうなっていくのか全くわからない。とりあえず家を出て行かなくちゃいけないと言うので、急いで荷物をまとめて夜逃げのような状態で出て行った覚えはあります」
工場も生まれ育った家も失い、両親と妹の4人家族は離散。それぞれ親族の家を転々とすることになったという。
「父の会社が倒産して一家バラバラになったんですけれども、10カ月ぐらいして、父がタクシーの運転手をして小さなマンションで、生活も裕福ではないけれども、また家族みんな一緒に暮らすようにはなったんです」
−『メイン・テーマ』のオーディションを受けたのは?−
「ちょうどその頃です。妹が雑誌でその記事を見つけて、応募したというのがきっかけです」
−野村さんはあまり乗り気ではなかったそうですね−
「あまりこの世界に興味がなかったし、俳優なんて夢物語じゃないですか。おやじが自分の会社を倒産させたというのもあったから、やっぱり安定したサラリーマンとかについたほうがいいかなぁと思っていたんですよね。芸能界というのは水商売だと思っていたので、全然興味なかったですね」
−優勝者は500万円、推薦者が100万円、賞金が高額でしたね−
「そうです。自分の感覚では、今の1億くらいに思えました。500万円もらえるというのはそんな感じでしたよね」
−オーディションには2万3000人も集まったそうですが、優勝する自信はありました?−
「なかったです。オーディションでお芝居も全くできなかったし、やる気もないし(笑)。受かるなんて思ってなかったですけど、僕がそのオーディションに向かうときに、会場の外の交差点のところで角川春樹さんが反対側から向かって歩いてきて、一瞬目が合ったような気がしたんですよ。
よくテレビやドラマであるように、ちょっとストップモーションじゃないけれども、そんな感覚があったなあみたいな…。そのあとで面接だったので、なんかわからないですけど、そういう巡り合わせとかあったのかもしれないですね」
−優勝が決まったときにはいかがでした?−
「『何が起こったんだろう?』って、夢みたいな感じでした。妹は『(推薦者として)100万円もらえる』って単純に喜んでいましたけど(笑)。妹もファミレスとかでバイトをしていたんですけど、その賞金で大学の入学金を払っていましたね」
※野村宏伸プロフィル
1965年5月3日生まれ。東京都出身。1984年、映画『メイン・テーマ』のオーディションで2万3000人のなかから選ばれて俳優デビュー。映画『キャバレー』(1986年)、映画『学校の怪談』(1995年)、ドラマ『教師びんびん物語』、連続テレビ小説『凛凛と』(NHK)、日曜劇場『とんび』(TBS系)など映画、ドラマに多数出演。
近年は『爆報!THE フライデー』(TBS系)、『しくじり先生 俺みたいになるな!!』(テレビ朝日系)などバラエティー番組でも話題に。9月25日(水)から舞台『友情』(28日(土)まで渋谷区文化総合センター大和田伝承ホール)に出演。
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◆角川春樹に追いつめられ、飯もまともに食えず…
−オーディションに優勝してすぐに『メイン・テーマ』の撮影ですか?−
「そうですね。あれよあれよという間にね。映画の撮影まで準備の期間が2カ月ぐらいあったのかな。薬師丸ひろ子ちゃんの映画の相手役ということで、お芝居やサーフィンの練習など、いろいろな習い事もさせられました」
−実際に撮影が始まっていかがでした?−
「とにかく、まず恥ずかしいですよね。人の目を見てお芝居なんてやったことがないから、いつも下ばっかり見てやっていた覚えがあります。
長期の沖縄ロケだったんですけど、最初の沖縄ロケの日の夜から毎晩、森田芳光監督がホテルの部屋で、翌日撮影する部分をマンツーマンで教えてくれていました。ひろ子ちゃんの役をやってくれたりして。
そうやって撮影していくうちに少しずつ慣れていくじゃないですか。それで最初に撮っていたシーンをリテイクでまた撮り直してくれたりとか。当時はそういう余裕もあったんですよね。時間とお金もあったので、そういうこともできたんですよね」
−角川映画は特にそうでしたね−
「そうですね。そういう意味では恵まれていましたよね。今ではもう考えられないですから」
−完成した映画をご覧になっていかがでした?−
「スクリーンで見たときに『映画って、3カ月ぐらい撮影をして1個1個撮ったのが、つながるとこうなるんだ』って、結構自分なりに感動しましたね。それでまた音楽が入ったりとか、効果音が入ったりとか、『すごいなあ、映画って』って思いました」
−生活も大きく変わったのでは?−
「そうでもなかったです。今みたいにネットがあるわけじゃないので、角川時代(角川春樹事務所)は意外とゆったりしていました。年に映画を1本撮って、あとは別にテレビドラマをやるわけじゃないから、普通の生活をしていました。
『メイン・テーマ』はちょうど高校卒業とかぶったんですよね。それで一応大学に行くという希望も出していて、とりあえず、もう一浪してという感じでいました。まだこの世界でずっとやっていくという決意も固まっていなかったので」
−そして角川春樹事務所創立10周年記念作品『キャバレー』に主演されることに−
「『キャバレー』のときは20歳で、大学受験に落ちて進路を悩んでいたときだったんです。こうなったらもう全力で撮影にのぞんだほうがいいと思って。中途半端な気持ちで入るよりも、ちゃんと役者としてこれからやっていくという思いで挑んだほうが良いと思って、角川さんに伝えました」
−『キャバレー』の監督は角川春樹さんですが、現場はいかがでした?−
「めちゃくちゃ怒られました。角川さんは男の俳優にはそうなんですよ。もうボロクソ。なんかそういうふうに追いつめるんですよね、男の場合は。僕もかなりボロクソ言われてきつかったですね。
女の人にはそうでもないんですよ。(原田)知世ちゃんとかにはね。でも、男にはすごい。僕もかなりやられましたよ。もうほとんど飯も食えないような状態で、結構げっそりしちゃって。でも、『キャバレー』の主人公は、追いつめられる青年の役でもあったので、そういうのもあったんでしょうかね(笑)」
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◆田原俊彦との共演で人気絶頂に…しかしその後に思わぬ落とし穴が
1987年、野村さんは田原俊彦さん主演ドラマ『ラジオびんびん物語』(フジテレビ系)でテレビドラマ初出演を果たす。田原俊彦さんとの絶妙なコンビネーションが注目を集め、続くシリーズ第2弾『教師びんびん物語』で大ブレークする。田原さん演じる熱血教師・徳川龍之介と野村さん演じる後輩教師・榎本英樹の掛け合いが話題に。
「角川さんの事務所が芸能部を解散するというので新しい事務所に入れてもらって、それでわりとすぐに、『ラジオびんびん物語』が始まって、結構ヒットして今度は教師をやるということになって。
だから運が良かったなって思いますね。オーディションに決まったこともそうですし、今思うとそういう運がつながっているなあって。今こうやって生きていて、しかもちょうど今年が35周年ですからね」
−「せんぱ〜い」というセリフも印象的でしたが、榎本役はご自身ではどうでした?−
「かなり抵抗がありましたね。徐々になじんでいったという感じです。テレビというのは反応もダイレクトに来るので、どんどん自分のなかでもあの役を全うしていったというか…。最初の頃は『いやだなあ。早く終わりたい』みたいな感覚でしたけど、ラジオから教師になって、徐々にそれをもっと自分なりに楽しみながら演じてきたという感じですよね」
−田原俊彦さんとはずいぶん親しくされていたそうですね−
「当時、撮影中はそうでした。最初から可愛がってもらいました。何かハマったんでしょうね。演じる役との関連もあるでしょうけど。
ジャニーズの後輩にはすごく厳しかったじゃないですか。上下関係というか、先輩後輩というのはすごいちゃんとしていますから。僕はジャニーズの後輩とはまた違いますしね。だからそれほど僕に対して厳しいと言うことはなかったし、お互いの家に泊まったりもしていました。ドラマと同じ感じですよね(笑)」
−バラエティー番組で注目されたのも田原さんがきっかけでしたね−
「そうですね。会って、別に何をしゃべるわけではないですけど。あの人も照れ屋だしね。でも大きい存在ですよね、やっぱり。あの人がいなかったら、今の僕はないだろうなと思うし、その思いがずっとつながっていますから。別に会わなくても良いんですけど、何人かいるかけがえのない先輩の1人ですよね」
ドラマが大人気となり、仕事が次々と舞い込み、連ドラのかけもちやCMにも多数出演。収入も大幅に増え順風満帆に見えた20代だったが、野村さんはジレンマを抱えていたという。
「榎本のイメージがあまりに強くて、同じようなキャラを求められることが多かったんですよね。それにCMをやっている期間は悪役をやっちゃいけないとか、いろいろな髪型をやりたいけど、あまり変えてはいけないとか。髪を染めたいとか、いろいろあるじゃないですか。そういう葛藤はありましたね、やっぱり。それで気に入らない仕事を断っていたら、30代後半から仕事が激減してしまいました」
−「主役以外はやらない」という時期もあったと言われていますが−
「僕のなかでそんなこだわりは全然ないんですけど、むしろその当時所属していた事務所とかの戦略かもしれない。その辺はわからないですね。僕自身は主役じゃなきゃいけないとか、そういうことはなかったです。どっちかって言うと僕は役が面白ければいいという考えなので、今でも」
芸能界で売れると収入もケタが違う。榎本役で大ブレークした野村さんの最高月収は6000万円だったという。
「たまたまコマーシャルなどもあったので、そういうとき(月収6000万円)もありましたけど。当時はそんなに贅沢(ぜいたく)している感覚はありませんでしたね。車も買ったし、家も買ったけど、それ以外はお金もそんなに使っていなくて貯金していました」
28歳で世田谷に2億4000万円の豪邸を建て、34歳のときに結婚し、2人の子どもにも恵まれるが、景気の低迷とともに少しずつ仕事が減っていく。それでも知らず知らずのうちに金銭感覚がおかしくなっていた野村さんは、友人知人に頼まれるとお金を貸し、その総額1億円以上だったという。
仕事が減っていくなか、相談もなく大金を貸してしまったことなどが原因で夫婦間の溝が深まり2009年に離婚することに。
「ちょうどそういう時期に何か怪しげな人が寄ってきたりして、お金を貸したりとかそういうことで、なくなっていって(笑)。まぁ、お金があったから貸したんでしょうけど(笑)。
景気の低迷とともにギャラも下がりましたし、30代後半ぐらいから仕事が激減して40代は本当に仕事がなかった。残っている家のローンも結構大きかったし、家が大きかった分、電気代など光熱費や経費もかなりかかったので、結局売却してローンを完済しました」
−「お金を持っていてもお金の貸し借りだけはしない」と言う方が多いですが−
「そういう人もいるでしょうね。でも、それもそれで人生だなぁって僕は思っています。あまりネチネチ貸した金をいつまでも思っていなくて忘れていて。何かそれも一つの財産だと思うようにしているんですよ。お金があっても全然使わないケチよりも、かっこいいなみたいな(笑)。
そのぐらいちょっと男はだまされて、そういうこともやってきたのも、なんか勲章じゃないけど、今思えばね。当時はちょっと大変でしたけど。でも、今はそういうこともあったから今があると思うようにして、前向きに生きていますけどね」
結局、総額1億円以上の貸付金は戻らず、仕事もほとんどなく生活に困窮した野村さんは、友人のツテで、中古車のオークション会場で働いたこともあったという。
「時間に余裕がありましたからね。役者をやるんだったら、いろんな経験をしておいたほうがいいと思って。いろんなことを見て経験することが、やっぱり役に広がるので。何事もポジティブに捉えるようになりました。あまりマイナス思考に考えていると、人間って、どんどんそういう風になっていくんですよ。前向きに生きていれば、またいろんな人とも出会えるというのはあります」
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大変な経験を淡々と話す姿に苦難を乗り越えて復活した強さを感じる。次回後編では復活のきっかけとなったバラエティー番組出演、舞台にかける思い、再婚についても紹介。(津島令子)