大幡正敏主将の目が潤んでいた。

「日本一を目標に掲げてきましたが、宮崎県民のみなさんの期待に応えられずに本当に悔しい……」


タイブレイクの末、東海大に敗れ、肩を落とす宮崎産業経営大ナイン

 第68回全日本大学野球選手権大会。6月9日の開会式では、各チームの主将が抱負を披露した。27代表の大トリが宮崎産業経営大(以下、産経大)の大幡主将で、ひと言だけこう言った。

「日本一、獲ります。以上です」

 これまで最多優勝の法政大や今大会の覇者・明治大の東京六大学野球連盟が25回の優勝を飾り、駒沢大や東洋大など多くの逸材を輩出してきた東都大学野球連盟も24回の優勝を果たすなど、この主要2連盟が圧倒的に実績を残している大会である。

 対して産経大が所属する九州地区野球連盟の優勝は1回のみ(2003年/日本文理大)。しかも産経大は初出場の昨年こそ、ベスト8に進んだが、今回が出場2回目の新興勢力である。にもかかわらず、主将から飛び出した”日本一宣言”に、三輪正和監督も「もっと現実的なことを言え」と苦笑いするしかなかった。

 だが、環太平洋大との初戦。ドラフト候補の右腕・杉尾剛史が6安打9奪三振で2失点完投すると、三輪監督が「雲の上のチーム」と語っていた東海大との2回戦も、1対1のまま延長にもつれる大接戦。結局、最後は連投の杉尾が11回にサヨナラ安打を浴びたが、タイブレイクはどちらに転んでもおかしくない展開で、産経大の健闘が光った一戦だった。

 だからこそ、大幡主将は悔しさが募ったのだろう。三輪監督が言う。

「そこ(日本一)までのチームじゃない。ですが、思った以上に成長してくれました。勝たせてやれなかったのは、監督の力不足です」

 産経大野球部の創部は、開学した1987年にさかのぼり、三輪監督も同時に就任した。ちなみに三輪監督は、日向学院高校(宮崎)2年の1980年に甲子園の土を踏み、立教大学時代は長嶋一茂の2学年上で、”4番・長嶋”の次を打つ5番・センターとして活躍した。

 卒業後は指導者を志し、大学に残り教職課程を履修すると、1年後、学校法人・大淀学園が創設する産経大の野球部監督の話が舞い込む。同法人は、鵬翔高校(前・宮崎中央高校)も運営している。「いずれは高校野球の指導を……」と考えていた三輪監督は、ふたつ返事で引き受けた。
 学校も野球部も、できたてホヤホヤ。「いい体しとるねぇ。野球やってみん?」と、キャンパスを行き交う学生たちに片っ端から声をかけるなど、部に勧誘することからのスタートだった。

 なんと集まったのは9人ギリギリ。グラウンドは系列の鵬翔高との共用で、平日は週に2日、土日は午前中しか使えず、それ以外は駐車場で素振りをしたり、トレーニングで汗を流すぐらいしかできなかった。それに練習試合をやってもらえば、ほとんどがコールドゲーム……。

 それでも1期生の9人で初出場した秋の九州地区選手権大会(以下、九州大会。当時は福岡から沖縄までの28代表によるトーナメント戦)では、初戦敗退ながら西日本工業大に0対1と善戦。1期生が4年になった1990年にはベスト4まで進出し、高校野球の指導者を夢見ていた三輪監督は「すっかり大学野球にのめり込みました」と笑う。

 その後も、春先に宮崎でキャンプを張る強豪大学の胸を借り、大型免許を取得した三輪監督がバスを運転し、積極的に遠征に出かけるなどして、少しずつだが着実に力をつけていった。

 創部20年目となった2007年春には初めて準優勝し、翌年秋も準優勝するなど、上位の常連となった。ただ、日本文理大や西日本工業大などの強豪がいる一発勝負のトーナメントである。全国への道は険しかった。

 だが2016年、大学選手権の出場枠が1つ増え、九州地区は北部(福岡、佐賀、長崎、大分)と南部(熊本、宮崎、鹿児島、沖縄)の両ブロックから代表を送り出すことになった。

 そして昨年、産経大は各県の1位校がリーグ戦で争う南部を制して、大学選手権に宮崎から初めての出場を果たした。その全国大会でもベスト8入りし、今年は連続出場を果たした。

 三輪監督は「やはり、南部から1代表になったのは大きいですよ」と振り返るが、躍進の理由をこう続けた。

「杉尾たちの世代が入ってきたことですね」

 特待制度は創部以来、採用していない。だが、もともと大学自体が地元での就職に強いこともあり、「産経大で野球をやりたい」と言う選手が増えてきた。杉尾と大幡のバッテリーもそうで、大幡は系列の鵬翔高出身である。だからこそ、産経大の練習環境を知っている大幡は、最初は他県の大学を目指していた。

「ただ杉尾が『宮崎で一緒に野球をやってくれないか?』と。小・中・高校とずっとライバルでしたし、杉尾がいれば全国大会も夢じゃないと思って……。それで産経大に進みました」

 グラウンドは相変わらず高校との共用で、授業があるために練習開始時に全員が揃わないこともある。だが、33人が入部した大幡たちの学年は、早朝7時半集合の自主練習に取り組むことで、環境のハンデを補っていった。

 杉尾というプロ注目の好投手の存在、そして昨年の全国大会の経験も大きかったと大幡主将は言う。

「昨年の選手権で九産大(九州産業大学)に負けたこともあり、一人ひとりの意識がさらに高くなりました」

 かつて宮崎に取材に訪れた時、三輪監督はこんなふうに語っていた。

「環境も、人材も、強豪にはかないません。でも、弱いなら弱いなりの戦い方があります。たとえばウチは、打順に関係なく全員がバントをするし、全力疾走を徹底する。そもそも、バッティング投手をしてくれる仲間のことを考えたら、凡打したからといってたらたらとは走れません。9人、ベンチ入りの25人……いや、部員全員で戦っているんです」

 監督自ら集めた9人の部員で始まった産経大野球は、いまや部員は103人になった。悲願の全国大会初制覇までの挑戦はつづく。