4月の下旬に、雑誌パブリッシャーのコンデナスト(Condé Nast)の新CEOとしてロジャー・リンチ氏が就任する。同氏に託された課題は山積みだ。現在55歳の同氏は、パンドラ(Pandora)やスリングTV(Sling TV)の最高責任者を務めた経歴を持つ。リンチ氏にとって雑誌業界は未知の分野だが、これまでも同氏は困難に繰り返し挑んできた。

コンデナストは4月4日、パンドラメディア(Pandora Media)の前CEOであるリンチ氏をボブ・サウアーバーグ氏の後任として発表した。リンチ氏に託された目標は、これまで地域的に限られていた同社の展開をよりグローバルにするとともに、ビジネスモデルの重心をこれまでの紙媒体から動画やクリエイティブのサービス、消費者収益へと移行し、そしてなにより2020年までに収益性を確保することだ。

レガシーパブリッシャー業界へと足を踏み入れたリンチ氏だが、パブリッシャー業界のベテランからは比較的無名の存在だった。米DIGIDAYのインタビューに対し、コンデナストの元役員や現役員も4日の発表までリンチ氏の名前を聞いたことがなかったと口を揃えるが、同時に、同氏の経験を鑑みれば適切な人事だという見解でも一致している。

元物理学者で「整理人」



リンチ氏と過去に働いた経験のある人物らも同様の見解だ。リンチ氏は赤外線誘導ミサイルシステムの設計に何年か携わったこともある元物理学者で、ダートマス大学のMBAで学んだ経歴を持つ。リンチ氏を知る人間は、同氏について理論整然とした冷静な人物で、細部まで突き詰める能力に長けていると同時に、何年も先までを見据えた大局的な視野を持ち合わせていると語る。観測筋は、コンデナストの見立てと同様に、こうした高い能力を持ち合わせた同氏であればパブリッシャー業界で働いた経験がなくとも乗り切れるだろうと考えている。

パンドラで同氏と働いた経験のある人物は次のように分析している。「リンチ氏は整理人ともいえるだろう。対象を整理しなおし、重要な点を見つけ出して実行するのがうまい」。

スティーブン・ニューハウス氏とジョナサン・ニューハウス氏は昨年冬に、コンデナスト社内向けに新しいCEOとなる人物探しを開始したことを伝えた。観測筋はメディア業界に同社のCEOに適した役員は少ないだろうと考えていた。リンチ氏は新CEOとしてコスト面の統制に加え、動画やクリエイティブサービス、消費者収益といった競争の激しい新興分野へと積極的な拡大に打って出る可能性がある。こうした新分野への展開は、新しい考え方や流通経路、組織や戦略に加えて大規模な移行の優先順位の管理が求められる。

数字で結果も残す



リンチ氏はキャリアのなかでこれらすべてに取り組んできた。90年台後半に同氏はヨーロッパでブロードバンドのインターネットプロバイダー、チェロ(Chello)の拡大に取り組んでいた。同社の前CTOであるスディール・イスパハニ氏によると、同社がその後15カ国の市場へと拡大していく過程でリンチ氏は多数の企業の技術とコンテンツ資産をひとつの商品にまとめあげる「政治的」で「極めて退屈」なプロセスを経験しているという。

「同氏が来たとき、チェロを取り巻く環境は非常に複雑だった」と、イスパニ氏は振り返る。「ゆるやかに関係性をもったさまざまな企業のCEOと交渉しなければならなかった」。

リンチ氏は、方向転換や新事業の拡大に取り組み、数字で結果も残すという業績もあげている。ディッシュ・ネットワーク(Dish Network)において同氏はスリングTV(Sling TV)の開発を監督した。スリングTVは従来型テレビ契約を打ち切る視聴者が増えるなかで、視聴者数を補填するスキニーバンドル(視聴できる番組数を減らして安く提供するプラン)として提供するストリーミングサービスだ。

リンチ氏が退社した2017年には、スリングTVの契約者は推定で145万人まで増加しており、現在は240万人に達している。スリングTVでリンチ氏は、ESPNのような一流テレビ局が参加に合意するまでローンチを待つという忍耐強い一面を見せている。

パンドラを作り変えた



パンドラのある関係者は「こと(テレビ)配信の将来において、同氏は優れた分析力を持っていた」と振り返る。

さらにリンチ氏は、大きな組織においても社員の士気を削ぐことなく人員削減することにも成功している。パンドラのエンジニアリングチームの再配置を任された同氏は、新分野への投資に伴うコストカットの一環として同チームの人員を5%削減した。前述の関係者によると、そんななかでも「不和をまったく生じさせない手腕は見事だった」という。

また、リンチ氏は数年かけて複数の収益源を同時に成長させるという経験も積んでいる。パンドラにおいて、同氏はラジオのストリーミング放送のパイオニアとしての同社の立場を確固たるものにしている。プログラマティック音声広告を扱う企業アズウィズ(AdsWizz)を1億4500万ドル(約160億円)で買収し、パンドラをメディア企業というよりもプラットフォームへと作り変えたのだ。

「困難ななかで最善を」



だが、複数の関係者によると、同氏がもっとも優先していたのは広告ではなく、パンドラの商品に対するオーディエンスのエンゲージメントを高めることだったという。同氏はパンドラのマーケティングインフラの使い方を見直し、オーディエンスがパンドラで過ごす時間を増やすために活用することを非常に重視していた。

パンドラがシリウスXM(SiriusXM)に買収される直前の四半期の業績報告を見ると、リンチ氏の担当下でパンドラのサブスクリプション商品であるパンドラプレミアム(Pandora Premium)の収益は1億ドル(約110億円)を突破し、同社の収益の3分の1を占めるまでに成長している。

これによりパンドラは黒字転換には至らないものの損失は縮小し、株価をわずかながら押し上げるまでになっている。

これについてウェドブッシュ・セキュリティーズ(Wedbush Securities)のエクイティ部門でマネージングディレクターを務めるマイケル・パッチャー氏は、パンドラがデジタルラジオおよびサブスクリプションで同社より大規模かつ資本に優れた他社と競合するという「困難な状況で、リンチ氏は最善を尽くした」と指摘する。

冷静に統制を行う



リンチ氏が就任したコンデナストも、パンドラと似た不利な局面にある。2017年に同社が計上した損失は1億2000万ドル(約132億円)とされている。2018年はコストカットと動画収益の増加により赤字は減少したものの、サウアーバーグ氏の戦略計画では2020年まで黒字化はできないとされている。リンチ氏も2020年における黒字化を目指しているが、オーディエンスと広告主の獲得における熾烈な競争が同氏を待ち受けている。そんな難局のなかでコンデナストを導くには、客観的で冷静な統制が求められる。同社にとって幸運なことに、リンチ氏はまさにそのような人物として知られている。

マッコーリー(Macquarie)のアナリスト、エイミー・ヨン氏は次のように語る。「リンチ氏は(ディッシュとパンドラの)両社で、財政を厳しく律しつつデジタル事業を成長させるという手腕を見せてきた。投資家はリンチ氏をそのような人物として評価しているはずだ」。

Max Willens(原文 / 訳:SI Japan)