川口 雅裕 / 組織人事研究者

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「労働は商品にあらず(Labour is not a commodity)」は、1944年のフィラデルフィア宣言にある大原則だ。労働者は売買の対象ではなく、生産のための手段・ツールでもない。資本家・経営者は、ひどく低い賃金、劣悪な労働環境、生活を犠牲にするような長時間労働などを排し、労働者を人間として尊重し、処遇しなければならないという考え方である。ワークライフバランス、ダイバーシティ、同一賃金同一労働など、昨今話題になっている働き方に関わるテーマも、この宣言が源流になっていると言ってもいい。

しかし、「労働者がコモディティではない」という状況は、経営がその考え方を転換し、具体的に改善策を講じれば実現できるというものではなく、働く側にも考え方の転換と具体的な行動・努力が求められる。強みや特徴があり、他に求めることができない労働者でいるためには(コモディティでない状態であるためには)、能力開発を図るなどの自助努力が欠かせないからだ。経営がいくら労働環境や処遇を改善したとしても、労働者が何の強みも特徴もないコモディティのようなレベルであったなら、コモディティとして扱わざるを得なくなってしまう。「労働は商品にあらず」の実現には、経営が労働者を商品扱いしないことと同時に、コモディティ労働者にならないようにする労働者自らの努力が求められるのである。

コモディティ労働者を減らすのは、社内に多様な強みや特徴を蓄えることであり、経営にとって大きなメリットとなる。市場や顧客の多様性に柔軟かつスピーディに対応するには、内部の多様性が重要になるからだ。また、時代が変化して、企業に異なる強みが求められるようになったときも対応しやすい。似たようなコモディティ労働者ばかりでは、市場にマッチしているときはいいが、環境が変われば共倒れしてしまいかねない。コモディティ労働者でないことは、労働者自身にもメリットが大きい。まず、報酬が高くなる。コモディティ労働者の賃金が低いのは、ありふれた商品の値段が下がっていくのと同じだ。また、意思次第でいつまでも働きつづけられる。コモディティ労働者は年齢などの属性で比べられて職の安定を失いがちだが、独自の強みや特徴があれば社内はもちろん社外からも求められ続けるだろう。

しかしながら現実は、企業の人事施策も労働者自身も、むしろコモディティ労働を志向しているようだ。研修などはその典型である。全社員あるいは、階層別や職種別に一律の内容の研修を施す。必要最低限のレベルのものは分かるとしても、この階層・職種に必要なのはこのような内容の知識・スキル・意識であると定め、それを一様に課して終わりとする。そこには、多様性を生み出すという発想はなく、それぞれの個性の差異化・伸長という目的もなく、結果は当然、コモディティ化となって現れる。少し俯瞰してみれば、研修の流行りすたりに合わせるように、多くの会社が同じような内容の研修を実施してきているから、産業界全体でコモディティ労働者を作っているようにも感じてしまう。

このような研修を受けて、それで学んだような気になっている労働者も多い。皆が知っていることを同じように知ること、皆ができることを同じようにできること、奨励されている資格を自分も同じように取得すること。それらに一生懸命になるだけ、それで十分だと考えて、自分らしい学びをしないのなら、それはコモディティ労働者へまっしぐらと言っていい。

同じ発想で作成される「等級定義」「評価基準」も、コモディティ化に拍車をかける。各役職に求められる能力などを定義し、それに基づいて昇格・昇進が検討されたり、定期的な評価やそのフィードバックが行われたりする。この反復・継続は、従業員に対して会社が定めたあるべき姿、求める人材像を刷り込むことそのものであり、「等級定義」や「評価基準」には書かれていない(漏れている)要素を忘れさせるものであって、労働者のコモディティ化の促進にほかならない。ダイバーシティを掲げながら(多様性が重要だと少なくとも表面的には言っているのに)、「等級定義」「評価基準」によって評価・処遇を行うのは、大きな自己矛盾であると気づかないのが不思議である。

正社員制度と終身雇用・年功序列、それを支える職能資格制度といった日本特有(日本だけ)の仕組みでは、コモディティ化は避けられないという指摘もあるだろう。日本の労働法制は、原則として解雇を禁じている。また、雇用期間の定めのない「正社員」として、最後まで責任を持って会社が面倒をみるというのが、日本の労働慣行である。そのためには、強みが活きる特定の業務しか行わない労働者よりも、どんな時代になっても、一定のレベルで何でもこなせる労働者ほうが、会社にとっては都合がよい。もちろん、本人にとっても、苦手なことをなくしておけば、あるいはとりあえず何でもこなせるようにしておけば、会社の中では仕事がなくならないから都合がよい。そう考える両者にとっては、「等級定義」「評価基準」をもとに運営される職能資格制度は合理的であり、したがって、コモディティ化は避けようのない、仕方のない結果なのだろう。

しかし、だからと言ってこのまま労働者のコモディティ化が行われつづけ、本来的な意味での「労働は商品にあらず(Labour is not a commodity)」が、いつまでも実現しなくてよいわけがない。第一に、日本も参加するILO(国際労働機関)による宣言を実質的に、無視することになる。第二に、コモディティ化やその原因となっている仕組みの継続は、ダイバーシティやワークライフバランス、同一労働同一賃金など、労働や人事に関わる現代の重要課題の解決・実現が遠のくことを意味する。第三に、社内の強み・特徴の多様性は、多様化するマーケットにおける企業の競争力であり、コモディティ労働は弱みとなる。エッジの立った商品やサービスの開発、新結合たるどうイノベーションの創出は、コモディティ労働者の集団には期待できないからだ。第四に、労働者の幸福感が高まらない。得意分野・専門性があり、周囲から期待され、それに応えて感謝されたり、さらなる成長を実感できたりするから仕事が楽しく、労働が人生の幸福感を高めることに寄与する。コモディティ労働では、このようにはならない。

もちろん、労働法制や労働慣行から考えれば、すぐに労働者のコモディティ化を止めるのは難しいだろう。それでもまずは、そのような背景(コモディティ化が進む理由)と現実(そのデメリット)について、経営も従業員もしっかり受け止めておくべきだ。また、ダイバーシティを掲げながら、「等級定義」「評価基準」によって評価・処遇をしたり、画一的な研修を実施したりするのは、大きな自己矛盾であると気づかねばならない。そして、経営や人事部は、従業員のコモディティ化を促進してしまっている仕組みを部分的にでもやめること、コモディティ化を防ぐ策を少しづつでも実行していくことが必要である。もちろんそれを待つのではなく、労働者自身が自らの状況を客観視し、コモディティではなく差別化された人材になる重要性を認識して、周囲とは異なる価値ある学びを実践に移していかねばならない。

【つづく】