障害者でも障碍者でも違いは無い/純丘曜彰 教授博士
どうしてこういう半端な書き換えをもっともらしくするのか、理解に苦しむ。「害」であろうと、「碍」であろうと、漢語としては、妨げる者、と、まったく意味が変わらない。「者」という字が主語、動作主体を意味する以上、動詞字そのものを換えないと、話にならない。
当用漢字がどうこうではなく、かつて「障碍」という語が使われていたときも、現代の「障害」と同じ意味で、安眠妨害=安眠妨碍など、互換性があったのだから、これを旧字に戻したところで、意味が正されるわけではない。「害」は傷つけるで、「碍」は妨げるだから違う、などというのは、学の無い者のシロウト騙し。「要害」などのように、害の字は、傷つけるではなく、妨げる、という意味もある。
問題は、障害という事象に直接に「者」をつけてしまったこと。そのせいで、どう字を変えようと、障害がある人、という意味ではなく、障害する者、という意味になってしまった。命名者にまともな漢学の素養があったら、きちんと「者」の本来の動詞を別に補って「有障害者」ないし「帯障害者」としたはずだったのだが。それも、もともと「障」と「害(碍)」とは二字に語感を整えるためだけに重複する意味の字を使っているのだから、別に動詞を付けるなら、「有障」「帯障」として二字に戻し、これに動作主体とする「者」を付け、「有障者」「帯障者」でもいい。
だが、もっと根本のところには、「健常者」でなければ、つまり、普通でなければ「障害者」だ、まともな人間ではない、という日本独特の隠れた強烈な差別がある。近ごろは、平均体重からちょっとでも外れただけでも、健常者ではない=病気だ、とレッテル張り。だが、目が見えないにしても、耳が聞こえないにしても、車イスを使っていても、人工透析に通っていても、ペースペーカーを入れているにしても、それはそれでやっていけているのであれば、個性、ないし、夜、羊を数えないと寝られないのと同じような個人のプライベートな生活習慣の問題であって、そこに他人が口を挟むまでもなく、それもまあ「健常」ではないのか。にもかかわらず、あいつは障害者だ、などと一括りにして、学校や職場での関係のない物事でまで、とりたてて人として区別して排除する方が異常だ。
もちろん周囲や社会の補助や配慮が必要という意味でなら、わからないでもない。しかし、それなら、それは、なにも当人の心身の「障害」に限るまい。シングルの家庭で、子供が長期療養中だとか、LGBTで、トイレや更衣室でトラブルにされがちだとか、むしろ周囲の方が原因の、いろいろな事情がありうる。となると、そもそも「障」だの「害」だのと、外から勝手に当人が問題の元凶であるかのように決めつけることの方が、まちがっている。この意味で、周囲や社会の側こそが問題解決の当事者であることはっきりさせるように、対象を「要慮者」とし、色覚要慮者とか、日本語要慮者とか、事情ごとに周囲や社会が(当人ではない!)相談すべき専門家がわかるようにしておくのが筋。
ようするに「障害」などというのは、もともと当人の属性ではない。その人は、その人として、そのあるようにあるだけ。それをまともに受け入れない、受け入れられない周囲や社会こそ、その人にとっての文字通りの「障害」。にもかかわらず、それを、おためごかしに文字面を弄ぶのみで、あいかわらず自分たちの責務を先送りにするようなやり方は、卑怯卑劣。
(by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学、『百朝一考:第一巻・第二巻』などがある。)